初代ゼルダの伝説をプレイすると老害になってしまった件
いま、初代『ゼルダの伝説』を初めて遊んでいる。
すごい。とにかく、すごい。
最初は「将棋とゼルダを組み合わせたゲームを作れそうだ」という発想から始まった。ところが遊び進めるほど、初代ゼルダそのものが、ゲームに必要な設計を驚くほど圧縮して持っていることに気づいてきた。
ポケモン赤緑を遊んだときにも「これは完成されている」と思った。でも、その完成度の原型は、もっと前の初代ゼルダの時点ですでに成立していたのかもしれない。
ちなみに、初代は初見だけれど、ゼルダのほかの作品はいくつも遊んでいる。『時のオカリナ』『ムジュラの仮面』『風のタクト』『トワイライトプリンセス』『スカイウォードソード』『夢をみる島 リメイク』、そして当然『ブレスオブザワイルド』/『ティアーズオブキングダム』。それからニンテンドーDSの『夢幻の砂時計』と『大地の汽笛』も遊んでいる。特に『夢幻の砂時計』は、いま思い出してもかなり面白かったし、『トワイライトプリンセス』も大好きだ。ムジュラも好きだ。『ブレスオブザワイルド』/『ティアーズオブキングダム』ではコログを全員集めた。
だから、これは思い出補正で「昔はよかった」と言っている話ではない。シリーズのいくつかを通ってきたあとで初めて原点に触れ、その設計密度に殴られた話だ。
ルピーは経験値だった
敵を倒す目的は、単に画面から敵を消すことではない。ルピーを得て、道具を買い、探索の可能性を増やす。つまり敵を倒すことが、実質的なレベルアップになっている。
同時に、プレイヤー自身も敵の動きを覚えていく。一見ランダムに見える敵にも、近づき方、向き、攻撃の間、避ける余白がある。法則が見えてくると、同じ敵を前よりうまく処理できる。
資源の成長と知識の成長が、同じ敵との戦闘の中で同時に進む。
タートナックは、歩いているだけで強い
タートナックのすごさは、派手な攻撃技ではない。こちらへゆっくり詰めてくる移動そのものが、すでに攻撃になっていることだ。
正面を守ったまま距離を縮めてくる。だからプレイヤーは、ただ剣を振るのではなく、敵の向きと進路を読み、側面へ回る必要がある。
「敵が攻撃モーションを出したら危険」ではない。
「敵がこちらへ近づいている時間そのものが危険」なのだ。
しかも、斬撃が当たるとノックバックが起きる。攻撃はダメージを与えるだけではなく、敵との距離を作り直す。タートナックが余白を奪い、ノックバックが余白を返す。
この時点で、戦闘はもう数値の交換ではなく、空間の管理になっている。
シューティングゲームみたいでもある
遊んでいて、シューティングゲームみたいだとも思った。
敵の動きを読み、危ない場所を避け、こちらの攻撃を通す位置を探す。剣を振るだけでなく、どこに立ち、いつ撃ち、どこへ逃げるかを考えている。
この狭い一画面が、こんなに忙しい。
ブーメランは、倒せなくても成功する
ブーメランもすごい。
敵によっては倒せる。倒せなくても行動を止められる。効かない敵もいる。
「倒せた/倒せなかった」だけではない。撃破、足止め、無効という結果のグラデーションがある。
だから、倒せない敵にブーメランを投げても無駄にならない。足止めして側面へ回る、距離を作る、爆弾へ切り替える、逃げる。次の行動が生まれるからだ。
さらに、その相性は敵の見た目からおおむね推測できる。硬そうな敵、軽そうな敵、飛んでいる敵、無敵そうな敵。見た目が強さだけでなく、「どの道具が効くか」まで予告している。
これは以前考えた「毒キノコ理論」の戦闘版だと思う。基本則が見えるから、例外も発見として機能する。
ブーメランは、時止めの短い版
ブーメランは、時止めの短い版みたいなものでもある。
エリア全体の時間を止めるわけではない。狙った敵一体の行動だけを、一瞬止める。その短い時間に、攻撃する、逃げる、側面へ回る、爆弾を置く。プレイヤーが次の一手を差し込むための時間を作る。
