【小説】ホーム’ズ New・Era #1
本作は↓の続編です。
◯
日本には、かつて「探偵」制度があった。
警察志願者が年々減少していく状況に対して、国は警察の仕事をアピールするために、「探偵」という役職を作ったのである。
探偵は、刑事の捜査が済んで、犯人逮捕となったらいよいよ仕事が始まる。
事件で逮捕された者は「New司法取引」を行う。探偵劇への参加をすることで罪を軽くすることができるのだ。台本を作り、演技をして、探偵が事件を解決しているように見せかける。
その努力は制度施行から5年で実を結び、あらゆる媒体で放映される、まるで推理小説のクライマックスのような寸劇は、警察志願者数を5年連続で倍増させた。
だがその裏で進行していた陰謀が明るみになったことで、ブランドイメージは失墜し、制度は完全に廃止された。
あれから10数年、跳ね上がった警察志願者数は急転直下を始め、
ついに制度施行前の数をも逆突破し、過去最低を記録した。
◯
「宇治川舞さん。」
「はい!元気です!」
教壇の上でにこやかに出席をとる先生と、それに応える自分。
舞が、小柄な体で精一杯手をあげたのは、今日が授業参観だからだ。
気の早い親がもうやってきては、クラスの中の誰かが騒ぎ出す。
舞も、早く騒ぎ出したくてたまらなかった。
あ、あの人、舞ちゃんのママ?
そうだよ!すごく優しいの──!
そんな会話ができることを胸に馳せながら、椅子の天板の奥深くまで腰を下げて、ぴしっと姿勢を正す。
「5分前ですよ」
先生の声でみんなが席につく。
「それじゃあ、1年2組の授業参観を始めます。皆さん、いつも通りにね!」
うしろを振りかぶる。
お母さんは見えない。
ふとため息を吐く。お母さんは、いつも、来てくれない。
ソワソワしてるみんなが羨ましくて仕方がない。
お母さんは私が泣くと怒るから、笑うようにした。
お母さんは私がなにか聞くと怒るから、黙ってるようにした。
だから昨日も、舞は言い出せなかった。
明日参観日だから、来てほしいなー!
そうやって甘えたかった。
唇を結んで下を向いたとき、ドアが開く音がした。
振り返って、そして──涙が出てきた。
「ね、お母さんちゃんと来たでしょ?私は舞のお母さんだからね。」
手を引かれながら道を歩く。日差しの強い日だった。いつもの通学路も、お母さんと歩いてるだけで楽しくてしょうがない。
そのとき、遠くにスーツ姿のお父さんが見えた。
お父さんも、来てくれた!
駆け寄ろうとして、ぐっとひかれる。思わず上を見上げると、お母さんは凍りついた目をしていた。
繋がれた手に汗が滲み出す。
「おいどうした、こんな時間に呼び出して。参観日は行かないって言ったろ?」
「ごめんなさい、ちょっと話があって。」
「はあ?」
舞を真ん中に、ふたりが話す。最初はポツポツと言い合って、やがて激しくなっていく。いつもだ。
横断歩道をわたり、家の前の踏切りで止まった。ランプが点き、もうすぐ遮断器が降りる。
カン、カン、カン、カン….
無機質な音が響く。
お母さんが突然、私の手を振りほどいた。そして次の瞬間、服が擦れる音がした。その音の源には、もうなにもなかった。
そこは、お父さんがいるべき位置だ。右にお母さん、左にお父さん。いつもの光景。
目線が線路に移る。そこにお父さんはいた。倒れ込むんでいた。
腕をついて、立ち上がろうとしたとき、またお父さんは消えた。
舞の目の前を、鉄の塊が走り去った。
しりもちをついて、お母さんを探す。お母さんもまた、座り込んでいた。
「あ、あははは…」
恍惚とした表情でお母さんは笑い出した。舞は抱き寄せられる。
カン、カン、カン、カン……
無機質な音が消え、鉄の塊も消えた。
お父さんは、どこにもいなかった。
◯
ブブブ…..
