《官能小説》『畳を上げた七日間』第4話|真夜中の台所の板の上で、妻が夫に跨った
今夜は台所で全部やると決めて、勝手口の鍵を閉め、真澄は直人の手首をつかんだ。
真夜中の台所には、二人しかいなかった。
冷蔵庫の取っ手に触れた手を、そのまま引き戻した。
「なに」
「開けないで」
「腹、減ったんだよ」
「わたしも減った」
「じゃあ開けさせろよ」
「開けるのはいい。作るのはあなた」
「は?」
冷蔵庫の前で手首をつかむ
一時を過ぎていた。
夕飯が早かった。一日じゅう板を運んで、二人とも疲れていた。

「作るって、俺が」
「うん」
「作ったことないぞ」
「知ってる」
「十八年ないぞ」
「それも知ってる」
「なんで今日なんだ」
「今日がいいから」
「理由になってない」
「じゃあ、聞くなよ」
「……それ、俺の台詞だろ」
「借りた」
わたしは、つかんだ手首を離さなかった。
三十八の手首は太い。汗で少し滑る。
今日は畳屋が来なかった
「今日、静かだったね」
「乾かす日だからな」
「畳屋、来なかった」
「来ない日が一日ある」
「予定表に書いてあった」
「冷蔵庫に貼ってあるやつな」
「四日目、乾かす」
「そう書いてあった」
朝から、家じゅうの窓を開けた。
四畳半も、寝室も、板がむき出しのままだ。
「扇風機、二台回した」
「向かい合わせにな」
「あれ、効いた?」
「効いたよ。板が乾いた」
「匂いが変わったの、わかった?」
「わかった」
「朝は土くさかった」
「床下の匂いだな」
「昼は木の匂い」
「乾いてくるとそうなる」
「夕方には、もうしなかった」
「乾いたってことだろ」
仕事を休んだ理由を聞く
「今日、なんで休んだの」
「聞くなよ」
「二回目」
「なにが」
「聞くなよ、が二回目」
「数えんな」
十八年、この人は理由を言わない。
言わない代わりに、有給を取る。
「有給、残ってるの?」
「残ってる」
「何日」
「言わない」
「言ってよ」
「……十二日」
「多いね」
「使わなかったからな」
「明日も休む?」
「休む」
「明後日は」
「休む」
「全部使う気?」
「七日ぶんだけだ」
昼に客間の新しい畳で寝転がった
昼のことを、板の上で思い出していた。

「昼、寝転がったね」
「客間な」
「三日置いたから、もう使っていいって」
「畳屋がそう言ってた」
「青い匂い、まだ強い」
「新品だからな」
「あなた、寝転がって黙ってた」
「気持ちよかったんだよ」
「新しい畳、冷たかった」
「冷たかったな」
「古いのは、ぬるかった」
「体温吸ってたんだろ」
「十八年ぶん?」
「十八年ぶんな」
頬に、い草の目が当たった。
その目が、天井の光を横に返していた。
十年後の二人を想像した
「あのとき、変なこと考えた」
「なに」
「十年後」
「十年後?」
「四十六と四十八」
「そんな歳になるのか」
「なるよ」
「早いな」
「そのころには、この畳もぬるくなってる」
「体温吸ってな」
「二人で吸わせるってこと」
「そうなるな」
「わたし、四日前まで十年後のこと考えたことなかった」
「なんで」
「考えても、同じだと思ってたから」
「今は」
「同じじゃないと思ってる」
旅行の話を三回した
「旅行、行きたい」
「急だな」
「十八年で三回しか言ってない」
「数えてたのか」
「数えてた。三回とも流れた」
「金がなかったからな」
「学費と、ローンと、あなたの給料」
「それで頭がいっぱいだったな」
「わたしはずっと計算してた」
「知ってる」
「知ってたんだ」
「電気代の紙、見てたろ」
「見てた」
「あれ、俺も見てた」
「言ってよ」
「言えなかった」
「四回目は、行く」
「行くか」
「決めた?」
「決めた」
テーブルを廊下に出す
夜になって、寝る場所の話になった。

