実践するドラッカー実践編 第41話:成果は、医院の外にある――75年続く地域歯科医院が実践で見つけたもの③(全5話)
事例8-3 当たり前が崩れた日々 ― コロナ禍で「聞く」を続けて
本記事は、実際の企業事例をもとに、人物名、社名、地域、時期、数値などを一部変更・再構成しています。
活気が戻りかけていた医院を、突然の嵐が襲いました。
コロナ禍です。
当たり前が、できなくなる
歯科医院にとって、コロナ禍の衝撃は独特のものでした。
患者さんの口腔内に近い場所で処置を行う仕事です。感染リスクは常に隣り合わせ。スタッフ全員が医療従事者として、その恐れと向き合わなければなりませんでした。
さらに深刻だったのは、これまで当たり前に使えていたものが手に入らなくなったことです。
グローブ。マスク。消毒薬。
日常の診療に欠かせないものが不足していく。普通にやっていたことが、できなくなるかもしれない。
H先生は、この時期を「恐怖の闇へ突き落とされたようだった」と振り返っています。
また、辞めてしまうのではないか
H先生の心には、もうひとつの不安がありました。
70周年後の退職の記憶です。
あのとき、何が起きているのかわからないまま、スタッフが次々と辞めていった。あの経験が、心のどこかに残っていました。
コロナ禍の不安の中で、また同じことが起きるのではないか。
せっかく3〜4年かけて立て直してきた組織が、再び崩れてしまうのではないか。
その懸念は、H先生にとって切実なものでした。
「笑顔」が見えなくなったということは
そして、もうひとつ。コロナ禍がH先生たちに突きつけたものがありました。
マスクです。
誰もがマスクをする日常が始まり、口元は見えなくなりました。
人と会っても表情の半分は隠れている。
大きな口を開けて笑う機会も減っていく。
H先生たちが練り直し、スタッフルームに掲げた理念は「たくさんの笑顔に出会いたい」でした。
その笑顔そのものが、社会から見えなくなったのです。
物資の不足は、工夫や調達でなんとかなるかもしれない。
感染リスクは、対策を重ねることで向き合える。
けれども、自分たちが目指してきた「笑顔」が見えない世界で、何を拠りどころに働けばいいのか。
これは、物理的な危機とは別の、精神的な支柱の危機でした。
口元が見えない生活が続くと、歯への意識も後回しになりがちです。
「どうせマスクで見えないから」
「痛みが出てから行けばいい」
患者さんの足も遠のきやすくなります。
けれども、歯は見えなくなったからといって大切でなくなるわけではありません。
食べること。
話すこと。
笑うこと。
人と会うこと。
自分に自信を持つこと。
口元はその人の生活や人生に深く関わっています。
マスクの下にも、笑顔はある。今は見えなくても、その笑顔を守り、育てることが自分たちの仕事であることは変わらない。
H先生たちは、そう信じて踏みとどまる必要がありました。
新しいことではなく、今までのことを丁寧に
危機の中で、H先生が選んだのは、意外なほどシンプルなことでした。
何か新しい施策を打つのではない。特別なことを付け加えるのでもない。
今までやってきたことを、丁寧に、きちんとやる。
危機のとき、人は不安になります。不安になると、何か新しい答えを探したくなる。一気に状況を変える方法を求めたくなる。
けれども、H先生が立ち返ったのは、この数年間で積み重ねてきたものでした。
自分たちは何のために存在しているのか。患者さんにどう向き合うのか。スタッフ一人ひとりの声をどう受け止めるのか。
理念を見直してきたからこそ、戻る場所がありました。成果を問い直してきたからこそ、迷ったときに考える軸がありました。
第2話で語った「リマインドボード」や「五つの能力」の実践は、平時の取り組みとして始まったものです。けれど、それらが本当に力を発揮したのは、むしろこの危機のときだったのかもしれません。
「聞く」を続けた一年
特にH先生が大切にしたのが、スタッフの気持ちを聞くことでした。
毎日のお昼の時間。ほんの数分でもいい。一人ひとりと話す。
不安はないか。困っていることはないか。いま、どんな気持ちで働いているのか。
大きな会議を開いたわけではありません。立派な制度をつくったわけでもありません。
けれども、毎日、聞き続けた。
ドラッカーは、こう述べています。
聞け、話すな。
第6章チームを活性化させる/コミュニケーションと会議運営
正しい問いを発する p.186
(経営者の条件 p.15)