だから、ブーメランはダメージの弱い代用品ではない。時間を少しだけ切り取り、局面を変える道具だ。敵によって倒せる、止めるだけ、効かないが分かれることで、その時間をどこに使うかが遊びになる。
リソース管理ではなく、リソース・エコロジー
矢、爆弾、ハート、ルピー、剣ビーム。
これらは全部、同じコストではない。
矢は弾数を管理する
爆弾は戦闘と地形の両方に使う
ハートは生存力であり、剣ビームの条件でもある
ルピーは将来の購入と選択肢になる
剣ビームは体力満タンという準備状態の報酬である
剣ビームが使えなくなっても、ブーメランや矢で遠距離に関与できる。強い能力が閉じても、別の弱い回路が残る。これは能力の代替回路、あるいは段階的な機能低下と呼べる。
被弾は単純な罰ではない。戦術を組み替えるきっかけになる。
ルピーと矢を、その場で変換する
矢に値段がつく塩梅がいい。しかも、補充のために毎回店へ戻る方式ではない。
1ルピーで1矢。弓を持っているだけでは、遠距離攻撃は無料にならない。矢を撃つ瞬間に、ルピーと矢が変換される。敵を倒してルピーを得る。必要なときだけ矢に変える。強い遠距離攻撃で危険を抜ける。
これが賢い。店へ補充しに行く方式だと、矢がなくなるたびに往復が発生してテンポが悪い。でも、ルピーと矢の変換をプレイヤーに任せれば、弾切れで完全に詰むことは避けながら、連射するか、温存するか、爆弾やブーメランで代替するかを考えられる。
1対1の交換比率がわかりやすいから、管理の負担は小さい。けれど選択の意味は大きい。遠距離攻撃に値段がつくことで、ルピー、敵、探索、買い物が一本の循環になる。
弓と爆弾は、コストで強さを守る
弓と爆弾がコスト制なのも、まじでいい。
強い道具を、弱くしてバランスを取っているわけではない。弓はルピーを使う。爆弾は所持数を使う。どちらも強いままだけれど、無料ではない。
しかも、コストの種類が違う。
ルピーは敵を倒したり探索したりすれば、また集められる通貨。爆弾は、いま持っている回数を直接減らす在庫。だから、弓を撃つか爆弾を置くかは、単純な威力比較ではなく、次の冒険で何を残したいかという判断になる。
強い道具を壊さない。無料にもして単調にしない。使えば気持ちいいが、使うほど次の選択肢が変わる。
コストはプレイヤーを止める罰ではなく、強さを長く維持するためのバランサーになっている。だから、バランスが壊れにくい。
楽をするなら、別のコストを払う
戦闘の選択肢が増えても、ゲームが自動的に簡単になるわけではない。
敵の動きを読んで、正しく位置取りすれば、資源を使わず楽に勝てる。少し楽をしたければ、矢や爆弾を使う。でも、そのぶん後の戦闘や探索で使える資源が減る。
「上手くやる」か、「資源を払って楽をする」か。
道具は補助輪ではなく、技能と資源の交換レートを自分で決めるための選択肢になっている。使えばその場は楽になる。でも、使いすぎれば後で苦戦する。この塩梅が、弓と爆弾のバランスを壊れにくくしている。
ゲームオーバー後の入口は、かがり火になる
神殿でゲームオーバーになっても、入口からやり直せる。
危険な局所状態はリセットされる。でも、敵の動きについての知識、手に入れた道具、開けた道、次に試す方針は残る。だから、死は冒険の終了ではなく、同じ世界へ戻るリズムの区切りになる。
ダクソでいう、かがり火に近い感覚が、初代ゼルダではゲームオーバー後のリスタートとして設計されている。失敗の痛みは残す。でも、入口までの無意味な移動は減らす。
これがあるから、難しい敵にももう一度挑める。ゲームオーバーが「全部失った」ではなく、「次はこうする」と考えるための間になる。
未来の道具と、今ある工夫を予想させる
ゼルダのいいところは、プレイヤーに予想させるところにもある。
目の前に、今は無理そうな場所や敵がある。きっと、あとで手に入るアイテムで解決できるのだろう。そう予想して先へ進む。