「!」
アラームの音で、ガバっと飛び起きる。窓の外を見て、安堵の息をつく。
宇治川舞は掛け布団をぎゅうっと掴んだ。
だめだな。こんなんじゃ。
深呼吸して、立ち上がった。汗ばんだ寝間着を着替えて、出勤の準備を始めた。
舞は今、生活安全課に所属している。ストーカー被害を未然に防ぐべく、日々勤しんでいる。
鏡に映る顔を見て、頬をふくらませた。
このところ、また悪夢ばかり見る。
母の詩織と、父。顔も、名前すら知らない父は、私が生まれてまもなく亡くなった。その真実を知った十数年前のあの日から、今日まで、ときどき存在しないはずの記憶が、嫌に鮮明に夢に現れる。
参観日は、誰も来なかった。それは覚えている。
虚構と現実が入り混じった夢は、精神をすり減らせる。
頬をペチンと叩いて、目を引き締めた。
ボブカットの髪の毛を整え、決まりの化粧ルーチンを敢行する。
キッチンに向かって、弁当作りに取り掛かった。
野菜を通して、包丁がまな板に接する音が部屋に響く。昨日のうちに予約炊きしておいたコメを詰めて、最後に卵焼きを添えて完成させた。
身支度を整え、玄関に向かう。途中で、棚の上に鎮座する写真に目をやる。
「いってきます!」
買ったばかりの靴を履いて、内鍵を開く。部屋に光が漏れ込むと同時に、部屋から人の気配は消えた。
残された写真に写るのは、宇治川悟。故人である。
◯
「おーーーーーーーい!!!!!!!」
太陽が照りつく展望台で、宇治川健太は大声をあげた。
向かいの山から響くやまびこに、満足そうにうなずいた。
「トウちゃんもやってみ」
「その呼び方やめてってば!」
「ごめ〜ん、灯花ちゃん!」
灯花はすうっと息を吸い込んで、
「けーーーーんちゃああああああああああん!!!!!!!」
ふたりで耳をすます。
「はは、灯花ちゃん肺活量すごいね」
「いや〜それほどでもあるよ〜」
高らかに笑い合った。
なんだかもう、相手の笑い声でつられて笑ってしまう。もう止まらない。
永久機関の完成である。
「あははは」
「くっ..ふふふふ」
そんな笑い声に混ざって、着信音がなった。
「あ、あ、ごめんごめん」
まだ笑い足りない灯花はOKOKと手でサインして、景色を見始めた。
『健太?ちょっと帰ってこい。』
声を聞くだけでげんなりする。今日は休みの日なのに。
「すみません、ちょっと今講義中で…」
『土曜なのに?』
「土曜なのに。」
『風の音するけど?』
しまった。ここは展望台だった。
眼下に広がる森に唇を噛む。
「…えっと、今その…ちょっと..友達と出かけてて。」
『久しぶりの依頼だ。今すぐ帰ってこい!』
一方的に切られてしまった。畜生。
「ねえ…灯花ちゃん..?」
「なに?」
「早々に切り上げて戻りたいなあって」
「はえ?まだ来たばっかなのに?」
「ちょっと今すぐ戻んないといけなくて」
「しょうがないなあ」
「ごめん!!!!」
大声で詫びたから、山もいっしょに謝ってくれた。
◯
「おせえぞ!!」
奥に座る、サングラスにポロシャツ、デニムパンツという出で立ちの男が激を飛ばした。
怒鳴んなよ。
健太はふてぶてしくソファに座った。
ここは大学近くにある探偵事務所だ。大学生になってから、ここでバイトしている。選んだ理由は、昔探偵になりたいという夢が腐りながらも残っていたからであるが、いちばんは結構羽振りがいいからだった。
社員というかこの事務所の「探偵」は真田ハジメ。
となりに座るギラついた男である。なぜ屋内でサングラスをつけているのかは聞いたことがない。なにか特殊な事情があるのでは、と最初は思っていたが、この人はよく外すし、なんなら時々忘れていくので、ファッションだと勝手に結論づけた。
向かい側に座っている女性が、今回の依頼者のようだった。
見たところ、自分と同じ年齢に見える。
「で、どんなお話ですか?ごめんなさいねぇ待ってもらって。ほんっとこいつのせいで..」
真田は頭をぐりぐりしてきた。
「いやまじですみませんほんと。」
なんで謝ってるのかわからないが謝るしかない。
「あ、俺真田といいます。おまかせを。」
まだ自己紹介もしてなかったのか。
