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未知にまたがり、坐骨をみつけよ。

はじめてのことに向かうとき、最初にあるのは大抵、焦がれるような熱や、きらめいた憧れではない。

僕の場合、不安や後ろめたさ、あるいは無関心だった。

「今さらはじめても遅いのではないか」
「失敗して、惨めな思いをするだけだ」
「だいたいどういうことか想像がつくし」
「慣れたことのほうが、コスパもタイパもいい」
「めんどくさい」

膨れてくる凡庸でくだらないあれこれを、理性で上塗り。

『好奇心を殺せば、在るのは衰退だけだぞ』

残されたのは、ただその一点。

物書きとして、小説家として。

まだ何者にもなれていない一人の人間として。

もっと世界を知らなくては。

僕の人生において、多くの物事はこうした対立のもとに始まる。



「乗馬は絶対にしたい」

言い始めたのは、パートナーだった。

そのとき僕たちは、8泊9日に及ぶ北海道旅行を計画していた。

僕たち、と言ってもレンタカーや宿、その他アクティビティなど、ほとんどのプランニングは彼女に一任しており、僕の方でやったことなど「スープカレーは食べたい」「野生の鷲が見たい」というただの願望の言語化のみだった。

乗馬体験は、そんな彼女の最大の楽しみのひとつ。

昼、夜の半日コースは予約が埋まってしまい、とることができたのは、朝イチのコース。

乗馬、というものが全くの素人である僕は、全てを彼女に委ねるのみだった。

ひとつだけ弁明させていただくと、決して「面倒くさい」「わからない」という理由だけで、彼女にこれだけの労をかけたわけではない。

適材適所、というやつだ。

彼女はプランニングや撮影、僕は現地で荷物もちや運転や洗濯や食事の準備やなんやかんや雑務。

結局、彼女は運転も荷物もちも半分ほど引き受けてくれたのだが、それはあくまで結果であり、彼女の優しさであり、決して僕の怠惰ではないことをここに明記しておく。



「どうしてそこまでして、わざわざ体験する必要がある」

「今のご時世、YoutubeやInstagramなど、いくらでも馬上の景色など観ることができるではないか」

「知識としての体験が欲しいだけなら、プロの意見を読んだり聞いたりした方がずいぶん建設的」

「なにか役に立つの」

未知のものへ向かうとき、いつだって足元には不安が絡みついてくる。

30歳。

この年齢になって、何かを始めるというのは、正直しんどい。

環境的にもやることが増え、集中しようにもできず、すぐ疲れ、頭に入ったはずのものは翌日、もやがかかっている。

すでに知識もノウハウもあるものを続けているほうが、費用対効果も高い。

しかし、自分が欲しいと熱望するものは、あくまで自分の想像の域を出ないものでしかない。



乗馬体験当日。

前日、屈斜路湖にほどちかい宿で、無理を言って早めに支度してもらった朝食をたいらげて、僕らは施設に向かった。

「道産子」と呼ばれる馬たちは、少し遅れた僕たちを静かに待っていた。

僕の道産子『かのん』はあくび混じりに、彼女の道産子『ゆうしゅん』にいたってはうたた寝をしていた。

近づいて、触れる。

硬く、たくましい。

生命としての大きさに、恐怖すら覚える。

この最初の印象はガイドの注意を聞き終え、鐙に足をかけ、手綱を引いたときにはより一層強くなった。

未知に、またがる。

身体の使い方には多少自信があるが、はじめは上手く姿勢が定まらなかった。

『かのん』もなんだか「今日はまたやけに不器用なやつが乗り込んできたもんだ」と動きづらそうにしている。

しかし、慣れてくるにつれ、周りが見えてくる。

湿原は背の高い草が少なく、辺り一帯見渡せる。

地表を濡らす霧雨。

ぬかるみも、道産子たちは構わず進む。

揺られていると、次第に腰から下の力が抜けていく。

すると、自分の身体のなかに、いままで気づかなかった重心と呼ぶべきものが発見された。

こんなところに「坐骨」と言われる骨がある。

「かのん」の呼吸。
「自分」の呼吸。
「坐骨」でつながり、重なっていく。

これは。

実際に乗った者にしか、わからないものだ。

馬たちの性格の違いや、草を喰もうとする力の強さ。

排泄のけたたましさ、優しさ、愛着、背から降りてしまったあとの何かが足りない感じ……。

知れてよかった。

来て、よかった。

心から、そう思えるのだった。


     (2026/7/20  Ayato)




最近、はじめて競馬にも行きました。よければこちらもぜひ。


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