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【読書感想文】「音楽の力」で感情は生まれるのか?を読んで

これはものすごく面白い記事であるとともに、凄く考えさせられる内容だったので、まずはぜひ読んで頂きたいと思います。

音楽の力で感情は生まれるのか?
この問いに私ならどう説明するかなと思い、今回はそこにチャレンジしてみます。


まずは、筆者が反論に対する反論として挙げている、
「なぜ自分が心動かされる音楽で、全人類が同じように感動しないのか?」
ここからスタートしましょう。

私の答えは、「音楽に普遍的な良し悪しはなく、あるのは好き嫌いだけだから」です。

どういうことか。

まず最初に「心=分類機能」という枠組みを簡単に説明します。これはAIに心があるのかという問題を考える際に作った独自の枠組みです。

心とは外部から入力された情報を自分の知識・経験・本能・特性・身体からなるデータベースに照合し分類を行う機能のこと。
実際にはかなり複雑な動きをしていると思いますが、わかりやすく極端に簡素化して考えます。

例えば、りんごが目の前にあったとします。
それを目で見た場合、その姿をデータベースに照合します。りんごの知識とこれまでに見た経験があれば、一目で「りんごだ」とわかります。

もし知識だけあったら、「丸くて赤いもの…りんごに違いない」となるかもしれません。

知識はなく過去に見た経験があれば、「どこそこで見たことがある赤くて丸いものだ」となるでしょう。匂いなどから本能的に食べられるものだと判断するかもしれません。

そしてその延長線上に好き嫌いがあります。

食べた経験から、好き嫌いを分類します。
ほとんどの人はりんごを食べて美味しいと感じるのではないでしょうか。そして美味しいから好きとなる。「美味しい」は好きになる理由の一つです。でも腐ったりんごを食べてしまったら、あるいは体調が悪い時に食べて気持ち悪くなったら、りんごのことは嫌いになるかもしれません。私は子供の頃に牡蠣にあたってしまいそれ以来嫌いで今でもほとんど食べません。
甘いものが苦手という特性や歯が弱くて硬いものが食べられないという身体の影響からりんごを嫌いになることもあるでしょう。
それらを総合してりんごを好きになったり嫌いになったりします。

ちなみになぜ好き嫌いがあるのか、私の仮説ではこれは生存戦略だと思います。好きなものは自分にとって役に立つから積極的に再現したい。「美味しいから好き」なりんごで栄養を摂りたい。「美しいから好き」な音楽で気持ちを安定させたい。嫌いは逆に避けたいとなる。

もう一度言いますが、その好き嫌いを分類するために照合するデータベースはその人の知識・経験・本能・特性・身体を総合したものです。これはその人のこれまでの人生そのものであるとも言えます。そのデータベース(人生)が人それぞれ違うから人によって好みが違うわけです。

ある音楽を聴いて自分のデータベースでは「好き」と分類したけど、他人は「嫌い」と分類するかもしれない。それはこの説明で理解できると思います。

筆者が文中でこのように書いています。

“音楽に感動するためには、音楽だけの力では足りない。何らかの前提条件がある。それにはまずあなた自身が、その音楽に感動するための素養、経験、才能、そうしたものを持っている必要がある。”

「音楽の力」で感情は生まれるのか?

音楽の力を感じられる自分でなければならない、と言っているのですが、これは私が言っているデータベースに近い考え方だと思います。

しかしここで、「でもバッハやビートルズのように歴史的に認められた人もいる」と反論する人もいるかもしれません。個人の好みだけでは語れないだろう、普遍的な良さがあるだろうという意見です。
もちろんバッハやビートルズは多くの人に認められていますが全員ではありません。もしかしたらメタラーにとってビートルズは生ぬるいかもしれないわけです。
しかし多数決を取ればビートルズやバッハは多数派の「好き」を得られるのは間違いないでしょう。しかし、多くの人が好きだというのと全人類が好きだというのでは全く違いますよね。例えばジャングルの奥地で文明社会と隔絶した生活を送っている部族にはおそらく独自の音楽文化があるでしょう。そこにビートルズを聴かせて果たしてどうなるか?

