ルッキズム論からの懐かしのスーパーモデル、結果SKZに繋がる話
なぜいきなりルッキズム?
それが、唐突に思いついた理由なんですが、noteのオススメ欄に、
「日本以外の国にもルッキズムはあるのに、外国にはルッキズムはないと思い込んでる人達」
という、トンデモないタイトルを見つけてしまったので…なんでだ、なんでオススメなんだい!!
(と思ったらアイドル界隈だからなんですね。逆に、私のこんな文章がアイドル界隈でオススメされてたらそら逆にドン引くわな…)
うん、やばい。眩暈がする…笑
まず、ルッキズムは“有無”という言葉で説明できないということ。
なぜなら、ルッキズム=外見至上主義、主義とはイデオロギーであり、個々の持つ思想、理念、信念にあたるから。
個々の主義・主張は違っていて当然だし、これを統率しようとなると全体主義的な社会になり、結果人間は何度も何度も愚かしい戦争を繰り返す。今この瞬間だって、宗教観の違いをめぐっては争い、国境を挟んだ両側で睨めっこしつつ土地の所有権で揉めては争い、なんの罪もない民間人を傷つけまくっている。
そこでだ。
ルッキズムは極端に言えば美醜に基づいた概念であり、見目麗しい人間こそが至高であると捉えることであるが、そもそも私は思うんだ。
最も美しい人間ってなに?誰のこと?誰が決めたん?
毎年発表される、ナゾの『世界の美しい顔100人』。これは、アメリカの映画批評サイト「TC Candler」が発表しているものだ。
以下、“gigazine”が画像付きでまとめてくれている『世界の美しい顔100人2024“女性版”』
のサイトである。
ベスト100か…。
“大好きなおかず100”や、“演技の上手いバイプレイヤー100”みたいなランキングがあったとしよう。もちろん、おかずも俳優の演技も好みによるし、無作為に選んだ人間が 投票した結果の順位に“なるほど〜!”と頷くことはあれど、人の容姿のみをモノみたいに選別し、順位づけする権利なんてない、どこにもない。同じ人間であっても。つか、同じ人間だからこそだ。
(そもそも、このサイトを作っている人達に美のランキング決定権なんてないし、個人的好みも反映されるだろうから、正直順位に何も意味はないし、公式発表でもなんでもない。強いて言えば、ツウィ(TWICE)が掲載されてますが、彼女なんて存命中はずっと載り続けなければおかしいでしょうが(個人的に大好きな顔だ)
サナも載っているけど、毎年順位が変わるの何?意味なんてないって分かっていても問いただしたくなるわ、まじで)
人は、この世に生まれ自我が芽生えだすと、徐々に周りの大人の声が耳に入り、理解できるようになる。
「〇〇ちゃんはウチの子に比べたら美形ね〜。でも、□□ちゃんには勝ってるかな?」
「あの子は愛想はないけど顔だけは可愛い」
勿論、これだけルッキズムに関する話題に過敏な時代において、ここまで直接的に表現する人も少なくなったと思う。しかし、家族など親しい人の前ではやはり口にしてしまうのではないか?
私の親もそのクチではあるが、それこそ外見に関してはめちゃくちゃ貶されながら育った。
子供の頃の私は目が一重で小さく、妹2人はパッチリ二重のまん丸目だった。
まあ、昭和の時代だから、“目が大きい人が可愛い”っていう、しょーもない美の“物差し”が蔓延っていた。そして、それにそぐわない私の容姿は親に貶され続け、「もしや、この世にあっちゃいけない顔立ちなのか?」と自分の存在にすら疑念を抱くようになった。可愛いが正義でブサイクは論外。そんな卑屈な考えは、私の人となりを形成していく上でとても悪辣なものであったと思う。
昭和の美の基準が出てきたところで、じゃあブサイクってどんなんだろう?小学校から中学に上がる頃の私は考え続けた。
(以降、ちょっと表現酷いですが昭和当時の私の頭の中と思ってください…)
「鼻が上を向いている、鼻の付け根が低い、頬骨が高い、エラが張っている、極端に目が離れるか近いか、標準以上に体重がある、手足が短い、色白じゃない…」
こういった類の容姿を列挙していった結果、更に思い至ったのが、
「そもそも、男子に話しかけられない、なんとなく避けられている、これもブサイクな証ではないのか?」
「色が白くないとダメだと言っても基本的に日本人は黄色人種だしどこまで白ければいいのか?そうすると褐色の肌を持つ人種は全員ブサイクと言えるのか?」
そこで、寅子ばりの『はて??』(虎に翼の寅ちゃんね)が自分の脳内に渦巻く。
最後上げた二つは、そもそもルックスの問題なのだろうか?
ここまで辿り着いたらあとは早かった。
人が決めた美醜なんてなーんも当てにならん
実際、その頃のスーパーモデルと呼ばれる人達も一般常識として問われる“美人”とは若干違ったし、むしろ大きく枠からはみ出ていた。
▶︎クラウディア・シファー
日本や韓国、アジア全般では基本的に美の基準に反する、生まれつきの癖毛を活かし、どんなアレンジも自由自在の彼女ならではのヘアスタイルは、世界中の女子が憧れた。
デビュー当時は“ブリジット・バルドーの再来”と称えられていたらしいです。