「客間、使えるよ」
「使えるな」
「でも、そこでは寝ない」
「なんで」
「もったいない」
「意味わからん」
「最後にとっておくの」
「寝室が最後だろ」
「客間も、まだ早い」
「じゃあ今日はどこだ」
「台所」
「板だぞ」
「昨日も板だった」
「物置な」
「台所のほうが広い」
「四畳あるからな」
二人で、小さいテーブルを廊下に出した。
椅子は、三日前から物置に移したままだ。
テーブルが出ると、四畳の板の間が急に広くなった。
「広い」
「物がないと広いって、一日目にも言ったな」
「三日たっても同じこと言ってる」
「うちは物が多い」
「多い」
十八年、ここはわたしの場所だった
台所は、わたしの場所だった。
この人がここに立ったのは、数えるほどしかない。
麦茶を取るとき。水を飲むとき。ゴミを出すとき。
「あなた、ここで料理したことある?」
「ない」
「一度も?」
「一度もない」
「十八年」
「十八年な」
「わたしは一日三回立った」
「三回か」
「三百六十五日、十八年」
「計算するなよ」
「したよ。二万回近い」
「……二万回」
「言ったら、少し腹が立ってきた」
「だろうな」
「なんか言って」
直人が、板の上であぐらをかいた。
言葉が出ないとき、この人は返事をしない。
そのぶん、あとで動く。
「よくやったよ」
「え」
「よくやった」

そう言われたのは、十八年で二度目だった。
一度目は、娘が生まれたとき。
二度目が、今夜、台所で。
「泣くぞ」
「泣くなよ」
「泣かない。でも、二回目だからね」
「数えてんのか」
「数えてる」
直人が鍋に水を入れる
「で、なに作るんだ」
「うどん」
「うどんしかないのか」
「あるけど、うどんがいい」
「なんでうどんなんだ」
「あなたでも作れるから」
「馬鹿にしてるだろ」
「してる」
直人が立ち上がって、流しの前に立った。
鍋を出して、水を入れた。
コンロの火をつけると、青い炎が上がった。
暗い台所で、その炎がいちばん明るかった。
「電気つけないの?」
「つけなくても見える」
「換気扇の豆球だけだよ」
「じゅうぶんだ」
オレンジの豆電球と、青い炎。
その二つで、たしかにじゅうぶんだった。
後ろ姿を見ている
わたしは、流しにもたれて見ていた。
十八年、この角度からこの人を見たことがなかった。
「見るなよ」
「見る」
「やりにくい」
「いいから」
肩幅が、十八のころより厚い。
シャツの背中に、汗の染みが縦にできている。
首のうしろが、日に焼けて黒い。
「首、焼けてるね」
「外回りだからな」
「触っていい?」
「なんで」
「触りたいから」
返事はなかった。
わたしは、指でその首を撫でた。
ざらついていた。
「くすぐったい」
「我慢して」
「火、見てるんだぞ」
「見てて」
水が沸くまで音が変わる

鍋の底から、細かい泡が上がってきた。
「音、変わるの知ってる?」
「変わるのか」
「最初は静か。途中でざわざわする。沸くと落ち着く」
「そんなの聞いたことない」
「十八年、テレビの音のほうが大きかったから」
「……そうだな」
「包丁の音も、聞いたことないでしょ」
「ない」
「換気扇も」
「ない」
「冷蔵庫の唸りも」
「今、聞こえてる」
「今夜だけね」
「今夜からだろ」
その言い方に、わたしは黙った。
黙ったのは、うれしかったからだ。
うどんが茹だるまで三分待つ
うどんを入れて、三分待った。
湯気が、まっすぐ顔に当たった。
夏の台所で鍋の前に立つのは、暑い。
前髪が、額に貼りついた。
「顔、濡れてる」
「湯気だよ」
「汗だろ」
「両方」
「拭くか」
「拭いて」
直人が、シャツの裾でわたしの額を拭いた。
木綿がぬるかった。
その裾に、汗と湯気が混ざって染みた。
「シャツ、汚れた」
「洗えばいいだろ」
「洗うのはわたしだけど」
「明日は俺が洗う」
「言ったね」
「言った」
「数えるよ」
「数えろ」
同じ皿から食べる
板の間に、鍋ごと置いた。

