PLANET LAND ー 彗星から惑星へ ー 第26話 憧れの河瀬くん
第26話 憧れの河瀬くん
杏奈の前に立っていたのは、杏奈の高校時代のクラスメイト、河瀬清彦だった。
弓道部のエースとして活躍し、杏奈にとって密かに憧れていた人物でもある。
「え?え?河瀬.....くん?なんで?おるの?」
「なんで?て、俺も六星の学生やからに決まっとろうが」
「そう、やったんじゃね」
学食のざわめきの中、向かい合って座る二人は、最初はぎこちなかったが、いつの間にか高校時代や、今の生活の話が弾み始める。
「田澤さん、ずっと前しか向いてない感じがしたけど、面白い人なんじゃね」
「河瀬くんもクラスの時は、ずっとムスッとして、怖かったよ」
杏奈が笑いながら返すと、河瀬は少しだけ視線を落とした。
「あれは、あん時の俺の頭ん中、23時間半弓のことしかなかったんよ」
「あと30分は?」
「飯の事」
「一食10分しかないの!?」
「充分じゃろ?」
真顔で返されて、杏奈は思わず吹き出す。
あの頃は、近寄ることすらできなかったのに、今は自然に言葉を交わすことができていた。
「俺、スポーツ推薦じゃろ?講義がもうさっぱりで」
「先輩は出席さえしとりゃあ、単位は貰える言うんじゃけどの?」
杏奈は少しだけ考えてから、河瀬を見る。
「河瀬くん、次講義ある?」
「ないけど?」
「ほじゃったら、勉強一緒にやろうかい?」
「ええ? いや、ええよ」
杏奈はそこで引かなかった。
「ええから来んさい」
河瀬は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頷く。
「はい」
そうして二人は席を立った。
「ちぇっ、とんだ邪魔が入ったな」
「まあ、チャンスはいくらでもあるっしょ」
「おっ、またひとつお買い上げ、あざーす」
遠巻きの三人の男たちは、また椅子に腰を下ろして、スマホを見ながらだらしなく喋り始めた。
杏奈と河瀬はキャンパスを歩く。
校内に植えられている、楓やイチョウの葉先が色づき始めていた。
高校の頃に、こうやって肩を並べて歩いたことはない。
杏奈はちらちらと河瀬の横顔を覗き、胸の高鳴りを感じていた。
二人は図書館のスタディスペースに入る。
向かい合って座ったものの、河瀬は開いた教科書を前にしたまま、どこか遠くを見ていた。
「……河瀬くん」
「河瀬くん」
何度呼んでも、無反応。
杏奈は小さくため息をついて、机越しに身を乗り出した。
そして、軽く肩を揺さぶる。
「はっ、なに?」
「聞いとる?」
「いや、耳を素通りしよる」
「頭入っとる?」
「思考が停止して、脳が受け入れ拒否しとる」
あまりに真顔で言うものだから、杏奈は呆れたように、額に手を当てて息をついた。
「はあ、」
一旦教科書のページを戻して河瀬を見た。
「ほじゃ、最初からまたやろうか」
だが河瀬は返事をしない。
よく見ると、左手の人差し指を右手の人差し指と中指に引っかけて、何やら真剣な顔で肘の位置を確かめていた。
「何しよるんね?」
声をかけられて、河瀬ははっと我に返る。
「ごめん、ちょっと会(かい)の時の馬手肘(めてひじ)の収まりが気になって」
「?」
杏奈の顔に、きれいに疑問符が浮かんだ。
河瀬はその反応を見て、はっと何かに気づき、目を伏せる。
「専門用語じゃけえ、気にせんでええよ」
頭の中はたぶん、さっきまでの内容ではなく、弓のことに戻っている。
23時間半、確かに言うだけのことはある。
杏奈は、小さく息をついてペンを置き、天井を仰いだ。
「お手上げじゃわ」
「すいません」
「河瀬くん、ほんとに好きなんね」
バツの悪そうな表情に、思わず吹き出してしまう。
「弓が」
河瀬は少しだけ、真剣な目つきで顔を上げた。
「好き?……それもあるけど」
