【日常エッセイ】あの鳥は、なんという名前なのだろう。
はじめに
この記事を投稿してから、二年が経った。
久しぶりに読み返してみると、我ながらずいぶん自由である。当時の僕はただ夢中だった。夢中になってしまったので記事にするために「実はこれは役に立つんです」という弁明を付け足していたとも言える。
あのとき抱いた、小さな問い。
二年が経った今でも、まだ同じ好奇心を抱くことがある。
今回は「#疑問が学びに変わるとき」というコンテストが開催されるきっかけで、この記事を今の自分の視点からリライトしてみようと思い至った。
こういうのはnote年長者の特権ということで、ひとつ、よろしくお願いします。
田舎は、暇じゃなかった
以前、田舎には娯楽がないのでは。という旨の記事を上げた。
これは田舎は暇なのが心配という記事のはずだった。
しかし見返すと『アヤトの動く城』や『メカ熊』とかいう、ワケのわからない単語が頻発していた。僕にはまったく覚えがない。
いったいどんな思考回路をすれば、こんなおかしな単語が出てくるのか疑問でしかたがなかった。きっと、いつも見守ってくれる読者の方々や家族の優しさに甘えていたのだろうと思う。
今後は、一番アクセスを集めている『おにやんま君の記事』のように、役に立つ発信をして、Ayatoの名前を世に知らしめてやろうと志を改める所存だった。
改めるといえば、もうひとつ。前述の記事で僕は田舎は暇に違いないということを書いたが、実際に住み始めると、そんなことは全くなかった。
以前亡くなった叔父の遺品や、震災でめちゃくちゃになった品物の整理、よりよい文章を書くための、インプットとアウトプット。家族と過ごす時間も大切だった。
足元がおぼつかない祖父を散歩に連れ出したり、近所にある知り合いの竹林に分け入って、祖母とたけのこを獲ったり、生け花を教えてもらったりしていた。無駄な時間といえば、カメムシと死闘を演じているときくらいだった。
それに僕は今、とある趣味にハマっていた。自然豊かな環境、人の少ない土地、なにものにも急かされない暮らし。
僕が野鳥観察にハマったのは、必然と言えた。
バードウォッチングにハマる
きっかけは、朝の散歩だった。二月の田舎の早朝には、白く冷え冷えとした静寂が満ちていた。
どこか遠くでトラックのタイヤが地面を削る音が、世界中に響いていた。自分の足音も、やけに大きく聞こえた。高い木々の枝先で桜の蕾たちが、孤独な僕を見下ろしていた。
そこに動く影。
僕が歩みを止めると、辺りで動いているものはその影だけになった。影は灰色がかっていた。しかしあまり視力の良くない僕は、それが野鳥であるということしかわからなかった。
「もっとよく見たい」と思った。
そういえば、僕は鳥の名前をぜんぜん知らない。窓の外で美しい鳴き声がしても「のどかだねえ」くらいにしか思ってこなかった。
あの鳥は、なんという名前なのだろう。
急いで家に帰った僕は、Amazonで12倍の単眼鏡を注文した。
ちなみに、なぜ倍率が12という数字で固定されているかというと、片手で扱うコンパクトな望遠鏡の場合、それが手ブレ込みで観察に支障がない限界の倍率だからである。
レンズをはめこんだ高級感あふれる筒が届いた日、僕は興奮のあまり、両親の顔や、隣の建物の壁の汚れを12倍にしては狂喜乱舞していた。
そして、二ヶ月が流れる。
最初は名前が気になっただけだった。それが一羽わかると、今度は別の鳥が気になる。名前がわかると、どんな鳥なのか調べたくなる。生態、生息地、鳴き声。
気づけば、家の周りを歩くだけで、そこら中が気になるようになっていた。僕はすっかりバードウォッチングにのめり込んでいるのだった。
いつのまにか『山と溪谷社』の『あした出会える野鳥100』という書物が手元にあったし、手書きの『出会った野鳥を示すしるし』は30を超えていた。
あの日見た灰色の影はヒヨドリという名前なのだと知った。ウグイスやキジ、オナガなどの鳥を至近距離で観察できるという珍しい体験をしたこともあった。
今の僕は『バードウォッチャーAyato』としての名声をほしいままにしているのだった。