テーブルは廊下だ。皿も、一枚しか出さなかった。
「皿、一枚?」
「うん」
「二枚出せよ」
「出さない」
「なんでだよ」
「布団と同じ」
「……ああ」
「わかった?」
「わかった」
十八年、この家で同じ皿から食べたことはない。
箸が、二回ぶつかった。
三回目に、この人が箸を引いた。
「引かないで」
「ぶつかるだろ」
「ぶつかっていい」
「行儀悪いぞ」
「今夜は悪くていい」
汁が板にこぼれる
うどんの汁が、板にこぼれた。
「こぼした」
「板だから拭けばいい」
「畳じゃなくてよかったな」
「明日も板だよ」
「縁側か」
「縁側」
わたしは、布巾でこぼれた汁を拭いた。
板が、そこだけ濃い色になった。
拭いた跡が、楕円になって残った。
「跡、残った」
「乾けば消える」
「消えないでほしい」
「変なやつだな」
「変でいい」
「一日目から変だよ、お前」
「お前って言った」
「言ったか」
「久しぶり」
「そうか」
「もう一回言って」
「お前」
「……なんか、腰にくる」
「なんだそれ」
毛布を三枚敷く
板の間に、毛布を三枚敷いた。

「三枚?」
「昨日、二枚で腰やられた」
「物置な」
「板が硬すぎた」
「三枚あれば大丈夫か」
「たぶん」
「たぶんか」
「試せばわかる」
「試すって言ったな」
「言った」
わたしは、毛布の上に座った。
直人が、その前に立ったまま動かなかった。
「座らないの?」
「座る」
「じゃあ座って」
「……座る」
座ったのに、こっちを見ない。
「なんで見ないの」
「見てるよ」
「見てない」
「見てる。半分だけ」
換気扇の豆球は、フードの下にひとつだけだ。
オレンジの、頼りない光だ。
その光の下だと、顔の半分しか見えない。
「三日目は明るかったね」
「物置な。裸電球だった」
「今日は半分」
「半分だな」
「半分でも、目は見える」
電気を消す前に聞く
わたしは、聞いた。
「いい?」
「いいのか、って聞いてんのはこっちだ」
「四日連続で同じこと言ってる」
「四日連続で同じこと聞くからだろ」
「じゃあ、今日はわたしが答える」
「答えろ」
「いい。わたしから誘ってる」
「毎日そう言うな」
「毎日言う」
「……こっちの身がもたない」
「もたせて」
「言うようになったな」
「四日でね」
「三日前は言えなかっただろ」
「言えなかった」
「今は言える」
「今は言える。もっと言おうか」
「やめろ」
「欲しい」
直人の喉が、はっきり動いた。
髪に手が入る
湯気を浴びた髪が、まだ湿っていた。
台所で立つと、いつもこうなる。十八年、毎晩こうだった。
その髪に、この人が手を入れた。

指が、耳のうしろまで滑った。
そこだけ、汗が冷えていた。
「冷たい」
「そこだけね」
「他は熱い」
「熱いよ。ずっと立ってたから」
指が、耳のうしろから首すじへ下りた。
爪が短い。この人は昔から爪を短く切る。
その短い爪が、首の皮膚を軽くひっかいた。
「ひっかいた」
「悪い」
「悪くない」
「二回目だな、それ」
「四日で四回言ってる」
「数えすぎだろ」
「数えるのは、あなたにうつされた」
手から出汁の匂いがする
自分の手から、出汁の匂いがした。
醤油と、鰹と、少しの油。
十八年、この匂いを落としてから寝ていた。
「手、くさい」
「くさくない」
「出汁の匂いする」
「するな」
「嫌?」
「嫌なわけないだろ」
「本当に?」
直人が、わたしの手首を持ち上げた。
そのまま、指の付け根に鼻を近づけた。
「嗅がないで」
「嗅ぐ」
「恥ずかしい」
「うちの匂いだ」
「そんなのでよく平気だね」
「平気だよ」
それから、この人はわたしの指を口に入れた。
舌が、指の腹をゆっくり舐めた。
温かくて、濡れていた。
「……ちょっと」
「なんだよ」
「それ、やばい」
「やばいのか」
「やばい。腰が抜ける」
「抜けろ」
指を吸われて、背中が勝手に反った。
十八年、そんなことをされたことがなかった。
服を脱がせる
「脱がせて」
「自分で脱げよ」
「あなたが脱がせて」
直人が、わたしの襟に手をかけた。
家で着ている木綿のワンピースだ。ボタンが前に五つある。
上から二つ外したところで、手が止まった。
「止まらないで」
「急かすなよ」
「急かす」
三つ目。四つ目。五つ目。
肩から布が落ちて、腕にひっかかった。

