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日田街道3(朝倉街道)

日田街道3(朝倉市甘木~朝倉市杷木)

令和7年12月6日

甘木は秋月街道と朝倉街道が交差する交通の要所であり、安長寺の門前町としても栄えていた。

安長寺

安長寺由来には、今より千有余年前、甘木遠江守安長と伝わる豪士がいた。父を安道と云い矢田の金剛山寺の地蔵を信仰していた。安長が幼少の時疱瘡を罹った。父は矢田に籠り祈願しのち安長の病は治った。安長がこの地に移り幼時の霊護に報いんと地蔵尊を迎え本尊を本堂に祀った。彼の氏を村にあて甘木村とし、名を寺にあて甘木山安長寺とした。開山は満慶上人である。
本堂は神社の拝殿のような造りであるがやはりお寺である、鈴ではなく鰐口であった。

安長寺本堂

安長寺の近くに須賀神社の鳥居がある。

須賀神社鳥居

この奥250mに本殿がある。
須賀神社の元は「大雄山祇園禅寺」と称し臨済宗東福寺派の承天寺(博多)の末派寺院であった。その境内にあった牛頭天王を祀る社殿が甘木一円の信仰に支えられて古来より盛大な祭礼を行ってきた。これが須賀神社の前身である。(須賀神社ホームページより抜粋)
二日町通りから本道りを通りこの鳥居の所から右折し安長寺山門を通り過ぎたら左折する。これは宿場町特有の防衛の為の桝形ではないだろうか。
この後は真っ直ぐ進んで県道112号線へと合流する。
合流する手前に屋須多神社がある。

屋須多神社

あまり聞かない神社名であるが本宮は瀬高町の八坂神社内にあるようだ。

九州御朱印巡り様のブログに詳しく載っているので参照されたし。その伝説によれば修験者の屋須多という人?が民家に一夜の宿をとられた。そのお礼に水神様のお守りを渡された。それ以降火事が起きても大火にならないとの事。水神様をお祀りしている神社のようである。
県道112号線に合流してしばらくして立石神社がある。

立石神社

この立石神社にも面白い言い伝えが残っている。最澄が唐より帰航する時風難に遭った。心中に祈願しつつがなく帰朝すれば七仏薬師を彫刻せんと誓われ無事帰朝した。この祈願を果たす為筑紫国に下りこの地の石橋の上に差掛った時夜須郡古処山の嶺にあやしき紫雲たなびいたので橋の上で一歩三礼して古処山に登った。それゆえにこの橋を「礼拝橋」と言うようになった。その後ここの村人が「この礼拝橋に乗る事は恐れ多い」と霊夢を観た為その石をとり祠を建て立石権現と崇め今に至る。
古賀茶屋交差点に筑豊八百八酒家司神の石碑がある。

筑豊八百八酒家司神石碑

これが何かインターネットで調べたが解らず。
佐田川の手前に道標とお地蔵様がある。

お地蔵様と道標

お地蔵様の台座の部分に「右日田道」と刻まれている。多分お地蔵様を寄進した人が折角だから道標としても役立てようとしたのだろ。
佐田川を渡りしばらく行くと一里塚の交差点がある。

一里塚交差点

一里塚の石碑か何かないか探したが見つける事が出来なかった。
この地域を歩いていると多くのお地蔵さまや猿田彦大神石碑がある。

地蔵堂
猿田彦大神碑

門前町と言う事もあり、寄進できる財力と共に熱い信仰を持った人が多かったのだろう。
三奈木地区に入ると三所神社がある。

三所神社

三所神社は三柱を御祭神として祀っているのでついたようだ。ここは天照大神・倉稲魂命・大山衹命。三所神社も所変われば三柱も違うようで糸島半島にある三所神社は田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命である。ここの三所神社の事は​松村かえるの「かえるのねどこ」​様が詳しく書かれているので一度訪れられてはどうだろうか。  

その先国道386号線から左折し脇道に入る。
桂川を過ぎると比良松宿へと入る。
(比良松宿の記事を探したが当時の状況が判る記事を見つける事が出来ず。ただ桂川前後とも比良松宿のようだ。)
比良松エリアは古い町並みが比較的残っている。

㈱篠崎千の蔵
㈱篠崎(蔵造り)
旧比良松郵便局

上段の写真は​㈱篠崎​という酒造会社である。宿場町には江戸時代から続く酒造会社が多い。ここ㈱篠崎も江戸時代後期から続く老舗酒造会社である。
下段の写真は旧比良松郵便局である。詳しい話は​小さな近代旧朝倉郵便局(比良松郵便局)​ batoさんのnoteに載っている

