「役に立つから学ぶ」を超えて
最近、丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』を読み返している。
その中に、フランスの政治学者のアンドレ・シーグフリードを引用した一節がある。
「教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚を持とうとするところに軸を置いている」
最初に読んだ時は、正直よく分からなかった。
教養は「飾り」ではなく、
人間の存在の深さに関わる。
教養とは、知識量のことではない。
単に「物知り」になることでもない。
自分はどんな価値観の中で生きているのか。
何を美しいと思うのか。
なぜ息苦しさを感じるのか。
社会とどう関わっているのか。
そういう、自分と世界との関係を自覚すること、それが教養なのだと
ここ、難しいですよね
自分と世界との関係って
・自分は何に支配されているか
・何を美しいと思うか
・社会とどう関わっているか
・自然をどう感じるか
・どんな価値観の中に生きているか
これって、歴史を知り、思想書を読み、宗教や政治について学ぶことで得られること
日本や西欧の近代の夜明けについて、
前近代との違いや変化に気をつけながら学んでいくと
今の自分の価値観(例えば民主主義や科学主義など)を、大きな全体像の中の片隅にある一つとして見ている感覚になります
シーグフリードは、
芸術や教養は「果実よりは花」だと言った。
役に立つかどうか。
成果を生むかどうか。
数字になるかどうか。
もちろんそれも大事だ。
だが、それだけで人間の学びを測ってしまったら、
世界はひどく薄っぺらいものになる。
私は高校で古典や評論を教えている。
時々、「古典って何の役に立つんですか」と聞かれる。
気持ちはわかる。
社会全体が、「成果」「効率」「即戦力」を求めているからだ。
でも、古典を学ぶ意味は、
すぐに役立つ知識を増やすことではないと思っている。
日本人は何を美しいと思ってきたのか。
何を恥とし、何を理想としてきたのか。
どんな世界観の中で生きてきたのか。
そういう、自分たちの精神史を知ること。
そして、
「今の自分の価値観も、巨大な歴史の流れの中の一つなのだ」
と気づくこと。
いま、古典は役に立たないから減らせという方向性が文部科学省にあることを感じている。
たしかに、すぐに役に立つものではないかもしれない。でも、古典を学ぶ意義っていうのは、今後国際社会になっていく上で、必要不可欠なものだと思う。
相手(外国の人)を理解するには、まず自分のことを理解してなきゃいけないと思うからだ。
日本人ってどういう歴史的な背景があって、どんなことを考えてきて、どういうことを美しいと思ってきたのかってこと。自分たちの思想や美的感性の歴史のことすら理解していない人が、外国の人とまともな会話ができるわけない。相手の文化のことを理解できるわけないじゃん、って思う。
古典に対する教養は、人間が深く呼吸するためには、必要なもの。
私は授業で、
二項対立を整理したり、
具体例を出したり、
生徒の日常に引き寄せたりしながら、
難しい評論を「翻訳」している。
フリーズドライの思想に、
お湯を注いでいる感覚に近い。
「飲んでごらん。これなら味が分かるでしょう?」
フリーズドライの塊を遠巻きに見て
敬遠している子どもたちに、
まずは「うま!何だこれは?世界が変わって見える。もうこれを飲む前には戻れない…」とまずは思わせたいのだ。
生徒たちが、「あ、これ自分の世界にも似たようなことあるよね」
と言った瞬間、
評論は単なる知識ではなく、
「世界を見るレンズ」になると思うから
学ぶとは、
世界の見え方が変わることだと思う
授業では
とんでもなく過激でエキサイティングなことをやっているんだと思ってる。