呆れていたら、依頼者のターンになった。
「あの、私、久間アオイって言います。えっと、実は、私の兄がずっと行方不明で…」
「行方不明?」
真田がサングラスを外した。
もしサングラスが覚醒の合図だとしたら、ちょっと外すのは早い気がする。
「一ヶ月前に突然いなくなって。なにも言わずに。」
「警察には?」
真田は段階を踏んでいく。
「言ったんですけど、もう成人しているから、自分で生活できていると門前払いされまして。まあ、もう26ですし、言いたいことは分かるんですけど…でも。」
「でも?」
「いなくなる前日の夜、喧嘩したんです。普段特に喋るような仲でもないから、突然こんなことになって驚きました。結構ひどいことも言われて。もうあのときは本当に顔も見たくなかったんですけど、まさかほんとに顔も見れなくなるなんて….」
真田が訝しむような顔を見せた。
ああだめだ。もうこのあとの言葉は決まってる。
「ご安心ください!私と、この健太が、必ずお兄様を見つけて見せますよ!んで、まずは色々聞き込みなんで、この健太にやらせます。詳しいことも、こいつに話してください!じゃ、俺はタバコを!」
俺はタバコを!の、タバコ、あたりでもう立ち上がっていた真田は、がに股で外へ消えた。
いつもの光景だ。
「あ、えっと、宇治川健太って言います。まずはその、喧嘩した日のこと、詳しく聞かせてもらえますか?」
「…はあ。」
相談場所をミスったという顔をしているアオイに、心から申し訳なくなる。
健太は生来頭を使うのは苦手だ。でも、困った人は見過ごせない。
これも性分なのである。
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「うーーん、手がかりになりそうなことはないですねえ。」
「そうですか。」
沈黙が流れてしまった。
健太は、少し息抜きをすることにした。
「そういえば、今は何をされてるんですか?」
「大学生です。すぐ近くの。」
「え!俺もっすよ!」
あそこですよね、と窓から見える大学を指差す。
「そうですそうです。なんかすごい偶然ですね」
「そうっすよねえ。あ!でもあれっすか?なんか聞いた限りだとこっちに実家ある感じで?」
「そうですね。はい。」
「俺なんか九州から上京してきて。去年はもうてんやわんやでしたよ。」
「えー!九州から!」
いいぞ、なんかうまくやれてる。アオイは最初どんよりとした雰囲気だった。兄が行方不明なのだから当然だ。少しでも元気づけてやりたい。
「だから俺、マジで流行に疎くて。リンスタとかで頑張って調べましたよ。」
へー、と相槌をうつアオイの目が、だんだん見開かれてゆく。
「リンスタ!」
「へ?」
「あ、ほら、リンスタって、1年前くらいに、位置情報共有のアップデートが入ったじゃないですか?」
リンスタとはリンスタグラムの略で、日々の写真をアップするSNSだ。
「あー、ありましたね。アレ、設定で解除しないと危ないって話でしたよね。」
「そうなんですよ。でも兄はそのへんちゃらんぽらんで、ろくに設定してなくて。」
「え、じゃあ残ってるってことですか?」
「はい!」
と聞くと、当然の疑問が湧いてきた。
「いなくなったときは見なかったんですか?」
「ああ、それなんですけど。」
アオイは噛みしめるように言った。
「受験のときにアンインストールして、そのままだったんですよね。」
現に今、彼女はインストールをはじめている。
今は5月。まだ色々立て直している時期なのかもしれない。
「割とギリギリ二次募集で合格して、ちょっと余裕なくて。」
あ、じゃああなた後輩なんですね、とは言わないでおく。
依頼者と探偵。今はそれでいい。
ログインを済ませて、アオイは兄のアカウントに飛んだ。
「…あ、共有されてる。」
覗き込んで、驚いた。
「近所じゃないですか?」
◯
そこは、リサイクルショップだった。
頭が回らないなら、足を使うしかない。
「うーん、1か月前、1か月前…」
店主がうなりながらファイルを確認している。
「あ、もしかして。」
そう言ってしばらくバックヤードに消えた店主は、1台のスマホを持ってきた。
「これですか?」