そして本当に、そのとおりになる。新しい道具を手に入れて戻ると、ずっと気になっていた場所が解ける。これは、世界が自分の予想を守ってくれた気持ちよさだ。
でも、反対もある。
実は今の時点で、工夫すれば行ける。道具の使い方、位置取り、敵の誘導、資源の支払い方を変えると、まだ新しいアイテムを持っていないのに突破できる。
これも気持ちいい。自分が「まだ無理だろう」と思っていたものを、今ある手段で解けた。プレイヤーの理解が、世界の想定を一段超えた感じがする。
未来の道具で解ける期待と、今ある工夫で解ける可能性。その両方があるから、課題を見た瞬間に「あとで戻ろう」とも思えるし、「いや、今いけるかもしれない」とも思える。
予想どおりになる気持ちよさと、予想を超える気持ちよさ。ゼルダは、どちらもプレイヤーの観察と仮説に返している。
謎解きはノーヒントではなく、世界に分散したヒントである
ゼルダの謎解きは、ノーヒントじゃないのがいい。
どこかに、レベル1相当の同じ仕組みがある。でも、最初に出会うのはレベル3相当の応用形だったりする。
そこで解けなくても、世界のどこかには同じ文法の手がかりがある。あとで簡単な例を見つけて、「あれと同じ仕組みだったのか」と戻ってくる。過去の謎が、後から再解釈される。
ヒントを一本道のチュートリアルにしていない。説明文で答えを渡すのでもない。易しい実例、視覚的な予告、以前の成功体験を世界のあちこちに置いて、プレイヤーが自分の記憶からヒントを取り出せるようにしている。
ノーヒントで突き放すのではなく、ヒントを分散させる。だから、最初に難しい問題へ出会っても、世界全体を探索する理由が残る。
将棋とゼルダを組み合わせるなら、ギミックを必ず簡単な順番に並べる必要はない。ただし、同じ文法の初級・応用・複合例をどこかに置く。プレイヤーが先にレベル3を見ても、後でレベル1を発見して、世界の見え方を更新できるようにする。
戦い方を変えると、謎が解ける
戦い方を変えると、謎が解ける。こういう場合も面白い。
敵を倒す順番を変える。ブーメランで止める。爆弾を使う。位置取りを変える。あえて無視する。
すると、部屋の状態や進路が変わる。戦闘が終わってから別に謎解きをするのではなく、戦闘中の判断そのものが、部屋へ入力されている。
敵は、倒す対象であると同時に、スイッチ、障害物、時間制限、配置パズル、道具相性の問いになる。
だから、戦闘が作業にならない。自分の戦い方が世界を変えた因果が見える。戦闘の達成感と、謎が解けた発見が一つに重なる。
将棋とゼルダを組み合わせるなら、敵駒の撃破順、足止め、押し出し、利きの遮断、道具の使用対象を、盤面ギミックの入力にしたい。「敵を全部倒せば正解」ではなく、「どう戦ったかが答えだった」と理解できる状態を作る。
うざかったゾーラが、倒したい敵に変わる
ずっと序盤からうざかったゾーラを、弓矢で倒せるようになるのが気持ちいい。
ゾーラが別の敵になったわけではない。自分の道具と選択肢が増えたことで、同じ敵の意味が変わった。序盤の「避けるしかない」「また出てきた」という不満が、弓矢を手に入れた瞬間に「今度は倒せる」「撃ってみたい」という達成感へ反転する。
新しい道具は、新しい場所へ行く鍵であるだけではない。すでに知っている世界を、もう一度別の意味で遊び直すための鍵でもある。
同じ世界でも、見え方が変わる
これは、前に初代ポケモンのnote記事でも触れたことだった。
世界そのものが変わらなくても、自分の知識や道具が増えると、見え方が変わる。前は避けるしかなかった敵が倒せる。前はただの背景だった場所が、起動する装置や隠し道に見えてくる。前に通った部屋が、別の道具を持った瞬間に新しい問題になる。
ゲームの世界が広がるとは、マップが追加されることだけではない。自分の解像度が上がり、同じ世界から受け取れる意味が増えることでもある。