「今の俺は、それだけじゃないけえ」
「どう言うこと?」
河瀬がまた、遠くを見るような視線になる。
「勝ちたい相手がおるんじゃ」
「勝ちたい相手……?」
「高三の夏休み明け、覚えとらん?」
「担任が俺にインターハイの報告させた事」
「ああ……」
少しだけ遠い記憶を辿った。
「河瀬くん、インターハイで準優勝やったのに、悔しそうやったね」
高校の教室で、担任教諭が興奮気味で嬉しそうに捲し立てていた。
「河瀬、インターハイ凄かったな」
「皆んなに報告しちゃれ」
「ええですよ」
「何を言うとる、快挙やぞ」
河瀬がゆっくり席を立つと、教室中の視線が集まる。
「……えー」
「個人戦で、最後の二人まで行って……負けました」
それだけ言うと、そそくさと座った。
(負けましたって……全国の準優勝やろ?この人)
杏奈が当時の様子を、しみじみと思い出していると、河瀬の声に現在に引き戻された。
「青島邦彦……」
「俺が負けた相手じゃあ」
視線は杏奈に向いているのに、見ているのは相変わらず遠くの場所のようだ。
「今の俺は、あいつに勝つことしか考えちょらん」
「……そうなんね」
並々ならぬ決意に満ちた表情に、気押される杏奈。
「今週から始まるリーグ戦で、的中率上位じゃったら……」
「伊勢神宮の全国大会に出られるんじゃ」
「東京の大学におるあいつも、必ず来るはずやけえ」
「そこで、借りを返さにゃいけん」
初めて河瀬の目が“今”に戻る。
けれどその奥には、はっきりとした光があった。
(この人のインターハイは、まだおわっちょらんのじゃね)
河瀬はふっと表情を和らげた。
「けど、田澤さんに会えてよかったわ」
不意のその言葉に、杏奈の胸が小さく跳ね、少しだけ声が上ずった。
「……なんで?」
「部活の人くらいしか、話す相手がおらんかったから、懐かしいて」
「また、昼飯一緒に食べてくれんね」
そう言って、手を差し出す。
杏奈は一瞬だけ目を丸くするが、すぐに小さく笑った。
「あ、うちで……良かったら」
そっと、その手を握りかえすと、その手は思っていたより温かかった。
なぜだか杏奈の脳裏に、卒業式の日のことが思い出される。
卒業式のあと。
校舎の前の人でごった返す中で、杏奈はスマホを片手に右往左往していた。
誰と写真を撮るか、どこに行くか、落ち着かない。
そのとき。
「田澤さーん」
背後から声が飛んでくる。
振り返ると、少し息を切らした河瀬が立っていた。
「一緒に写真撮ってくれんね?」
まっすぐ言われて、杏奈は一瞬きょとんとする。
「え、ええよ」
戸惑いながらも隣に並ぶと、河瀬は近くにいた友人にスマホを差し出した。
「ほじゃあ、頼んでええかいね?」
カシャッ、と一枚。
「ありがとう、ほじゃあ!」
それだけ言って、すぐに走り去っていく。
「え、ちょっと——」
取り残されて、思わずつぶやく。
「……その写真、うちにもくれんかいね?」
その声は、遠ざかる背中には届かなかった。
まだ少しだけ残る余韻の中で、河瀬がふと思い出したように口を開く。
「そうじゃ」
「今度は何?」
さっきより少しだけ気軽な声。
「今週日曜、リーグ戦の初戦がうちであるけえ」
「良かったら、見に来てくれんかいね?」
「でも、うち、弓道わからんし」
河瀬は少しだけ視線を落とした。
「退屈かもしれんけど……」
「見てくれたら嬉しい」
まっすぐな言葉に、また杏奈の胸がはずむ。
「晩御飯、ご馳走するけえ。お願いじゃ」
杏奈は一瞬だけ言葉に詰まると、手を合わせて懇願する姿に、根負けしてしまった。
「……うん、わかった」
図書館を出て、二人は足を止めて向き合う。
「じゃあ、またね」
「うん」
杏奈は軽く手を振って、別の学棟へと向かい、河瀬はその背中を見送った。
やがて視線を落とし、ポケットからスマートフォンを取り出す。