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に面白いシーンがあります。
1980年代を生きる主人公マーティーが、1950年代にタイムスリップし、ひょんなことからバンドの助っ人ギタリストとして演奏することになります。
最初は50年代の演奏に合わせそれらしく演奏し、「なかなかやるじゃないか」ぐらいに思われていたマーティーは、途中からどんどんヒートアップして最終的に80年代ハードロック的なソロを披露します。
そして、気づいたら観客もバンドメンバーもポカンと口を開けていた。というもの。

これは1950年代の人達には1980年代の音楽は聴いたことがないもので、どこに分類したらいいかわからなかったために起こった現象です。
もちろんこれは映画であり、面白おかしくするために全員ポカンとしていたわけです。現実でどうなるか考えると、大多数はポカンとしている気もします。一部は「よくわからんけど面白い」と思うかもしれません。逆に「これは音楽とは言えない」とポカンを超えて完全否定に入る人も出てくる気がします。しかしこの辺りは少数派になるでしょう。
そしてジャングルの部族にもビートルズの演奏を分類するデータベースがないのでそのような反応になることが予想されます。
しかし、もしビートルズの音楽にその部族の音楽と似通ったところがあれば、そこに分類されて意外と評価されるかもしれないし、逆のことが起こるかもしれないし。
つまり、ビートルズやバッハでさえも普遍的に良いわけではないということです。

ここまで、「音楽に良し悪しはなくあるのは好き嫌いだけ」について説明してきました。
だから、「なぜ自分が心動かされる音楽で、全人類が同じように感動しないのか?」という問いには、人それぞれ参照する個人データベースが違うからその音楽をどう分類するかも違うためである、ということになります。


次に本題である「音楽を聴いて感情が起こるのか」を考えます。

まず、私は先ほどの「心=分類機能」で、感情や行動は心の分類の結果起こる動作だと考えています。りんごを見て「美味しい食べ物」と分類された結果、「食べたい」という意識/感情と、りんごに手を伸ばすという行動が起こります。
まず照合と分類があります。これは無意識です。次に意識/感情/思考が起き、その時点で無意識下から意識下に移行し、その次に行動が起きます。

有名なリベット実験というのがあります。
簡単にいうと、指を動かそうとするよりも前に脳が動いている事がわかった、というものです。
普通に考えると、指を動かそうと思ってから指を動かすわけですが、実はその動かそうと思う前に既に脳が動いているのが検出されたというものです。
私はそれこそが「心=分類機能」でいう分類作業だと考えています。分類作業は無意識下で行われるし、思考/感情の前に起きているからです。その分類の結果「動かそう」という意識が発生し、実際に動かすということになります。
ちなみに、この実験で無意識に脳が動いていることから、指を動かすのは自分の意志ではないのではないか、という自由意志の有無について議論がありますが、私の考えでは無意識であっても自分のデータベースを使った分類が行われているので、紛れもなく自分の意志だと思っています。

話を戻して、例えばりんごを見て、データベースから亡くなったおばあちゃんとのりんごにまつわる思い出を紐づけて「思い出のりんご」と分類され「悲しい」という感情と「泣く」という行動が起こります。

音楽を聴いて、似たような音楽を聴いた経験と紐づけて「楽しい」「悲しい」という感情が起こります。例えば短調の曲を悲しいと思うのは、過去にそういった教育を受けたことや、短調に悲しい歌詞が多いから、短調の曲にそれらが紐づけられ「短調=悲しい」と分類されていると考えられます。
他には、今まで聴いたことがないものを聴いて上手く分類できず「嫌悪感を覚える」とか、逆に「ワクワクする」(知らないものを知ることそのものを楽しめるかどうかもデータベース次第)あるいはポカンとする(困惑する)という感情が起こります。

そうです。音楽を聴いたことがトリガーとなり感情が起こるということです。どんな感情か、またその強弱は人それぞれでしょう。「音楽に興味がないデータベース」を構築している人には「ふーん」ぐらいの極薄い感情かもしれません。しかし何かしらの感情は起こると思います。その中でより強い感情を起こすためには、データベースが充実していて様々な分類に対応できるかどうかが重要だと思います。あるいは分類できないものを排除しない、好奇心旺盛な特性であることも重要かもしれません。

感情の種類や強弱はデータベース次第ですが、地域が違うとはいえこの地球上に生まれて、しかも文明社会ではインターネットで世界中が繋がっている現代です。先ほど例に挙げたジャングルの部族みたいな人たちはごく僅かで、多くの人は多少の違いはあれど比較的似通った音楽経験を積んでいると言えるのではないでしょうか。つまり多くの人がロックとかポップスとかジャズとかダンスミュージックとかを聴いて育ってきているということです。
それらはほとんどの場合西洋音楽の影響下にあるもので、西洋音楽理論で解釈できる音楽です。例えば日本のポップスは日本のポップスらしさを持っていると思いますが、基本的に西洋音楽ベースの音楽です。ドレミの音階でできています。