手紙で、おばあさんの店が開く
手紙でおばあさんの店が開放されるのもいい。
手紙は、ただ読む文章ではない。人物に届けることで、店と薬の取引へつながる。文章、人物、進行条件、回復資源、ショップ解禁が、一つの小さなアイテムに重なっている。
最初から店をUIとして置いておくのではなく、世界の中で手紙を届けるという行為によって利用可能になる。経済システムが、冒険の出来事になる。
これも、ダクソの原典っぽさを感じるところだ。強い敵を倒すだけではなく、世界の断片を見つけ、誰かに会い、使えるものが増える。プレイヤーが世界を歩いた結果として、システムが開いていく。
局所的な展開が、冒険のリズムになる
初代ゼルダは、テンポがいい。
ただ移動や戦闘が速いという意味ではない。短い発見、危険、対処、報酬、次の期待が、耳に気持ちいいメロディのようにつながっている。
敵を見つける。倒す。ルピーが出る。道具を得る。店が開く。以前の場所の意味が変わる。次の場所へ行きたくなる。
危険、試行、成功、報酬、次の期待。
この短いフレーズが何度も繰り返される。局所的な展開が気持ちいいから、長い冒険も作業にならない。ストーリーも、一本道の大きなイベントだけではなく、小さな展開の連なりとして感じられる。
ダクソの原典を感じるのも、単に敵が強いからではないと思う。危険、失敗、再挑戦、回収、ショートカット、断片的な世界理解が、手と記憶に直接リズムを刻むからだ。歴史的な影響関係を断定したいのではなく、プレイ体験として似た設計の気持ちよさがある。
最初の爆弾は、消耗品なのに最後まで頼れる
最初に手に入るのが爆弾なのも、あらためて考えるとすごい。
いきなり永続的な強化を渡すのではなく、まず消耗品を渡す。でも、その爆弾は弱い通過点ではない。敵を攻撃できる。壁や仕掛けを変えられる。神殿の中でも、終盤になっても、困ったときの頼れる選択肢として残り続ける。
消耗品だから、どこで使うかを考える。けれど戦闘にもギミックにも使えるから、使い道がわからないまま持て余すこともない。
しかも、爆弾を温存したい場面があるからこそ、ブーメランのような非消耗品の価値が上がる。爆弾とブーメランは、単純な上位・下位ではない。「ここぞという切り札」と「いつでも使える基礎回路」の関係になる。
道具の価値は、道具単体の性能だけで決まらない。他の道具との関係、消耗するかどうか、戦闘と探索のどちらに使えるかで決まる。
後続作品で定番から外れていったろうそくも、そろそろ戻ってきていいのではないか。攻撃と環境操作を一つに束ね、使うたびに少し減る。その不便さが、道具の存在感になる。
レベルアップには、Floatと段差がある
初代ゼルダの成長は、一種類ではない。
敵の動きが読めるようになる。側面へ回れるようになる。ノックバックで距離を作れるようになる。被弾を減らし、体力満タンを維持して剣ビームを使えるようになる。
これはFloatなレベルアップだ。数値が一気に増えるわけではないけれど、自分の判断と操作が少しずつ上手くなる。
一方で、アイテムを取る、アップグレードする、できなかった行動が解禁される。こちらはガツンと効く、段差的なレベルアップだ。
この二つが重なっているのがいい。
新しい道具があれば、今まで行けなかった場所へ行ける。でも、その道具をいつ使うか、どの敵に使うか、どこで温存するかは、プレイヤーの技能に委ねられている。逆に、技能が上がれば、同じ道具でも強くなる。
「自分が上手くなった」と「世界に対して新しいことができる」が、別々の手応えとして存在している。
ゲームの成長は、経験値バーを伸ばすだけではない。Floatな上達と、道具やアップグレードによる段差を同じループに入れることで、プレイヤーは何度も「前よりできる」と感じられる。
道具によるレベルアップは、ザコ戦の選択肢を増やす
ここがまたすごい。