興味のある方は訪れてほしい。それによれば建物自体は江戸時代だそうで昭和初期の改築によって今の形になったとの事。 
その先に円誠寺がある。

円誠寺

その対面に比良松厳島神社がある。

比良松厳島神社

神社の由緒には斉明天皇6年(660年)朝鮮半島の百済が唐と新羅の連合軍に敗れ日本朝廷に救援を求めてきたので翌7年天皇は御西下し筑紫の国「朝倉橘公庭宮」に入られ遠征軍備を進められた。天皇が遠征軍の海上安穏と武運長久の祈願のため、中大兄皇子(後の天智天皇)に命じ創建されたのがこの厳島神社である。
比良松宿を出て高速道路の下を潜り山田交差点の手前に古い石柱があった。

通道橋石柱

通堂橋と刻んであり明治20年に建てられたようだ。
その近くに三連水車の里あさくらがあり三連水車のモニュメントがある。

三連水車

本物の三連水車はその用水路を少し戻った所にある。
その後国道386号線を進む。交差点の標識に恵蘇宿の文字がある。

恵蘇宿交差点

斉明天皇7年(661年)崩御により中大兄皇子が木の丸殿で喪に服されていた頃、設けられたのが朝倉の関でその近くに造られた宿場が恵蘇宿である。かなり古い宿場町である。
その近くに隠家森がある。

隠家森

朝倉の関が設けられた後ここを往来する人は名乗りして通り、名乗れない人は夜になるまでこの森に隠れていたと伝えられている。今は大きな楠一本しかないがこの伝承から隠家森と言う名が付いた。昔はここ一帯雑木林か楠の森が広がっていたのだろう。この楠は樹齢1500年以上と言われ全国第8位の巨木で国指定天然記念物である。
この先に朝倉の関跡石碑がある。

朝倉の関石碑

西の「刈萱の関」東の「朝倉の関」で通行の人々を監視し朝倉橘広庭宮の護衛にあたったと伝えられている。
その向こうに恵蘇八幡宮がある。

恵蘇八幡宮鳥居
恵蘇八幡宮拝殿

この恵蘇八幡宮の裏手に木の丸殿跡がある。
恵蘇八幡宮は斉明天皇が百済救済のため朝倉橘広庭宮に下られた時に随行の中大兄皇子が国家安泰と戦勝祈願の為宇佐神宮に奉幣使を遣わされた。その一行が恵蘇山麓に達した時天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出た事から天降八幡なる宮社が創建された。その後天武天皇白鳳元年(673年)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めた。
恵蘇八幡宮の対面に筑後川がありその川に山田堰がある。

山田堰

山田堰の川岸には水神社がある。

水神社

山田堰は寛文3年(1663年)に造られ、寛政2年(1790年)河道全体を覆う「傾斜堰床式石張堰」として大改修された。灌漑面積は現在650ha、堀川用水と呼ばれる水路は総延長88.1Kmにもなる。大改修の指揮を執ったのは古賀百工翁、のべ62万人の農民が出役した。堀川用水に架かる水車群は寛政元年(1789年)に設置され、5年ごとに新調更新を経ながら7基が稼働、約35haの水田を潤している。
水神社は当然この堰と関りがある。
この水神社の地下には堀川用水の切貫水門が掘られている。工事は享保7年(1722年)、堀川下流各村の農民が工事の安全と水難消除のために神社を建立して守護神「罔象女神」(みずはめのかみ)を祀ったのが水神社の始まりである。(朝倉市ホームページより抜粋)
杷木地区は柿の産地である。歩いた日は12月上旬だった為青空の元、柿の紅葉がきれいであった。

柿畑

国道588号線から脇道へと進む。高速道路の下を潜った先に志波寶満宮がある。

志波宝満宮鳥居
志波宝満宮拝殿

志波宝満宮は志波の産土神として宝満山より竈門神社を分祀した。この神社は境内社叢全体が県の天然記念物に指定されている。また、境内には古墳があり人骨と共に家形埴輪等貴重な埋蔵品が出ている。
原鶴温泉に近づいたら国道386号線から脇道へと入る。入り口に大きな楠がある。
これを大善楠という。

大膳楠
大膳楠と石碑

大膳楠の大膳とは黒田藩の忠臣栗山大善の事である。この地を納めていた栗山大善はこの大楠の所に住み着いていた悪さをする大亀を射殺したといわれている。当時の楠は延宝7年(1679年)に焼失、その根元より生じたのが現在の楠だそうだ。
さて今回はここまでとする。残り日田までは次回書きたい。

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