↑これはバルドーにメイク寄せてますね。
いつもはもうちょいあっさりした感じ

彼女もまた、自分がモデルとして表舞台に立つような存在ではない、と考えていたようで当時クローディアの写真集やインタビューなど、私の記憶が正しければだが、父親が著名な弁護士であり、名声など求める必要もなく、金銭面でも教養面でも何不自由なく育ち、ただただ真っ直ぐに生きてきたような箱入りお嬢様だ。
それがふとしたきっかけでスカウトされ、本人の意志とは裏腹に瞬く間にIT GIRLになっていったのだから不思議なものだ。
それを思えば、“可愛い”とか“真似したい!”って感情もわ人が造りだす流行に、まんまと乗せられちゃってるだけなんだよなぁ、そもそも個性ってなんなんだろう?って考えさせられる。
そして、クラウディアを始めその他のスーパーモデルも、その流行や美醜の枠を超えて、彼女らが何も企まず、ただここに在り続けること、その存在感を発揮し続けること、その事自体がすごい事だったんだなぁ、と今更ながら思う。
▶︎ヘレナ・クリステンセン
個人的に大好きなスーパーモデルだったのがヘレナ・クリステンセン。
彼女は他のモデルたちと比べ更に逸脱していた。写真はどこからどう撮ってもどの瞬間を切り取ってもフォトジェニックでなければ務まらないと言われていたスーパーモデルだが、ヘレナはフォトグラファーが収める写真全ての顔が取ってつけたような美しさではなかった。すんごいやる気なさそうな顔、どっか違うところを見てる目、角度によっては“これブサイクだから使わないで!!”って撮られた本人なら思わず言っちゃいそうな不安定要素が、いつも写真にあった。まあ、ふつーに我々も使う“写真写りが悪い”とはこのことなんだろうけど、そこがヘレナの魅力でもあった。

彼女のモデルとしてのはみ出し具合がわかる逸話?があった。
食べ物を一切制限しない、食べたいものを食べたいだけ食べるという、肉食動物さながらの欲求への忠実さ!この人ほど自由奔放に生きる美学を見せてくれたモデルは他にいないんじゃないかなぁ?
日に焼けるのもお構いなし。たまに、日焼け直後の頬が赤くなった写真を見つけるがそれがまた可愛い!

また、情熱的な性格なので常に熱愛報道されていた気がする。

そして、ノーマンとの間に生まれたミンガス君と。

彼女の魅力を一言でいうならば、“コケティッシュさ”だろう。その自然体の彼女から発せられるオーラからはただならぬ色気を感じるし、皆が夢中になるのもわかる気がする。
一切取り繕うことがない、あるがままの色気、あるがままの自分を通し、むしろ芸能界の方にそれを受け入れさせた彼女の、人間としての強さも際立っている。
更なる多様性の時代へ
1990年代のスーパーモデルの席巻、黒人女性としての誇りを纏い堂々とステージに立つ姿がひたすらかっこよかったナオミ・キャンベル。スーパーモデルにしては身長173cmと小柄にも関わらず、それまでの美の基準を更にぶっ壊し、アンニュイな雰囲気でランウェイを歩き、「それがどうした文句あるか?」とでも言いたげな、テンション低めのアバンギャルド・ロンドンっ子、ケイト・モス。東洋と西洋の架け橋的存在となった、デヴォン青木。彼女はケイトより更に小さいが存在感は随一。
こういった感じで、既に90年代ですら美の基準などほぼないに等しかった。
2010年代前後からはK-POPの台頭で、女性のみならず、男性のメイクも当たり前になった。
ジェンダーの境目など決めつける必要性がなくなってきたような気もするが、当のK-POP界隈ではやはりまだルッキズムが主流のように感じる。
このルッキズムの思想を打ち破ってくれる、アジア圏の方の出現を私は心待ちにしているのだ。
→結果、SKZを語ってしまった
そして、自分が大好きなグループStray Kiids。
彼らの音楽性、パフォーマンス、その他全てにおいて彼ら独自の美意識を持ち得ていると私は思っている。
ここで言う美意識は、芸術家として、表現者としての美意識であり、それが彼らのプライド(誇り)でもあると思う。
“メンバー個々が単純にかっこいい!!”
本当は応援する理由はそれだけでも構わないと思う。ルックスのみが目的にならなければ良いと思うし、誰をどう素敵に感じるかは、それこそ人それぞれなのだから。
ルッキズムという概念は人間が存在する限りなくならないだろうが、そもそも美の基準や好みなんか、地球上の82億人皆違う。
皆が違うこと、それをお互いに認め合うことが出来ること、それが人間であることの素晴らしい存在意義だと私は思う。
まあ、ついでにおすすめから引用してきたのだが、こういった方もいらっしゃるのでこれを“違う意見だから”で見過ごすのはどうなんだろうな、とも思いつつ、人間が文章で表現するものの中身なんてたかが知れているし、千差万別なのでね、、としかいいようがない。
そのくらい、人はあまりに違い過ぎて(OS が違うという天才的な表現を旧Twitterで見かけたことがある)、意見が交わせない場合もあるのだ。しかたなかばし
今回も長々とすいません…
最後までお読み頂いた方、本当にありがとうごました!