換気扇の豆球が、肩の丸みだけをオレンジに照らした。
「見えてる」
「半分な」
「半分でも恥ずかしい」
「隠すか」
「隠さない」
「じゃあ隠すなよ」
下着も、この人が外した。
留め具の場所が、四日目でわかってきたらしい。
「早くなった」
「覚えた」
「一日目は手こずってた」
「言うなよ」
舐められて声が出る
首から、鎖骨。
鎖骨から、肩。
四日目になって、この人の順番が決まってきた。
順番があるということは、覚えたということだ。
「順番、あるね」
「あるか」
「首、鎖骨、肩」
「意識してない」
「してなくても同じ」
肩のあとは、胸に下りた。
乾いた唇が、乳房の下側をなぞった。
そのまま乳首を口に含んで、吸った。
「あ」
「痛いか」
「痛くない」
「じゃあ、続けるぞ」
「続けて」
舌が、円を描いた。
吸われるたびに、腰の奥がきゅっと縮んだ。
「声、出てる」
「出してる」
「近所」
「二軒隣まで空き家」
「そうだった」
「一日目に自分で言った」
「言ったな」
「じゃあ出す」
わたしは、我慢するのをやめた。
やめると、喘ぎ声が台所の天井に当たって返ってきた。
「うるさくない?」
「うるさくない」
「本当に」
「もっと出せよ」
「そんなに聞きたいの」
「聞きたい」
「十八年、聞かせなかったから」
「これから聞かせろ」
片方の胸を揉まれながら、もう片方を吸われた。
掌が厚いから、押してくる力が強い。
「痛くない?」
「痛くない。強くていい」
「強くか」
「強く」
言われたとおりにされて、尻が板から浮いた。
「浮いた」
「言わないで」
「勝手に浮いたぞ」
「わかってる」
「素直な体だな」
「うるさい」
板が冷たくて掌が熱い
背中が、毛布ごしに板についた。
台所の板は、物置より冷たい。
水を使う場所だから、湿気が多い。その湿気が板を冷やしている。
汗をかいた背中に、その冷たさが直接来た。
「背中、冷たい」
「毛布三枚でもか」
「三枚でも冷たい」
「じゃあ、こっちは熱いだろ」
腰に回った掌が、熱かった。
さっきまで、うどんの鍋を持っていた掌だ。
「熱い」
「鍋のせいだ」
「そのまま置いてて」
板の冷たさと、掌の熱が、背中の表と裏で分かれた。
その差が、はっきりわかった。
太ももを開かせる

掌が、腰から太ももに下りた。
内側の皮膚は薄い。そこだけ、汗が溜まっていた。
「そこ、汗かいてる」
「言わないで」
「そっちが先に言うだろ、いつも」
「今日は言わない」
「じゃあ、こっちが言う」
「言わないでって」
「濡れてる」
顔が、一気に熱くなった。
「言った」
「言ったよ」
「馬鹿」
「怒るなよ」
「怒ってない。恥ずかしいだけ」
「恥ずかしいのか」
「恥ずかしい。でも、やめないで」
指が、下着の縁をなぞった。
そのまま、脇に寄せて外した。
「持ってて」
「なんで」
「その手、動かしてほしいから」
言ってから、自分の言葉に驚いた。
三十六の妻が、真夜中の台所で、そんなことを口にした。
「言うようになったな」
「四日でね」
指が、ゆっくり入ってきた。
乾いた指が、濡れたところに入ると、音がする。
その音が、換気扇の音の上に乗った。
「音、してる」
「してるな」
「聞かないで」
「聞くだろ、これは」
「意地悪」
「四日目だからな」
自分から跨る
わたしは、体を起こした。