アオイが「あっ」と口を突いた。
「兄のです!..でもなんでこんなとこに。」
「それね、1か月前くらい前なんですけど、男がでっかい箱を持ってきて。結構いっぱいはいってたんすけど、その男が言うには『金は明日もらいに来るから、ゆっくりやってくれ』ってね。まあ、そういうお客様はいらっしゃるんで、そのときは気にもとめなかったんですけど」
健太はのどをゴクリと鳴らした。十数年ぶりの、あの感覚だった。
「箱の中に、このケータイが紛れ込んでて。うちは電子機器は買い取らないんで、困ってたんですよ。もしかしたら間違えて入れちゃったのかなとか。でもいつになってもその男は来なくて。で、まあとりあえず箱と一緒に残しといたんです。」
「その男の特徴は?」
健太は言いながら、緊張してきているのがわかった。
「いやそれが顔もぼうしでほとんど隠れててよく覚えてないんですよ。」
だめか。
「あの、その持ってきた荷物って」
アオイの言葉で、バックヤードに案内されることとなった。
「まあ、金を払ってから店頭に、っていうルールなんで、残らず残してますよ。」
箱の中には、おもちゃや服、目覚まし時計など、雑貨がところ狭しと詰め込まれていた。
「これ…」
アオイが震わせた声で言った。
「これ、兄の靴です…」
「えっ」
「これは兄の…ちょうどいなくなる前に着てたシャツです。」
結局、箱の中には、アオイの兄のモノと関係ないモノが入り混じっていた。
◯
「靴に下着にシャツにスマホ。それと靴下に…メガネか。」
真田は、健太が撮ってきた写真を眺めた。
「もうこりゃ、私立探偵の領分じゃねえな。久間さん、警察にこの写真を提出してください。力及ばず申し訳ない。」
アオイは少し落胆したような顔を見せたが、すぐに取り繕った。
「こちらこそ、申し訳ありません。ありがとうございました。」
アオイと連絡先を交換して、写真を送信した。
「結局なんなんですかね。」
アオイが去ったあと、何気なく健太は疑問を口にした。
「決まってんだろ。誘拐か、拉致か。とにかくその手の連中に目をつけられたんだろうな。」
妙に生々しい言葉に、底しれぬ恐怖を覚えた。
「…結局俺なんもしてないですよ..」
「気に病むなよ。きっと相談できただけで救われたろ。」
そう言うと真田は、財布片手に事務所をあとにした。
ソファに座り込む。
久しく感じていなかった、この恐怖。
十数年前に体験したあの事件は、健太の原点とも言えるほどセンセーショナルなものだった。
不意に、高速道路で、後部座席から見た景色が思い出された。
助手席には、姉。運転席には──。
ザラついた記憶に蓋をして、健太は灯花に弁明の連絡を開始した。
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久間アオイから連絡があったのは、あれから1週間ほど経った頃だった。
場所として駅の近くのカフェが選ばれた。
「すみません、わざわざ。」
「いやいいんですよ。それで…」
なんで探偵事務所じゃなく俺に連絡を、とは聞かないでおく。
「あのあと警察に言ったら、いちおう被害届は提出できたんです。だけどやっぱり、全然落ち着かなくて。」
健太は唇を噛み締めた。
「あの、お願いがあるんですけど。宇治川…先輩?ですよね?あの、いっしょに兄を探してもらえませんか?」
「え?」
宇治川先輩なんて呼ばれるとくすぐったい。だがそんなことよりも。
「警察が捜しているのはわかってます。でも、どんな結果になろうと、自分で納得の行く道を行きたいんです!」
健太は黙り込んだ。
思い出されるのは、助手席に座る、姉。運転席に座る──福島武雄。
「アオイさん。やれるだけやりたいです。俺に、手伝わせてください。」
アオイの顔がぱあっと明るくなった。
「本当に、ありがとうございます!」
大きく頷いてみせる。
俺だってやれるんだ。姉や、おじさんみたいに。
「じゃあ、まずは、お兄さんのいなくなった日のことを思い出してみませんか。」
「あの、先輩なんだから敬語じゃなくていいですよ。」
「えっでも一応依頼だし..」
「個人的なお願いなので…って、もう敬語やめてるじゃないですか!」