スキルとしての野鳥観察
僕は自分が楽しむと同時に、野鳥観察におけるスキルの高まりを感じていた。
たとえば、狙いをつけること。
単眼鏡を使い始めてしばらくは、自分の狙いたいところをピンポイントで観ることは難しかった。なにせ12倍である。木や枝が見えても、それがどの辺りなのかわからず、まごついているうちに鳥たちを逃してしまった。
しかし、今。
今は、視界にうつった目立つ物にアタリをつけ、そこから素早くたぐるようにして、観察対象まで容易にたどり着くことができた。
スキルのなかには、実生活で役に立つものも多かった。
たとえば、気配。
鳥たちとの距離によっては、こちらの挙動は彼らを怯えさせてしまう原因になる。それゆえ僕は音を立てずに移動し、気配を極限まで殺すことのできる身のこなしを磨いた。
おかげで夜中に祖父母の安眠を妨げることなく、トイレに行くことができるようになった。祖父は朝まで、少なくとも三回ほど用を足しにいかなくてはいけないので、それ以外は極力静かにしてあげるべきだった。
飛んでいる鳥を追うために、動体視力も養われた。
そのため、近所の中学校からフライボールが飛んできたとしてもイワツバメのごとくそれを華麗にかわし、野球部の監督からドッジボール部のコーチに誘われることも考えられた。
野鳥観察者は、一般人視点ではとても怪しい。
手には望遠鏡、服装は地味、かぜでボサボサになった長髪、ヒゲ。急に立ち止まり、屈んだり、ゆっくり動いたり、そうかと思えばニヤニヤしていたり。
その姿は不審人物と紙一重だった。僕はなんとなくそれを自覚していた。異なる点といえば、知的好奇心があるかないかくらいである。
なので、すれちがう人間たちを安心させるために、挨拶を会得した。にこやかに挨拶をすることで『ああ、この不審人物は、悪い不審人物ではないんだ』と思わせることに成功していた。
もしも近所の中学の野球部監督からドッジボール部のコーチに誘われても、挨拶で身につけた人当たりのよさを発揮し、白鳥のように優雅におことわりできることも充分に想像できた。
ほんの小さな興味本位で始めたことが、こんな形で活きてくるとは信じがたかった。野鳥観察、実に役に立つのだった。
そしてこれを書いている僕は、また一つ役に立つ発信ができたことに、手応えを感じているのだった。
編集後記
こうして読み返してみると、我ながらなかなかに自由だなと思う。田舎に住むということはこういう自由さを育むということなのだろうか。
まあ、自由さはともかく田舎で僕の『知的好奇心』が育まれたのは事実である。
あの鳥は、なんという名前なのだろう。
ささやかな疑問から始まった活動。別に必要だったわけでも、新しい趣味が欲しかったわけでもない。
ただ、頭上にいた一羽の鳥のことを、知りたかっただけ。
でも、ひとつ知ると、次の好奇心が生まれる。
「次は図鑑に載っている、この鳥がみてみたい」
「ここじゃない土地には、どんな鳥がいるのだろう」
そうしているうちに、以前なら気にも留めなかった枝や電線や空を見るようになった。旅行先でもそうだ。名所を見に行く道中、野鳥を探している自分がいる。それどころか、鳥目当てで北海道旅行の宿を決めたり、ちょっと遠出して動物園に足を運んだりしている。
ささやかな疑問を追いかけていたらいつの間にか、身の回りの景色が少しだけ彩りを増す体験。たぶん、学ぶというのは、こういうところから始まることもあるのだと思う。
大きな目標があるわけでもなく、ただ、
「あれはなんだろう」
と思う。
そして、ちょっとだけ調べてみる。
僕の野鳥観察は、今のところそんなことの繰り返し。
だから散歩に行くと、今日も僕は空を見上げる。
「どこかに鳥はいないかなあ」と。



(2026/08/31 Ayato)
北海道では、馬にも乗りました。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは、僕が表現を学ぶための本や映画、またはそれらを効率よく吸収するための、お酒やコーヒーやポップコーンなどのおつまみになります。
