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「正論」と戦うな——20年コンサルが辿り着いた、割に合わない議論から静かに「撤退」する技術

待望の書籍化


『正論で殴ってくる人に、正論で勝とうとしてはいけない』

昔の僕は正論に正論で返し、不毛なロジックバトルで現場を荒らしていた。
正論の殴り合いは双方のメモリを消費するだけ。必要なのは勝つことではなく「問い」で構造そのものを書き換える技術だ。

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正直に言う。

先日、私はある議論から、途中で降りた。

正確に言うと、降りたというより、最初から「乗らない」という判断をした。

相手が間違っていたからではない。

相手はむしろ、正しかった。

恐ろしいほど、正しかった。

一分の隙もない、教科書のような正論を、微塵の悪気もなく、こちらに向けて延々と展開してきた。

そして私は、その正論を聞きながら、こう思っていた。

これは、議論をする価値がない。

こう書くと、逃げたように聞こえるかもしれない。

負けを認めたくないから、議論を放棄したのだろうと。

だが実際には、まったく逆のことが起きていた。

私はその瞬間、20年以上コンサルタントをやってきた経験の中で、もっとも高度な判断の一つを下していた。

それが今日の話だ。


一 「正しい」という名の攻撃について

世の中には、二種類の正論がある。

一つは、状況をよくするための正論だ。

現状を変えるために、痛みを伴いながらも、前に進むために差し出される言葉である。

もう一つは、相手を黙らせるための正論だ。

内容は正しい。

だが、その正しさが向かっている先は、状況の改善ではなく、相手を言い負かすことそのものになっている。

厄介なのは、この二つが、外見上まったく見分けがつかないということだ。

どちらも、筋が通っている。

どちらも、反論の隙がない。

だから受け取る側は、律儀にその正論を真正面から受け止めてしまう。

そして、内容そのものは正しいのに、なぜか自分の中に、砂を噛んだような不快感だけが残る。

先日、私が受け取ったのは、間違いなく後者だった。

内容は正しい。

だが、その正しさは、私を動かすためではなく、私を黙らせるために組み立てられていた。

二 議論という名の消耗戦

こういう正論に対して、若い頃の私は、必ず反論を試みていた。

論理には論理で、正しさには正しさで対抗する。

それが誠実さであり、逃げないということだと信じていた。

だが今、はっきり言える。

これは、極めて割の悪い戦い方である。

なぜなら、相手の正論は、もともと相手の中で完成された、揺るぎない構造になっているからだ。

そこに私が新しい視点を持ち込んだところで、相手の構造そのものが書き換わることは、ほとんどない。

むしろ起きるのは、相手がさらに強固な正論で応戦してくることだけだ。

つまり議論を重ねれば重ねるほど、こちらが受け取る正論の密度だけが上がっていき、相手側には何の変化も起きない。

これは投資として見た時、極めて筋の悪い投資である。

投じた時間と精神力に対して、得られるリターンがほぼゼロ。

むしろ、こちらの気力が一方的に削られていくという意味では、リターンがマイナスの投資ですらある。

20年、数えきれないプロジェクトを見てきて、私は一つの原則にたどり着いている。

割に合わない投資は、どれだけ相手が正しくても、続ける価値がない。

ここから先は、この割に合わない議論から、実際にどうやって降りるのか、そしてその降り方が、なぜ「逃げ」ではなく「技術」と呼べるのかについて書く。

三 撤退判断という技術

プロジェクトの現場には、必ず「対象から外す」という判断がある。

すべての要望に応え、すべての課題を拾い、すべての意見を反映しようとすると、そのプロジェクトは間違いなく破綻する。

だから優れたプロジェクトマネージャーは、最初にこう決める。

何を受け持ち、何を受け持たないか。

これは手抜きではない。

限られた時間と体力を、本当に意味のある場所に集中させるための、もっとも高度な判断の一つだ。

私は先日の議論において、まさにこの判断を、自分自身の人生に対して下した。

相手の正論を、受け止める対象から、静かに外す。

これは、相手の正論に負けたということではない。

その正論に付き合うことが、自分の残りの体力と時間を投じるに値しないと判断した、ということだ。

戦って勝つよりも、はるかに難しい判断である。

なぜなら、戦わないという判断には、誰からも拍手が来ないからだ。

勝てば「よくやった」と言われる。

だが降りた場合、多くの人には、ただ黙って引き下がったようにしか見えない。

それでも私は、この判断を「技術」と呼びたい。

拍手されなくても、自分の人生にとって正しい判断は、確かに存在する。

四 半径五メートルの平穏を守る

この判断をした後、不思議なことが起きた。

相手はまだ、正論を続けていた。

だが、私の中では、すでにその件は終わっていた。

これは、聞いていなかったということではない。

言葉は、きちんと耳に入っていた。

ただ、それを持ち帰る対象から、意識的に外していた。

半径五メートルという言葉を、私は最近よく使う。

自分が実際に手を動かせる範囲、自分の判断で変えられる範囲、そのくらいの狭い円のことだ。

相手の正論のほとんどは、この五メートルの外側で起きている出来事に対する意見だった。

