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ラグジュアリーとは、 "誇り"を持つこと

ラグジュアリーとは、豊かであるとはどういうことなのか──。

新卒で百貨店のラグジュアリー部門に配属されてから、ずっと考え続けている問いのひとつ。私の中では、それは高いバッグを買い集めることでも、高級レストランをはしごすることでも、広大な土地に豪邸を建てることでもない。

本当に心から羨ましい、自分もこうありたいと思えるお金の使い方とは何か?「知性ある消費」はまさに、20代の初めに抱いた疑問が出発点になっている。

世の中で言われているラグジュアリーと、私が見てきたラグジュアリーの世界の乖離。ブランドや企業は彼らが大事に紡いできたラグジュアリーの文脈をていねいに伝えようとしていても、資本主義と自己顕示欲を刺激するSNS社会では「ロゴの自慢し合い」になってしまう。これは受け手である私たち消費者の問題でもある。

そうした刹那的なラグジュアリーの消費ではなく、より豊かなラグジュアリーとの関わり方があるのではないか?その問いへのヒントを求めて、今まさに受講しているのが先日も書いた「新ラグジュアリー」講座。主宰の安西さんの本を読み、講座を受けながら、日々ラグジュアリーの再定義について考えている。

個人的には、「ローカル・ラグジュアリー」という概念に特に興味を持っている。その土地にしかない文化や気候、歴史にはそれだけでかけがえのない価値がある。その価値を、他の地域の人たちにも伝わるように翻訳することで主観的な価値だけでなく客観的な価値も高まる。

リゾートホテルを建てるような「高級」を外部から持ち込むかたちではなく、すでにその土地にある豊かさを信じて生かしながら、もっと広域の人々にも伝わるように手をいれていく営み。表面的にその完成品を見たら違いはわからなくても、このプロセスや取り組みの考え方の違いは絶対に体験価値として表れると私は思う。

ローカルの問題に関わらず、何かを「利用しよう」とするテイカーの姿勢と、「生かそう」とするギバーの姿勢は、小さな違いが積み重なって、のちのち大きな違いを生む。

ローカル・ラグジュアリーを考えようと思ったときに一番に行きたいと思ったのが島根県大田市の大森町だった。初めて訪れたときは一泊しかできなかったので、いつかもっとゆっくり滞在したいと思っていた大森町。

今回は「遊ぶ広報」という仕組みを使って、二週間も滞在させてもらうことにした。

ローカル・ラグジュアリーの文脈で一番に思い出したのが、以前宿泊した大森町の宿「他郷 阿部家」での体験だった。その時に書いた「疲れさせない」という考え方はずっと心に残っていた。

私は都会のラグジュアリーホテルに泊まったりお茶をするのも好きでいろんなホテルによく行くのだけど、高級な場所は緊張することも多い。高級ブランドの路面店は敷居が高くて入りづらいと感じる人も多いと思う。その緊張感がいいところでもありつつ、その逆のベクトルである疲れない、緊張させないこともまたラグジュアリーたりえるのかもしれないと阿部家に泊まったときに気付かされたのだ。

阿部家も一泊一人あたり4万円と高級宿と呼ばれるクラスの宿である。けれどまるで親戚の家に帰ってきたような、懐かしさと安らぎのある空間だった。

その一方で、隅々まで美意識が行き渡った空間には小さな緊張感もある。大切に、綺麗に使わなければと無意識に感じるような、何か大いなる存在の場所にお邪魔させていただくような、そんな厳かな緊張感。

この感覚は阿部家にとどまらず、大森町全体に行き渡っていることを今回ゆっくりとまち全体を散策してみて改めて感じた。

大森町で過ごしてみて改めて感動したのが、まちなかの民家の軒先にもいつもピンと元気な生花がいけてあること。しかも買ってきた豪勢なお花ではなく、自分たちの庭で育てた花や山の野花といった素朴な、でも生命力溢れる可憐な花たちが飾られている。

自分がお花を生けるようになってから、行く先々で生けられているお花に注目するようになった。ぱっと見は豪華な花々を飾っているように見えても、よく見ると萎れていたり埃が積もっていたりすることはよくある。高級店と呼ばれる場所でも、意外とそのあたりで手を抜いているなと感じることもある。もっというと、お花屋さんですらも見栄えはよくても元気のないお花を置いているところも見かける。