この言葉は、単に黙って耳を傾けなさいという意味ではありません。「正しい問いを発しなさい」ということです。
相手の話をただ受け身で聞くのではなく、問いかけることで、相手の中にあるものを引き出す。
あなたは今、何を感じているのか。
何に困っているのか。
何ができると思うか。
どうしたいと思っているのか。
問いを発することで、相手は自分の考えを言葉にする機会を得ます。そして、自分の言葉で語ることで、自分自身の気持ちや考えが整理されていく。
H先生がお昼の時間にスタッフと向き合っていたのは、ただ不安を吐き出させることではなかったのだと思います。問いかけ、聞き、受け止めることを通じて、スタッフ一人ひとりが自分で考える場をつくっていた。
「聞く」という行為は、一見すると地味です。数字ですぐに成果が見えるわけでもない。劇的な変化が翌日に起こるわけでもない。
けれども、人は自分の不安を聞いてもらえるとき、そこに居場所を感じます。自分の声が受け止められていると感じるとき、チームへの信頼が少しずつ育ちます。
H先生はスタッフを引っ張ったというよりも、声を聞きながら、ともに踏みとどまったのです。
理念は、危機のときに試される
理念というと、額に入れて飾るもの、ホームページに載せるものと思われがちです。
けれども、理念の本当の意味は、順調なときよりも、危機のときに現れます。
何を優先するのか。誰のために働くのか。何を守り、何を手放すのか。不安の中で、どこに立ち返るのか。
その判断の拠りどころになるものが、ミッションです。
危機のとき、人はどうしても内側に目が向きます。物資は足りるか。感染は大丈夫か。スタッフは持つか。経営は持つか。
もちろん、それらは無視できない現実です。けれども、内側のことだけを見ていると、自分たちが何のために存在しているのかが、少しずつぼやけていきます。
ドラッカーは、こう述べています。
貢献に焦点を合わせることによって、自らの狭い専門やスキルや部門ではなく、組織全体の成果に注意を向けるようになる。成果が存在する唯一の場所である外の世界に注意を向ける。
外の世界に目を向ける p.94
(経営者の条件 p.79)
「聞く」を通じてスタッフ一人ひとりの貢献に焦点を合わせること。それは、不安を和らげるためだけの行為ではありませんでした。
自分は何に貢献できるのかを問い直すことで、目の前の不安や作業ではなく、成果が存在する唯一の場所――患者さんの生活、患者さんの人生――に、もう一度目を向けることができる。
H先生たちにとって、スタッフの退職後に練り直した理念は、コロナ禍の中でただの言葉ではなくなっていました。
患者さんのために。地域のために。そして、力を貸してくれているスタッフ一人ひとりが、自分の貢献を感じられるチームであるために。
今できることを、丁寧にやる。
理念は、日々の小さな実践の中に息づいていました。
この一年が、土台になった
こうして一年を乗り越えたとき、H先生が懸念していたことは起きませんでした。
スタッフは辞めなかったのです。
それどころか、新しく入ってきたスタッフたちが、こう言ってくれるようになりました。
「ここでやっていけてよかった。」
危機を一緒に乗り越えたことで、チームの中に静かな信頼が生まれていたのかもしれません。
そして、この信頼は内側だけにとどまりませんでした。
スタッフたちが自分の仕事に意味を感じ、誇りを持って患者さんに向き合う。そのことが、医院を訪れる患者さんにも伝わっていたのです。
やがて、その「伝わり」が、一つの出来事として結実します。
【今日の問い】
Q:目の前の不安に追われているとき、あなたは「外の世界の成果」に目を向け直せていますか?
危機のときほど、私たちの意識は内側に向きがちです。人手は足りるか、経営は大丈夫か、現場は回るか。もちろん、それらは大切な現実です。
けれども、組織の成果は外の世界にあります。お客様、患者さん、利用者、地域の人たちに、どんな変化を届けるために私たちは存在しているのか。そこへ目を向け直すことで、いま本当に大切にすべき行動が見えてくるのではないでしょうか。
次回、第4話。ある20代の女性患者さんとの出会いが、「成果は組織の外にある」という言葉の意味を、H先生たちに腹の底から実感させることになります。
「ここで人生を変えようと思います。」
このHさんの物語の第①話はこちらから
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