相手がどんな信念を持ち、どんな言い方をし、どんな正しさを振りかざすか。

それは相手の領域であって、私の半径五メートルの中の話ではない。

私が守るべきなのは、相手の考えを変えることではなく、自分のこの狭い円の中の空気を、澄んだままに保つことだ。

議論に全力投球していた頃の私は、いつの間にか、自分の五メートルの中に、相手の正論をそのまま持ち込んでいた。

そして自分の部屋の中で、相手の言葉を何度も再生し、自分自身をすり減らしていた。

これはもう、やめることにした。

相手の正論は、相手のところに置いてくる。

持ち帰るのは、自分の荷物だけでいい。

五 戦うのをやめたのではなく、外しただけ

ここで一つ、はっきりさせておきたいことがある。

これは、諦めではない。

戦意を失ったわけでも、屈服したわけでもない。

正確に言えば、私はその不毛なやり取りを、自分の人生が扱う対象から、完全に外しただけだ。

対象から外すというのは、消えてなくなるということではない。

存在は認めた上で、自分の時間と体力を配分する優先順位の中から、意図的に取り除くという作業である。

会社でいえば、赤字が続く事業を、感情的な未練ではなく、数字と構造で判断して撤退するのと同じだ。

撤退は敗北ではない。

撤退は、残りの体力を、本当に育てるべき場所に集中させるための、極めて合理的な経営判断である。

私は、あの議論という名の事業から、静かに、しかし確実に撤退した。

負けたのではない。

これ以上そこに投資する理由がないと判断し、資源を引き上げただけだ。

そして今、その件について頭を使う時間は、もう一秒もない。

今日のその件は、これにて完全に終わりだ。

六 今夜のご飯という、機嫌の取り戻し方

撤退を決めた夜、私がやったことは、実にシンプルだった。

新宿御苑の近くまで歩き、美味しいものを食べにいった。

がっつりめの餃子にするか、カツカレーにするか、あるいは定食にするか。

その日の私は、しばらくメニューの前で本気で悩んだ。

これは、逃避ではない。

自分の機嫌を、自分で取り戻すという、極めて実務的な作業である。

コンサルタントという仕事は、最終的には自分自身の判断の質が商品になる。

そしてその判断の質は、機嫌の良し悪しに、驚くほど左右される。

不機嫌なまま眠り、不機嫌なまま朝を迎えれば、翌日の判断の質も、静かに目減りする。

だから、嫌な出来事があった夜ほど、意識的に自分の機嫌を取りにいく必要がある。

美味しいものを一つ、丁寧に選んで、丁寧に食べる。

それだけで、あの正論の残響は、驚くほど小さくなる。

これは甘やかしではない。

翌日の自分の判断力を守るための、立派な投資である。

統合章 50代のコンサルに必要な「撤退判断」

ここまでの話を、構造として整理したい。

正しさで殴ってくる相手と出会った時、必要なのは、より強い正論で殴り返すことではない。

その場から、静かに、しかし確実に撤退する判断だ。

これは、気合や根性ではなく構造として自分を運用することそのものである。

相手が正しかったとしても、それは相手の人格の勝利ではなく、相手が持つ構造の産物にすぎない。

だから、人を責めるより、構造を見る。

同時に、議論から降りた自分を、意気地なしだと責める必要もない。

自分を責めるより、構造を見る。

これは、その議論が、自分の体力を投じるに値する構造だったかどうか、という一点の判断でしかない。

撤退を選べる人は、冷たい人ではない。

むしろ、優しいまま、壊れないことができる人だ。

なぜなら、すべての正論に付き合って自分をすり減らす人は、いずれ本当に守るべき場面で、力を出せなくなるからだ。

限られた体力を、正しく配分できる人だけが、長く現場に立ち続けられる。

誰かに勝つ輝きではなく、自分を壊さず誰かを少し安心させられる光として、そこに居続けることができる。

そしてこれは、その日一日の勝ち負けの話ではない。

短期評価ではなく長期残存価値の話である。

一回の議論に勝つことよりも、五年後、十年後も、判断力を保ったまま現場に立っていることの方が、はるかに価値がある。

撤退判断とは、その長い時間軸を守るための、静かな技術なのだと、私は思っている。

エピローグ

あの夜、餃子を食べながら、私はふと思った。

もしあの場で意地になって議論を続けていたら、今頃、まだ胃のあたりが重かっただろう。

正論に勝つことはできたかもしれない。

だが、その代償として支払う体力と時間は、決して安くはなかったはずだ。

撤退は、逃げではない。

自分の限られた資源を、本当に育てたい場所に注ぐための、意志のある選択である。

これからも、正しさで殴ってくる相手には、きっとまた出会うだろう。

その時、また同じ判断ができるように、今日の記録を、ここに残しておく。

戦うのをやめたのではない。

ただ、対象から外しただけだ。

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・キャリアマガジン:https://note.com/quiet_emu2080/m/mf96a1ab04ea6
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構造学。──人を責めず、構造を見る。
問題は、人ではない。構造が、人をそう動かしている。

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