西洋音楽理論を意識しながら作られた音楽を生まれてからずっと聴いている経験から、多くの人は西洋音楽に親しみを覚えると思います。例えばドレミの音階が聴こえると少なくとも「普通の音楽だな」と分類しやすいでしょう。先ほどの「短調=悲しい」も同じ仕組みです。ジャングルの部族にはドレミではない音階が存在して、ドレミを聴いても普通の音楽だと思えない、気持ち悪い音楽だと思う可能性もあるわけです。そして逆も然りです。

そのため現代の文明社会では、音楽を作る側の人は多くの人に「好き」になってもらうために西洋音楽理論を使って音楽を作ります。それが人々に感情を強く持ってもらえる手段の一つだからです。ジャングルの音階やリズムで音楽を作っても多くの人はポカンとなるだけで強い感情は生まれません。分類できないからです。その意味でバッハやビートルズは多くの人に強い感情を生むためのテクニックを駆使しているから、多くの人に好きになってもらえたと言えます。このテクニックというのは音楽そのものに使うテクニックももちろんですが、それ以外にいわゆるビジネス的なテクニックも大きく影響します。マーケティングとかプロモーションとかそのようなテクニックも同時に駆使しながら、多くの人にリーチし「好き」になってもらうわけです。

筆者が文中で挙げていたFulton Leeやベンジャミン・ザンダーという人たちの例はまさにビジネス的なテクニックのことが書かれていると思います。
見せ方を変えることで同じ音楽がより良いものに見える、というものです。ここでいう見せ方とは音楽そのものの演奏方法といったことではありませんよね。いかに付加価値をつけるかという話だと思います。
こういう人は「ペットボトルの水を一万円で売ってこい」みたいな無理難題を可能にするタイプの、優れたビジネス力を持つミュージシャンと言えます。


さて、冒頭の「音楽を聴いて感情は生まれるのか?」という問いに戻ります。
筆者は聴く人、聴く場所、聴く態度によるとしています。
私は聴く人のデータベースによると考えています。
しかしこれは根本的には同じものを指しているような気がしています。つまり聴く側に感情を生む権限があるということです。

そして筆者はこう言っています。

“音楽とは、決して音だけから一方的にその価値や体験が定まるものではない。単なる「聴取」という受動的と思われてきた行為の中にも、さまざまな場合があり、それによって心がどう動くかは一意に定まらない。”

「音楽の力」で感情は生まれるのか?

音だけではない。

個人のデータベースがその音楽をどう評価するかは、音楽にまつわる知識や経験だけが関係するのではありません。それ以外も含めた人生経験全てがその音楽を評価する基準となります。その意味で聴く側にとって音だけではないというのは同意します。

そして先ほどのFulton Leeやベンジャミン・ザンダーのビジネス力のように、音楽以外のテクニックをも駆使しながら音楽を好きになってもらう動き。他にも例を挙げられていましたが、タイアップや権威などを利用していくなど、作る側にとっても音だけではない点も同意します。

そして心がどう動くかは一意に定まらないのも、データベースがみんな違うから当然分類結果も違う、という意味で同意です。

以前私はある漫画を読む時に特定のアルバムを聴きながら読んでいました。するとその音楽を漫画なしで聴いても、その漫画のワクワク感が思い起こされるようになりました。
ジャングルの部族にも例えば葬式に毎回ビートルズの曲を流していれば、そのうち悲しい気持ちと紐づけられることになるでしょう。

音楽の構造を分解してみれば音の配列であり、感情を呼び起こすトリガーではありますが、音楽は感情そのものではないのです。
音楽そのものが悲しいわけではなく、葬式の時に何度も聴いた経験が葬式の悲しさとその音楽を紐付けさせ、それを聴くと悲しくなるのです。

しかし極端な話、聴く側の人が究極に聴く能力を高めれば、無音にだって感動できるようになります。例えばジョン・ケージがそうであるように。
データベースは無意識的に積み上がっているものですが、もちろん意識して更新していくことができます。いわゆる勉強するとか練習するというのはそういうことですよね。
意識して勉強したり練習したりしてデータベースを更新することで、無音でも環境音でも民族音楽でも下手な演奏でもAI音楽でもなんでも感動できるデータベースを作ることは可能です。そこまで到達すれば作り手側のテクニック関係なしに、ただ音楽のみで感情を生むことが可能だと思います。

そこまでの聴取レベルに到達できるか、これは別の問題ですが。

私も幼少期に嫌いになった牡蠣の美味しさを、今から意図的に味わおうと練習すれば克服できるかもしれませんが、残念ながら私にはその動機がありません。そして多くの人にとって音楽もそのようなものかもしれません。

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