道具を手に入れても、ザコ敵が単に弱くなったり、戦闘が自動処理になったりしない。同じ敵に対して、剣で正面から戦う。爆弾を使う。ブーメランで止める。距離を取る。無視する。
レベルアップによって増えるのは、敵を倒す速さだけではない。敵との関わり方そのものだ。
だから、序盤のザコ敵が後半で完全にダルい作業にならない。新しい道具を手に入れるたびに、以前から知っている敵が新しい玩具になる。「この道具はこいつに使えるか」「こっちのほうが資源を節約できるか」と、同じ画面で別の遊び方を試せる。
玩具としての面白さは、ただ触って気持ちいいということではない。道具を組み合わせると複数の結果を試せること、試した結果がすぐ返ってくること、正解が一つに固定されすぎていないこと。その三つが、プレイヤーの「これも試せるかも」を増やしている。
デザインが、プレイヤーの選択肢を増やす。敵を消してしまうのではなく、敵を遊び場として残す。
永続するものと、戻るもの
リプレイ性についても、初代ゼルダはよく考えられている。
敵や部屋の危険は、倒しても、やり直せばまた戻ってくる。けれど、ルピー、手に入れた道具、トライフォース、そして敵の動きや世界についての知識は残る。
全部がリセットされるわけではない。だから、失敗しても冒険が無駄にならない。一方で、全部が固定されるわけでもないから、もう一度その場所を通ると、また戦闘と判断が生まれる。
ルピーが残るから、敵を倒すモチベーションも残り続ける。高い買い物があるから、ただ拾うだけではなく、次の目標になる。
リプレイ性には、永続部分と非永続部分が必要だ。永続する前進が「もう一回やる理由」を作り、非永続の危険が「今回どうするか」を作る。
詰まったら、別の冒険へ行けばいい
神殿で詰まっても、ゲームが終わるわけではない。
まだ取っていないトライフォースがある。まだ見ていない場所がある。高い買い物もある。敵を倒してルピーを集めてもいい。別の神殿へ行ってもいい。
メインクエストとサブクエストのように、明確なリストを表示しなくても、世界のあちこちに未完了の目的が置かれている。だから、ひとつの謎に詰まったとき、「進めない」ではなく「ほかの冒険をしよう」と思える。
そして冒険して世界に詳しくなると、以前知っていた場所にも新しい発見がある。道具が増える。敵への選択肢が増える。自分の土地勘が増える。世界が広がるというのは、マップが拡大することだけではなく、自分が世界を読めるようになることでもある。
冒険、冒険、冒険。
初代ゼルダは、プレイヤーを一本道の正解へ運ぶのではなく、まだ知らないものが残っている状態を維持する。だから、二つしかトライフォースを取っていない時点でも、「あと何があるのだろう」と思える。
強敵を倒した先に、剣がある
このころから、ケンタウロス型の強い敵までいた。
しかも、すごいのは強敵がいることだけではない。倒したら終わりではなく、その先に剣へたどり着ける。強敵の撃破が、その場のドロップだけで完結していない。
まず、敵を倒せたという達成感がある。次に、その先へ歩いて行き、剣を手に入れる期待がある。報酬が「撃破」と「取得」の二段階に分かれている。
ケンタウロス型の強敵は、単なる高HPのザコではない。技能試験であり、空間の門番であり、剣への導線でもある。敵を倒せるようになったことと、世界の奥へ進めることが同じ出来事に重なっている。
ここでも意味が重畳している。
落石は、文字なしのストーリーになる
落石まであるのか(笑)。
文字で「ここは危険な山です」と説明されなくても、落石が起きれば、その場所はただの背景ではなくなる。地形が危険を持ち、世界が静止しておらず、そこを進むこと自体に出来事が発生する。
歩く。落ちる。避ける、あるいは巻き込まれる。そして先へ進む。
この短い因果だけで、場所の性質とプレイヤーの体験がつながる。ストーリーは、文章を読むことだけではない。世界が反応する順序を、自分の操作として経験することでもある。