生花を綺麗に保つには日々細やかに手入れをする必要があるので、生けられているお花の元気さは私の中でその場所のていねいさや気遣いを測るバロメーターのひとつになった。と同時に、自宅のお花の手入れについても毎回反省させられるのだけど。

決して高いお花でなくても、ピンと元気に咲く花々がどの軒先にも飾られていること。これができるまちなみは早々ないんじゃないかと思う。そして高い花を買い揃えるよりも、花々が健やかに咲いている状態を維持することのほうが、手間がかかるという意味で実はラグジュアリーなのではないかとも思う。

しかもお店だけではなく、普通の民家の軒先に飾られている花たちが、どれひとつ萎れて放置されることなく毎朝瑞々しい美しさを放っている。これだけていねいに手入れされたまちなみはそうそうないだろう。

でもこうやって軒先にお花を飾ることを義務にしているわけではなく、おそらく住民の方々も自分たちのまちを美しく、明るく、楽しむために自然とやっているのもすごいところだと思う。

今回、まだ数日しか経っていないけれどいろんな人に話を聞く中で、町民の誰もがこのまちに愛と誇りを持っていることを強く感じさせられた。連綿と紡いできたこのまちの暮らしへの誇りと先人たちへの感謝。その積み重ねが、まちを継承していく世代にも自然とまちを美しく守り受け継いでいこうという意識につながっているのではないか?大森町の歴史の厚みと豊かさに改めて圧倒された。

私は常々、誇りとは他者を見下すことでは決してないと思っている。誇り高い、プライドが高いというワードは時にネガティブな要素を含んで使われることが多いけれど、本当に誇りを持っている人は、他者にも自分と同じように誇りと愛着を持つものがあるとわかっているからこそ他者を尊重できる。

よそと比べてどう、とナンバーワンを目指して見下したり見上げたりするのはむしろ本当の意味で誇りが醸成されていないことで起きる不安からくるものであって、揺るがないオンリーワンの自信からくる誇りは他者もゆったりと許容する。

だから大森町はこれだけ美意識の高い独特なまちでありながら、異物を排除するのではなくむしろよそから来た人たちを受け入れ、自分たちも「大森町/石見銀山」を背負って外に積極的に出ていける、風通しのよさもあるのだと思う。

元来、ラグジュアリーのクラフトマンシップもそのものづくり精神と土地へのプライドが出発点だったはずだ。自分たちは本当にいいものをつくっている。その自信が外への販路を広げ、誇りがクオリティへの信頼を裏切らないための支えとなってきた。

でもあまりに急激なグローバル化と資本主義の加速によって、その誇りがていねいに伝わりきらないままに記号的に消費されてきた部分もある。なぜこのバッグがこれだけの値段を出すだけの価値があるのか、その理由がモノのよさではなくブランドロゴや誰かが身につけていたという表面的な部分のみで判断されていく。

そしてそういった高いもの、世の中でよいとされているものを手に入れるために、庶民の私たちは無理をして、背伸びをしてお金をつくる。自分も貴族のような、富裕層のような存在になりたいと夢見て。

でもモノひとつを手に入れただけで憧れの存在にはなれないし、無理をして生活を犠牲にしてまで手に入れるべきものなのか?が今まさに問われているのだと私は思う。

これまで、ラグジュアリーは上流階級のライフスタイルを庶民にもギリギリ手が届く憧れとして君臨してきたけれど、庶民には庶民の、身の丈にあった暮らしがあるのではないか?2020年に書いた「ていねいな暮らし」のnoteには、まさにそんな変化の兆しを綴った。

「ラグジュアリー」というと価格が高いものばかりを思い浮かべがちだけれど、たとえ価格はそう高いものでなくとも、作り手が誇りを持って真剣に作ったものにはかけがえのない価値がある。逆に価格は高くとも、表面だけ整えられた空虚なものは評価されない。

誇りがあるからこそ、その誇りに恥じないものを作ろうと思う。豪華なことはできなくても、心を込めた最大限のことをしようと思う。

人の心に本当に響く価値とは、誇りから生まれるていねいさやもてなしの精神なのではないか?

これからのラグジュアリーを考える上で、「誇り」というワードを起点に、引き続き自分なりに深めていきたいと思っている。

と同時に、人の誇りある仕事にも気づける人間でありたいと思う。小さな気遣いやていねいな仕事に気づけるだけの目を養うこと。そのためにも、自分も日々誇りある暮らしをしていかなければならないと思うのだ。

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