成田空港の歴史〜空と大地の歴史館
1.三里塚闘争の場所
私が今、単身赴任で住んでいる場所は成田市の三里塚(さんりずか)という所です。昭和世代なら殆どの人が知っている三里塚闘争で有名な所です。
成田空港のA滑走路から数百メートルの場所なので、常にジェット機の音が・・・。
成田に住民票があると各種補助金が年間数万円もらえるそうで。航空機騒音地域補助金、民家防音工事補助制度、再助成制度(改築時)。なんか利権?お金の匂いがプンプンしますが、それだけ地元住民に迷惑をかけた土地なんでしょうな。今は三里塚と読めない人も増えてきました。


この頃は激しかった・・・・
ちなみにこの地域は、空港関係者や外国人の方が非常に多く暮らしており、富里市は県内の市町村の中で外国人比率が最も高く、なんと8.9%にのぼります。次いで成田市が7.0%、八街市が5.9%と続いています。
在住されているのは、主にベトナム、スリランカ、フィリピン、中国、ネパール、タイなどの国の方々で、外国人が多いからといって特に治安が悪いと感じたことは、今のところありません。
ただ、知人が交通事故を起こした際、相手の方が外国人で自動車保険に未加入だったため、対応に手間がかかったと聞いています。
言葉の壁などもありますので、なるべくトラブルに巻き込まれないよう、車の運転には普段よりもいっそう注意を払うようにしています。もっとも、交通事故や夜間のトラブルに気をつけるのは、この地域に限らず他県でも同じことですね。

2.成田空港の歴史が分かる〜空と大地の歴史館
三里塚闘争とは実際どんな感じだったのかが分かる歴史館があります。夏休みに航空科学博物館に行く機会があれば同じ敷地内ですので是非、お立ち寄りください。申し出れば案内もしてくれます。しかも無料です。


最初のボタンの掛け違い
そもそも、なぜ三里塚だったのでしょうか。戦後日本の経済成長がピークを迎えた1960年代、政府は羽田空港の拡張が限界に近いことから、新たな国際空港の建設を急いでいました。関東一円でさまざまな候補地が検討されましたが、結果として選ばれたのは千葉県成田市三里塚でした(1966年)。
この決定は、地元住民の頭越しに突然下されました。何の説明もなく、ある日突然、新聞紙上で「三里塚に国際空港建設決定」の報を知った農民たちは、呆然としながらも怒りを燃やし始めました。当然ですよね。戦後の引き上げの入植者たちで占めるこの場所を身一つで開墾して、長年苦労して耕してきた土地を手放す理由が見つからなかったのですから。
民主主義国家であるはずの日本において、国策が一方的に決定され、民衆の声がまったく届かなかったという事実は悲劇です。

鉄塔と団結小屋の時代
やがて、反対運動は組織的なものへと発展していきます。1968年には「三里塚芝山連合空港反対同盟」が結成され、共産党、社会党、朝日新聞などの応援、全国の学生運動や新左翼の支援も受けるようになりました。鉄パイプを打ち込んだ鉄塔、そしてブルドーザーの前に立ちはだかる団結小屋。反対同盟は農民と学生の“実力闘争”という手段を通じて、国家に「NO」を突きつけました。建設阻止が組織的・大規模で行われる時期になります(1968年)。翌年には全国で大学紛争がピークを迎えます。

冷戦とベトナム戦争の時代ということを忘れてはいけませんね。

少年ジャンプにまで登場させてます。
しかしその先鋭化は、結果として多くの悲劇を生みました。このころには既に、運動内部の思想対立も深刻化し、一部では暴力的な内ゲバも発生していました。それでも反対派は諦めませんでした。滑走路予定地に居座り、土地収用を拒否し続けた彼らの姿は、国策に対する最後の砦であったといえるでしょう。
しかし、運動が全国の新左翼と結びつくことで、次第に“土地の魂”よりも“イデオロギー”が前面に出るようになっていきます。中核派、革マル派、社青同、構造改革派……数々の党派が乱立し、次第に運動は分裂し、内ゲバが横行しました。
支援者どうしが命を奪い合い、思想と正義が血で汚れていった瞬間、運動が本来持っていた核心は見失われてしまったのかもしれません。これは、運動にとって、そして支援者にとっても深い悲劇だったと思います。


世論の風向きが変わった事件
当初は、国家による強引な空港建設に反対する地元農民の姿勢に対し、世論も一定の同情と支持を寄せていました。しかし、運動が長期化し、支援勢力の一部が過激化していくにつれて、社会の見方は次第に厳しくなっていきます。とくに決定的な転機となったのが、東峰十字路事件でした。
この事件は、1971年9月16日、成田空港建設予定地の東峰十字路付近で発生しました。この日、空港建設に反対する学生ら約500名が、機動隊と激しく衝突し、神奈川県警の警察官3名が殉職しました。正確には、殉職した3名はいずれも投石や鉄パイプによる暴行を受けた末の死亡とされており、その死因は法的にも重大な議論を呼びました。

道路沿いに痛ましくも3名の慰霊碑が並んでいます。
この事件を契機に、マスコミ各社の論調も大きく変化します。反対運動を「暴力的ゲリラ集団」として報道する傾向が強まり、三里塚闘争はそれまでの「農民による正当な抵抗運動」というイメージから、「過激派によるテロ行為」といった否定的な見方へと急速に塗り替えられていきました。
当時の社会状況も、この風向きの変化に拍車をかけました。1969年頃をピークとした大学紛争が沈静化する一方で、1972年には連合赤軍による「あさま山荘事件」や、革マル派・中核派の内ゲバ抗争など、極左勢力による暴力事件が相次いで発生していました。こうした背景のなかで、三里塚闘争もまた「反社会的運動」として世論から忌避されていくことになります。

空港の開港と続く長い話し合い
この歴史館のクライマックスはⅣ流血の日々というコーナーだと思います。その後は管制塔の占拠などで開港が送れながらも1978年に成田空港が開港。大きな反対活動は続きながらも話し合いの時期が続き、ようやく共生の道が見えてきました。
そして早くも開港47年が過ぎました。そして51年目には新たな滑走路を運用するために建設が始まっています。新しい未来の成田空港はどうなるのでしょうか。
その話を次回にしていきます。

成田空港 空と大地の歴史館
〒289-1608 千葉県山武郡芝山町岩山113−2
参考サイトWikipedia
成田空港問題
三里塚闘争
東峰十字路事件