直人を、毛布の上に仰向けに倒した。
「なんだよ」
「動かないで」
「おい」
「今日はわたしがやる」
シャツを脱がせて、ズボンも下ろした。
三十八の体は、肩から腹まで一続きに厚い。
運動なんてしていないのに、硬い。
「硬い」
「なにが」
「全部」
「全部かよ」
わたしは、その腰に跨った。
自分から跨るのは、十八年で初めてだった。
「重い?」
「重くない」
「太った」
「知ってる」
「言わないでよ」
「そっちが言った」
膝を板についたまま、腰を落とした。
熱いものが、体の奥に入ってくるのがわかった。
「あ……」
「大丈夫か」
「大丈夫。待って」
「待つ」
「動かないで、少しだけ」
「動かない」
その少しのあいだ、二人とも黙っていた。
冷蔵庫の唸りが、板を伝って膝に届いた。
低い音だ。振動が、床から体に入ってくる。
十八年、この音のそばで料理をしてきた。
繋がったまま聞くのは、初めてだった。
腰を動かす
わたしは、腰を動かしはじめた。
最初はゆっくり。板が、体重の移るたびに軋んだ。
「板、鳴ってる」
「古い家だからな」
「物置も鳴った」
「台所のほうが鳴るな」
「うるさい?」
「うるさくない」
「じゃあ、もっと動く」
膝が板に当たって痛い。
毛布が、途中でずれていた。
「膝、痛くない?」
「痛い」
「毛布、直すか」
「直さないで」
「痛いんだろ」
「痛いけど、今止まられるほうが困る」
「困るのか」
「困る」
「じゃあ止めない」
速くすると、板の軋みも速くなった。
喘ぎ声が、換気扇の単調な音の上に乗った。
換気扇のファンは、低くて、平らな音だ。
なにも隠してくれない。
「隠れない」
「なにがだ」
「わたしの声。換気扇じゃ隠れない」
「隠さなくていい」
「聞こえてる?」
「聞こえてる」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶだ」
そう言われて、体の奥がまた締まった。
汗が落ちる
汗が、額から顎を伝って落ちた。
落ちた先は、この人の胸だった。
「垂れた」
「知ってる」
「拭く?」
「拭くな」
「なんで」
「そのままがいい」
わたしの汗が、この人の皮膚の上で光っていた。
オレンジの豆球が、その一点だけを照らしている。
「見て」
「見てる」
「ちゃんと見て」
「見てるって」
「三日目も、そう言った」
「物置な。電球つけたままだった」
「今日は半分」
「半分でも見える」
「じゃあ、明かり要らないね」
「要る。見えないと困る」
流しに背中がぶつかる
途中で、体の位置が変わった。

押されて、背中が流しにぶつかった。
ステンレスは、板より冷たい。
「冷たっ」
「悪い」
「悪くない。びっくりしただけ」
「離れるか」
「離れないで」
冷たい金属が、汗をかいた背中に貼りついた。
前は熱くて、うしろは冷たい。
その差で、皮膚がぴりぴりした。
「はさまれてる」
「なにに」
「冷たいのと、熱いのに」
「どっちが好きだ」
「両方」
「欲張りだな」
「四日前は、なんにも欲しがってなかったのに」
「今は?」
「全部欲しい」
板の上に戻される
腕を引かれて、板の上に戻された。
ステンレスの冷たさが、背中に線になって残っていた。
その線を、この人が指でなぞった。
「線、ついてる」
「わかるの?」
「見える。四角い跡だ」
「消える?」
「消えるだろ」
「消えないでほしい」
「四日で三回目だな、それ」
「なにが」
「消えないでほしい、って」
「汁の跡と、これと」
「あと一回ある」
「なに」
「言わない」
そのまま、上から入ってきた。
さっきより深かった。
「深い」
「痛いか」
「痛くない。奥が」
「奥が?」
「言わせないで」
「言えよ」
「……奥が、いい」
言った瞬間に、この人の腰が止まらなくなった。
名前を四回呼ばれる
「真澄」
「なに」
「真澄」
「二回目」
「真澄」
「三回」
「真澄」
「四回」
「数えるのやめろ」
「やめない」
「集中できないだろ」
「じゃあ黙って動いて」
黙って、この人は動いた。
一日目は、名前を三回呼ばれた。
四日目は、四回になった。
一日に一回ずつ増えている。
明日は五回だ。
「明日は五回だからね」
「なんの話だ」
「名前」
「そんな決まりあるか」
「今つくった」
蛇口から水が一滴落ちる
蛇口から、水が一滴落ちた。
十八年、この蛇口はときどき漏れる。
締めても、しばらくすると落ちる。
暗い台所で、その音がやけに大きく響いた。
「水」
「漏れてるな」
「明日、直して」
「直す」
「今?」
「今は無理だろ」
「そうだね」
一滴、また一滴。
「三秒に一回だ」
「数えたの?」
「数えた」
「こんなときに」
「そっちがうつしたんだろ」
その音を数えながら、わたしは腰を持ち上げられた。
太ももの裏を掴まれて、板から尻が浮いた。
「浮いてる」
「持ってる」
「重いでしょ」
「重くない」
「嘘」
「嘘じゃない。鍋のほうが重い」
「うどんの鍋?」
「そうだ」
笑ってしまって、そのまま息が上がった。
笑いながら喘いだのは、たぶん人生で初めてだった。
声が出なくなる
途中から、言葉が出なくなった。
出るのは、息と、声だけになった。
「真澄」
「……」
「真澄」
「なに」
「そのまま出せ」
「出てる」
「もっとだ」
換気扇の音が、遠くなった。
冷蔵庫の唸りも、蛇口の水も、聞こえなくなった。
聞こえるのは、板の軋みと、自分の声だけだ。
背中が反って、爪が板をひっかいた。
絶頂は、いきなり来た。
体の奥から膝の裏まで、一続きに抜けていった。
しばらく、指が開かなかった。