思わず笑い合う。
大丈夫。俺も探偵になれる。
そんな決意が、心のどこかで確かに芽生えた。
◯
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◯
そこは、ゲレンデの見える雪山のロッジだった。
ベランダには、青いウェアに身を包んだ夫の国俊が、ココアを嗜んでいる。
「何時に行こうか。」
「ちょっと待ってよ、これ飲みきったらで。」
鼻を鳴らして、じっと夫を見つめる。
ベランダから吹雪く風が、身をつんざく。
私の用意したココアを、夫が飲む。
私の分は、用意していない。
もういちど吹雪いたとき、夫の背中は丸まり始めた。
「うぐっ…千夏、ちな…」
夫の頭がベランダのフェンスに打ち付けられ、ズルリと倒れ込む。
フェンスに残った血痕に、粉雪が降り積もるのを、千夏は呆然と見つめるしかなかった。
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「さぶうううって言いたいっすけど、あんまっすね。」
坂本ワタルは、「水沢高原パーク」と書かれたゲートをくぐり抜けた。
「お前たるんでるぞ。」
答えたのは新田。坂本の先輩刑事である。
坂本は今、警視庁から出向中である。
「鑑識によれば、死因は毒物による呼吸停止らしいです。」
「毒か…。」
新田が噛みしめるように言った。
「被害者は諸田国俊48歳。第1発見者は、共にスキー旅行に来ていた妻の諸田千夏47歳。目の前で夫が突然倒れたと通報が入ったみたいです。」
「そのとき他に人は?」
「いません。ですのでまあ。」
「順当に行けば、そうなるな。」
ロッジはストーブが止まっており、かなり寒くなっていた。
ベランダには、ご遺体が横たわっている。
「被害者はココアを飲んでいたと聞いています。」
坂本は暗に毒の混入先がココアだと伝えた。
◯
諸田千夏にとって、これは僥倖だった。
夫が倒れ込み、しばらく呆然としていたあのとき、不思議と駆け寄ろうとは思えなかった。
誰がやったのか、なんて今はどうでもいい。
国俊は死んだ──。
その事実がたまらなく嬉しかった。とんでもない奇跡という他なかった。
愛人にうつつをぬかしては、やれ愛想が良くないだの、品がないだの、口先だけは名家の出身らしいことを口にするくせに、
当の自分は名家の出身という自覚などないに等しく、ろくに話を聞かず、下品な言い回しばかりする。
この間、隣の家のBBQに招待されたときもそうだ。
私には発言権を与えず、自分だけが喋り続けては、絶句するほど卑猥な話を大声で列挙する。
何度場が凍ったことか。
死んでくれて清々した。ただひとつの問題は、自分が疑われていることだが、やっていないのだから不安がる必要もない。
今、千夏は管理ロッジで待機していた。もうすぐ聴取が始まるとのことだった。
ふと近くの窓に目をやる。春スキーなこともあり、さっきまでぱらついていた粉雪は消え、今は見晴らしのいい景色が広がっている。
そのときだった。
ゲレンデ近くの森の中に、人影が見えた。目を凝らすと、それは青いウェアを着た男───
「へっ…?」
見間違いのはずがない。
あのウェアは私が買って、国俊が着ていたものだ。
管理ロッジを飛び出し、ゲレンデに走る。
息が荒くなる。心臓がどくどくと高鳴る。
森の前に来て、薄暗い闇の中に青いウェアを見つけた。
そして、両隣には──警察官がいた。
「なんで…?」
ちょうどそのとき──そう、ちょうど、千夏の後ろのゲレンデで軽く転倒事故が起きた。インストラクターが集まってきて、救助を始める。
そして、インストラクターの大声が、
森の奥のその男を一瞬振り向かせた。
千夏の目に飛び込んできたのは、誰でもない、頭に包帯を巻いた、夫の顔だった。
◯
「新田さん、もう管理ロッジ行きませんか?聴取もしないと。」
倒れ込んだ国俊の遺体の前で屈み込む新田に坂本は声をかけた。
「わかったよ。」
きつそうに立ち上がる新田に手を貸して、入口へと向かった。新田はもうすぐ定年である。
坂本がドアを開けるよりも前に、先に開いた。
「交代します。」
