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学ぶとは何か

最近、ある学生が体調不良と就職活動を理由に、続けて授業を欠席した。もちろん、体調を崩すこと自体は誰にでもある。しかし、「リスケできなかった就活」を理由に授業を休み、「残りは出席予定です」と言われたとき、私はふと考えてしまった。

学生にとって、大学とは何をする場所なのだろうか。

日本では、大学時代はしばしば「モラトリアムの期間」として語られる。社会に出る前の猶予期間であり、自分が何をしたいのかを自由に考える時間でもある。アルバイトをし、サークル活動を楽しみ、友人関係を広げながら、ときどき授業に出る。そうした「青春」としての大学生活が、一つの理想像として共有されているように思う。

もちろん、その中で多くを学ぶ学生もいる。しかし一方で、「大学は必ずしも学問だけをする場所ではない」という感覚が、日本では比較的広く受け入れられているようにも感じる。

それに対して、フランスの高等教育は、より職業や専門性と密接に結びついている。どの分野を学ぶかが、その後の進路と強くつながり、学生にとって授業や試験の意味も重い。日本のように、文学部を卒業した学生が銀行に就職する、といった進路は、フランスではあまり一般的ではない。

また、私自身フランスで生活する中で、日本とフランスでは「大学名」の意味合いも少し異なるように感じた。

日本では、「どの大学に入ったか」が重視される傾向が強いと言われる。一方フランスでも、特にグランゼコールにおいては出身校の影響力は非常に大きい。たとえばÉcole Polytechniqueの卒業生が “X” と呼ばれるように、学校名そのものが強い社会的ネットワークや専門的エリート性を象徴している。

しかし日本と異なるのは、その学校で「何を学んだか」が、将来の職業とより直接的に結びついている点である。

私が大学生だった頃は、日本の大学も、今よりずっと厳しかったように思う。単位が足りず、就職先が決まっていても卒業できない学生は実際にいた。一つの科目の不合格によって卒業延期になることも、決して珍しい話ではなかった。

しかし現在では、単位取得がぎりぎりだったり、判断が微妙だったりする場合、「なんとか単位を出してしまう」教員も少なくない。背景には、学生対応の複雑化や、後々のトラブルを避けたいという大学側の事情もあるだろう。実際、成績や授業をめぐって保護者が直接関わってくることも実際にあった。

以前、ネイティブの教員から実際に聞いた話だが、外国語の授業で発音について注意をした際、「子どもが傷ついた」と保護者から訴えがあったことがあるという。もちろん、教員側にも配慮は必要である。しかし、外国語教育において発音や表現を指摘することは、本来ごく当たり前の指導でもある。

いつの間にか、教員による注意や指導そのものが、「アカハラ」と受け取られてしまう場面も増えているように感じる。

もちろん、時代が変われば大学のあり方も変わる。学生支援が重視されること自体は悪いことではない。日本の大学には、専門に縛られすぎず、多様な経験を積める自由さがある。それは、人生の中でも貴重な時間だろう。

けれども、その自由の中で忘れてほしくないことがある。

大学は、まず学ぶ場所であるということだ。

私は大学で語学を教えているが、語学は単なる必修科目の一つではない。単位を取るためだけに履修するものでもない。言葉を通して異なる文化に触れ、自分の知らなかった世界を知り、自分自身の視野を広げる機会である。

だからこそ私は、授業の中でディベートを取り入れ、学生たちが自分の考えを言葉にする時間を大切にしている。

そして学生には、少なくとも「大学で学んだ」という実感を持って卒業してほしいと思っている。

出席回数を数え、ぎりぎり単位を取ることを目標にするのではなく、大学という時間の中で、自分の考えを深め、新しい世界に出会ってほしい。

それこそが、大学で学ぶということなのではないだろうか。

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