頼むと言われた
汗が引くまで、二人で板に転がっていた。
「真澄」
「なに」
「頼む」
「なにを」
「明日も」
わたしは、少し黙った。
十八年、この人が頼みごとをしたのは、たぶん十回もない。
「頼むって言った」
「言った」
「珍しい」
「珍しいか」
「十回もないよ、十八年で」
「そんなもんか」
「そんなもん」
「じゃあ、十一回目だ」
「明日も頼まれてあげる」
「明後日は」
「先に言わないで」
「言っとく」
六通目の手紙を開ける
体を起こして、六通目の封筒を出した。
物置で見つけた七通のうちの、六番目だ。
宛名は、まだ〈桐生 真澄 様〉のままだった。
「桐生さん宛」
「そりゃ、結婚する前だからな」
「ゆうべ、その名前で呼ばれた」
「呼んだな」
一日一通と決めていた。
「開けるよ」
「開けろ」
〈式の日、雨だったら傘は俺が持つ。晴れたら真澄が日傘を持てばいい〉
「日傘」
「持ってなかっただろ、あの日」
「忘れた」
「忘れたのか」
「快晴だったのに、忘れた」
「五月だったな」
「十八年前の五月」
「暑かった」
「あなた、汗だくだった」
「新品の礼服だからな」
「日傘、覚えてたんだ」
「書いたのは俺だ」
「そうだけど」
「写真に写ってる」
「どの写真」
「物置の八箱目だ。アルバムが四冊入ってる」
「四冊も?」
「四冊だ」
「開けたことない」
「明日開けよう」
「明日は縁側だよ」
「縁側で開ける」
四時に空が薄くなる
四時ごろ、窓の外が薄くなった。
台所の窓は東を向いている。
十八年、朝はここがいちばん先に明るくなる。

「明るくなってきた」
「四時か」
「寝てない」
「寝てないな」
「四日連続」
「よく体がもつな」
「もたない。でも眠くない」
「同じだ」
明るくなった台所に、鍋が洗われずに置いてあった。
皿が一枚と、箸が二膳。
その光景を、しばらく二人で見ていた。
「洗い物」
「俺がやる」
「いいよ」
「やる」
直人が立って、鍋を洗いはじめた。
背中を見ながら、わたしは毛布に座っていた。
十八年、この人が流しに立ったところを見たことがなかった。
今夜だけで、二回見た。
四日で五回謝られた
「悪かったな」
「なにが」
「十八年、なんもしなかった」
「四日で五回目」
「なにがだ」
「謝られたのが」
「数えてんのか」
「数えてる。十八年で十回もなかった人だよ」
「そうだったか」
「そう」
「じゃあ、あと五回で追いつくな」
「追いつかなくていい」
「なんでだ」
「謝ってほしかったわけじゃない」
「じゃあなんだ」
「謝れるようになったのが、うれしい」
直人は、鍋を洗いながら返事をしなかった。
そのぶん、洗い方が丁寧になった。
明日は縁側で雨戸を閉める
「明日、縁側」
「板だな」
「毛布、また三枚いる」
「持ってくる」
「あと、雨戸」
「雨戸?」
「閉めたことある?」
「台風の前だけだな」
「十八年で、それだけ」
「動くのか、あれ」
「錆びてると思う」
「油さすか」
「さして。閉めたいの」
「なんで閉めるんだ」
「外から見えないようにするため」
「……なるほどな」
「わかった?」
「わかった」
出ていく前に、こぼれた汁の跡を見た。
まだ、乾いていなかった。
濃い楕円が、板の真ん中に残っている。
これは、昼には消えるだろう。
消えたら、板はまた新しい畳の下に隠れる。
隠れても、そこにあることは知っている。
十八年、知らなかったことだ。
四日で、知った。
――――
『畳を上げた七日間』は全6話、ぜんぶ無料で読めます。目次はこちら。
――――
※20歳以上の登場人物によるフィクションです。文章と画像は生成AIで作成しています。
続きの夜は、¥300の短編で