敬礼をしたふたりの刑事に任せ、ロッジをあとにした。
「今のふたり、一課ですか?」
新田は答えない。
「新田さ」
「俺の記憶違いならいいんだがな。」
「それってどういう…」
「俺ぁもうずっとここにいるが、あいつらの顔は見たことがない」
「…協力体制をとるとは連絡が来てないですけどね」
それから少しして、遺体が消えたと急報が入った。
◯
「おまえは何をしてるんだっ!!」
唾を飛ばしながら怒鳴る本部長に、今は頭を下げるしかなかった。
「..新田さんがついていながら、なんたる様ですかこれはっ!!」
本部長は坂本に睨みを効かせてくる。
「あの…交代の者が来たのですが..」
「お前は黙ってろっ!!!!!」
本部長の目の敵にされるのもなかなか辛いものだ。
「本部長。交代の刑事が来たんですよ。」
「本当ですか、新田さん!」
俺も同じこと言ったのに。
「とにかくもういい!」
もう引き下がるしかなかった。
「坂本、あんま気に病むなよ。本部長は警視庁に入れなかった人だから。お前が面白くないんだろ。」
ありがとうございます、と頭を下げ、缶コーヒーをぐびっと行く。
「でも気になりますね。この社会で遺体を欲しがる輩がいるなんて。」
「そんな単純な問題でもないと思うがな。」
その日の夕方、ふたりは本部長に再び呼び出された。
「もうこのヤマからは手を引け。」
「は?」
本部長はバツが悪そうに続けた。
「もう関わるな。忘れろ。」
「納得できません!」
「黙ってろっ!!!!」
坂本は怒鳴られたことより、本部長が涙目になっていることが気になった。
「新田さん、すまん、このとおりだ。」
「いやいいんですよ。それより、どうしたんです、何か悲しいことでも?」
新田も同じことを思っていたようだ。
「坂本ワタルを…警視庁に戻すようにと…」
「え?」
寝耳に水だった。だがなぜそれでなく必要があるのか。
「役人のやつらめ、ここを警視庁堕ちの墓場だと。そこに坂本を置いとくわけには、行かない、なんて、ふざけんな畜生!」
「本部長。ここは墓場なんかじゃないですよ。」
新田になだめられて、鼻息をたてながら本部長は居を正した。
「とにかく、この件はこれで終いだ。新田さんには別のやつをつけるから。」
今は、何も言わないほうが良さそうだった。
「坂本、気を付けろよ。」
署を出たところで、新田が口を開いた。
「俺もちょっと気になってます。」
そう、本部長は確かに言った。役人のやつら、と。
「警察庁絡みでなにかが起きてる。この事件、多分まだまだ続くぞ。」
頷き、唇を結んだ。
坂本は十数年前の記憶が呼び起こされていた。
探偵、か。あのときのおかげで、今の俺がある。
「新田さんも体を大切に。」
「はっは、雪国の男を舐めるなよ?」
短い間だったが、なんともおもしろい経験だった。
その週に送別会が開かれ、次の週には、坂本は警視庁に復帰した。
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その男は、絶対的に権力を有していた。
男は知っている。関係ないはずのふたつのものが、実は重要な鍵になることを。
これは壮大な演劇だ。
犯人役、被害者役、そして警察役。
男は知っている。ちっぽけな存在だと思っていたものが、いつか飼い主に噛みつく日が来ることを。
これは壮大な演劇だ。
目撃者役、容疑者役、そして──探偵役。
男は、立ち上がり、部屋の隅に置かれた絨毯の前にかがみ込んだ。
届いたばかりの特注品だ。
絨毯のいたるところにズレを認め、男は絨毯の面を、コップを掴むように掴んだ。
絨毯の上に、ひとつの塔ができた。
男は知っている。どんな危険因子も、まとめ、潰せば、消えてなくなると。
男は塔を真上から叩き潰した。
生まれた波はあらゆるシワを伸ばし、絨毯は美しく整った。
絨毯の上に寝転がる。
これは巨大な演劇だ。
演劇のはじめとおわりは、私が決める。
探偵ブランドの栄光と失墜から十数年。
この年を境に、警察志願者数は少しづつ増加していくこととなる。
新時代は、始まってしまった。
ホーム’ズ New・Era #1 fin.
#2に続く 。