初代ゼルダには、文字がないのにストーリーがある。
背景が出来事になる。出来事が記憶になる。記憶が「この世界にはこういう危険がある」という自分だけの物語になる。これも、意味の重畳だと思う。
一つのフレーズで、キャラクターが立つ
「ミンナニナイショダヨ」。
敵の姿と、この一つのフレーズだけで、秘密を共有する存在の空気が立ち上がる。
「ナンカ買うてくれや」。
これも一言で、店主の商売っ気と、プレイヤーとの距離感がわかる。長い設定説明はいらない。姿、場所、行動、台詞が重なることで、そのキャラクターが記憶に残る。
台詞は、世界設定を全部説明するためのものではない。キャラクターの音色を一瞬聞かせるものだ。短いからこそ、プレイヤーが声色や背景を想像する余白もある。
将棋とゼルダを組み合わせるなら、NPCや敵に長い会話を先に与えない。見た目、いる場所、やっていること、一つのフレーズ。その四つで、性格と立場を立ち上げられるかを考える。
手紙は、持っているだけでは足りない
手紙も、自動で判定されるんじゃなくて、相手に見せる必要がある。
ここが大事だ。
手紙を持っている。この人に見せたら何か起きるかもしれない。そう想像して、自分で手渡す。すると店が開く。
ゲームから「正解です」と通知されるのではない。自分の判断と想像が、世界の変化によって肯定される。
アイテムの所持と、アイテムを使う対象・場所・タイミングを分ける。見せる、渡す、置く、読む、使う。こういう一手があることで、アイテムはUI上の鍵ではなく、世界の中で意味を持つ物体になる。
世界に入り込むために、ここは外せない。没入に必要なのは、情報量の多さだけではない。「自分がそうした結果、世界が反応した」という感覚だ。
探索や攻略そのものが、遊び本体になる
探索やダンジョン攻略が、作業じゃない。
報酬を得るために移動しているのではなく、歩きながら観察し、敵の法則を読み、道具を試し、迷い、発見している。その行為自体をずっと遊んでいる。
だから、攻略サイトを見なくてもイライラしにくい。答えを知らない時間が、単なる待ち時間や苦行にならず、遊び本体として成立しているからだ。
探索は移動の空白ではない。攻略は作業工程ではない。プレイヤーが考えている時間、手を動かしている時間、少しずつ上手くなっている時間が、そのままゲームの価値になる。
将棋とゼルダを組み合わせるなら、目的地までの道を埋め草にしない。移動、敵の処理、部屋の再訪、資源集めのそれぞれに、観察・選択・実験・発見を含める。
時間も、リソースだった
よく考えたら、このころから「時間」の要素もあった。正確にはマジカルクロックというアイテムで、取るとそのエリアにいる間、敵の動きが止まる。任天堂公式マニュアル
リンク自身が無敵になると書かれているわけではない。でも敵だけが止まり、こちらが一方的に動ける。体感としては、ほとんど無敵アイテムだ。
時間をただ待つものにせず、拾えるもの、使えるもの、温存できるものにしている。敵が止まっている時間や、危険を抜けるための猶予が、一時的な能力になる。
体力、爆弾、ルピーに、時間が加わる。初代ゼルダは、プレイヤーに数値だけでなく、次の攻撃までの間、敵との距離、ギミックが開いている時間まで管理させていた。
妖精は全回復であり、パワーアップでもある
妖精を取ると、体力が全回復する。
それだけでも嬉しい。でも、剣ビームは体力満タンでないと使えない。だから妖精は、ただの回復アイテムではなく、剣ビームを再び使えるようにするパワーアップアイテムにも感じられる。
ここが、初代ゼルダの納得感のすごいところだと思う。新しい要素を足して「パワーアップです」と説明しているわけではない。回復という既存の要素と、剣ビームの条件という既存のルールが組み合わさって、報酬の意味が増幅されている。
要素を足すのではなく、組み合わせる。
この設計は、現代のゲームでも意外とできていない。
ブーメランのあとに、弓だけ渡す
ブーメランを手に入れたときは、すぐに使えて「やったー」となる。
その後、同じ神殿で弓を手に入れる。でも矢はない。
この感じもすごい。弓を取った瞬間に完全な強化を渡さず、「いつか使える行動の入口」だけを渡す。矢を見つけることが、次の探索目的になる。
現在の満足と、未来の期待が同じ神殿の中に置かれている。
道具を持っていることと、道具を運用できることを分ける。報酬をすぐ完成させず、未完のままプレイヤーの頭の中に残す。これは遅延報酬の設計だ。
ギミックは環境が教える
床が動くギミックに気づいた。
説明文を読んで正解を入力したわけではない。歩く、押す、乗る。すると床が変わる。その変化を見て、「何が条件なのか」を考える。
操作、変化、仮説更新、再試行。
環境が先生になる。良いギミックは、謎を隠すだけでなく、試した結果を返す。失敗のコストが高すぎず、変化を見逃しにくく、次の試行で考え直せる。
これが、説明なしのチュートリアルになる。
ボス部屋の前で鳴き声が聞こえるのも同じだ。姿が見える前に、音が危険を予告する。プレイヤーは体力や爆弾を確認し、心構えを作る。短い音が、空間の切り替え、敵の格、緊張、準備時間をまとめて伝えている。
迷いの森は、地形にルールを重ねる
やばい。このころから迷いの森があったのか。
迷いの森は、巨大なマップでも、複雑なグラフィックでもない。似たような景色の中を進みながら、正しい進み方を見つける。何度か試すうちに、森はただの移動空間ではなく、プレイヤーが法則を発見して突破する問題になる。
一つの森に、地形、迷い、記憶、仮説、再試行、突破の達成感が重なっている。
これを「意味の重畳」と呼びたい。同じ空間が、背景であり、迷路であり、記憶テストであり、プレイヤーの発見を待つルールでもある。素材を増やさずに、意味を増やしている。
ゲームの面白さは、物量だけではない。ここに何を考えさせるかというアイデアが、面白さを生む。
将棋とゼルダを組み合わせるなら、盤面に敵やアイテムを足していくだけでは足りない。一つの部屋を、戦闘の場であり、記憶の場であり、法則を読む場にできるか。ひとつの対象に複数の役割を持たせられるか。
古代兵器は、触ったら起動する
よく考えたら、初代ゼルダのころから古代兵器のようなものがあった。眠っている対象に触れると、起動して動き始める。
背景だと思っていたものが、自分の接触をきっかけに危険へ変わる。静止、接触、起動、反応。短い手順の中に、驚きとストーリーがある。
「古代兵器が存在します」と文章で説明されるより、自分が触ったら起動してきたほうが、世界の歴史を自分で動かした感じがする。
初代ゼルダは、ストーリーをムービーだけで描いていない。プレイヤーが歩き、触り、試し、起動させた結果そのものを、物語として感じさせている。
ファミコン理論
初代ゼルダでは、一つの対象が複数の意味を持っている。
爆弾は敵を倒す道具であり、壁を壊す道具であり、探索ルートを開く鍵でもある。ハートは回復であり、剣ビームの条件でもある。ボスの四つの口は、見た目であり、攻撃器官であり、破壊するほど攻撃密度が変わる形態変化でもある。
容量が少ないから、意味が少ないのではない。
一つの要素に複数の役割を持たせることで、少ない要素から豊かなゲームを作っている。
これを「ファミコン理論」と呼びたい。
任天堂の公式インタビューでも、初代ゼルダの基礎はテスト版の動きを見た後に仕様化されたと語られている。また、限られたメモリの中でダンジョンをパズルのように構成した経緯も紹介されている。Iwata Asks / 任天堂公式インタビュー
容量の少なさは、設計で補える
容量の少なさは、ゲームの面白さの少なさではない。
画面、敵、道具、資源、ギミック、音。使える素材が限られていても、一つの要素に複数の意味を重ねられる。少ない素材から、発見、判断、練習、報酬、次の目的を連続して生み出せる。
おもしろさはデザインできる。
機体性能が高ければ、広い世界や大量の表現は作れる。でも、プレイヤーが一つの操作から何を受け取り、次に何を試し、どう上手くなり、何を目標にするかは、別途デザインしなければ生まれない。
容量制約は、意味の密度で補える。むしろ、増やせないからこそ、一つの要素を何度も別の角度から遊ばせる設計が必要になる。
ファミコン時代は、実プレイ駆動の反復開発だったのではないか
正式な意味で、当時の開発を「アジャイル開発」と呼ぶことはできない。けれど、いま遊んでいると、動くものを触り、違和感を見つけ、直し、また遊ぶという短いループの痕跡を強く感じる。
ブーメランの飛び方、戻り方、敵を倒すか止めるか。剣を刺したときの音。敵の姿勢と攻撃の間。こうした細部は、机上の仕様だけではここまで噛み合わない気がする。
実際、初代ゼルダの剣の効果音を何度も作り直したという開発者の証言もある。任天堂公式インタビュー
だから、ここで言いたい「アジャイル」は、手法名ではない。
実プレイ駆動の反復開発。
開発者が自分で遊び、楽しいか、気持ちいいか、迷い方は適切か、もう一度遊びたいかを確かめる。プレイヤーの体験が、次の仕様を作る。
ブレワイで、何を消したのか
ここは慎重に書きたい。
『ブレス オブ ザ ワイルド』がギミックを忘れた、という単純な話ではない。任天堂公式が掲げたのは「open-air」という方向性で、探索、世界の規模、戦闘、音楽などを広い世界の体験として統合することだった。任天堂公式の開発紹介
初代の神殿では、道具を得ると、敵の倒し方が変わり、過去の部屋の意味が変わり、次のギミックが解ける。道具、敵、部屋、発見が近い距離で密着している。
一方でブレワイでは、問題解決が世界全体の物理やシステムへ分散された。その自由度は大きな魅力だけれど、初代の「一つの道具が神殿全体を再編集する」密度は薄く感じる。
これは、ギミックを消した理由を確認した話ではない。異なる設計目的のトレードオフについての、いまのプレイからの仮説だ。
カルピスの原液を、少しずつ水で溶かしながら飲んでいるような感覚が、最近のゲームにはある。もちろん、ブレワイもティアキンも面白い。世界を広げ、物理やクラフトを足し、遊び方を増やしている。
ただ、初代ゼルダの時点で、探索、敵、道具、ギミック、資源、時間、技能上達という原液が、かなり濃い状態で完成していた。その後の作品は、その原液を薄め方違いで味わわせてくれる。でも、別の原液とカクテルする勇気は、あまり感じられない。
ゼルダであることを守るほど、ゼルダの中心文法から外れることは難しくなる。失敗しない作りに見えるのは、つまらないからではなく、完成された味を壊さないことが最適解になっているからかもしれない。
自分で遊んで、楽しかったか
いまどきのゲーム開発は、チームが大きくなり、分業も増えた。だから全員が最初から最後まで遊ぶのは難しい。机上で設計せざるを得ない局面もあるだろう。
でも、そこで最後に残る問いがある。
自分で遊んで、楽しかったか。
子どもを意識すること自体が悪いわけではない。入口を広くすることにも価値がある。ただ、遊びやすさのために、法則を自分で見つける余白、失敗から学ぶ間、道具の使い道が後からつながる驚きまで消してしまうなら、何かを失っている。
初代ゼルダは、プレイヤーを子ども扱いしない。
見た目を見せる。動かしてみる。敵に試す。失敗する。考える。うまくなる。報酬を得る。新しい道具で、前に見たものをもう一度見る。
そこには、説明される前に理解する喜びがある。
初代『ゼルダの伝説』は、ファミコンの制約の中で、ゲームがプレイヤーに何をさせ、何を感じさせ、どう上達させるかという文法を、すでに完成させていた。
少なくとも、いま自分が遊んでいる限りでは、そう思う。