そこに映るのは……卒業式の日に並んで撮った写真だった。
少し緊張した杏奈の顔と、どこかぎこちない自分。
「……23時間半は流石に嘘じゃ」
その声は、弓の話をするときとは違う温度を持っていた。
日曜日を迎える。
六星大弓道場にて行われるリーグ戦初戦。
客席の端に、杏奈は相手校の一団から少し離れて、ぽつんと座っていた。
(居心地、悪いなあ……)
周囲の視線が気になる。
(河瀬くん、試合終わるまで出て来れんて言いよるし)
ちらっとスマホ画面の時計を確認する。
(台本も考えんといけんのに)
落ち着かないまま、射場(しゃじょう)に目を向けると、六星大の部員四人が、静かに現れた。
空気が、すっと張り詰める。
弓道の並びにおいて、最初に矢を放つ、大前(おおまえ)先頭には河瀬の姿があった。
全員がすっと膝をつくや否や、体の向きを90度回す、無駄のない体配(たいはい)に杏奈は息を詰まらせた。
やがて河瀬が弓を立てると、流れるように矢をつがえ、すっと立ち上がった。
その瞬間……
ほんの一瞬だけ、視線がこちらに向き、杏奈と目が合う。
ふわりと、涼やかな笑みを浮かべると、視線を正面に戻して目を閉じた。
——次の瞬間。
その穏やかな表情が、一変する。
呼吸が一つ落ち、カッと目を開いた。
顔を向けると鋭い視線が、まっすぐ的へと向かう。
迷いも、揺れもない。
空間を切り裂く刃のような視線。
それが、微動だにしない。
視線の迫力は衰えないまま、細く長い息を吐き切ると、河瀬はゆっくりと弓を打ち起こす。
周囲は静寂に包まれた。
弦を引き絞る、キリ、キリという小さな音まで聞こえてくる。
左腕が真っ直ぐ的に向かって伸びてゆくと、やがて、押す左腕と引く右腕が均衡を保つ「会」(かい)という状態のまま、時間が止まった。
矢は精密に水平を保ったまま微動だにしない。
(すごい……緊張感)
(これが、弓道?)
やがて——
弦を放つ乾いた音が響く。
矢は空気を切り裂くような音を立てながら、一直線に的へ吸い込まれるように飛んでいった。
パァン!
星的の黒点を捉えた河瀬の矢は、当然のように的中した。
「しぃっ!」
小さく息を吐くと、河瀬はすかさず両膝をついて座る。
その迫力をたたえた目の力は、少しも変わらない。
杏奈は思わず息を呑んだ。
クラスで不機嫌そうに座っていた目。
学食で会話していた時の、涼しげな目。
図書館で思考停止していた時の、どこか虚ろな目。
さっき、自分に向けてふわりと笑った優しい目。
そのどれとも、まるで違う。
(……あれが)
二射目。
また、的中。
(あれが本当の)
三射目。
迷いなく、的中。
(本当の、河瀬くん?)
四射目。
それもまた、当然のように的を射抜いた。
その瞬間、客席にぱっと拍手が巻き起こる。
杏奈もつられるように、意味がわからないまま、慌てて手を叩いた。
近くに座っていた他校の部員へ、遠慮がちに声をかける。
「あの〜、なんで拍手するんですか?」
声をかけられた相手は、少し驚いたように杏奈を見たあと、すぐに穏やかに答えた。
「弓道の試合は、四射(しゃ)でひと立ちって言って、一区切りなんですよ」
そう説明してから、射場へ目を向ける。
「だから四射ぜんぶ当たったら、“皆中(かいちゅう)"って呼ぶんです」
「全部当たったから、敵味方関係なく拍手するんです」
杏奈は小さく頷いた。
「皆中……なるほど、そうなんですね」
知らない言葉ばかりなのに、すっと頭に入ってくる。
今まで興味を持たなかったものに、突然心を奪われた瞬間だった。
その後も、河瀬は精密機械のように変わらぬ姿で的中を重ねてゆく。
無駄のない所作。
乱れない視線。
崩れない会。
ひとつひとつが、まるで最初から決まっていることのように、寸分の狂いなく流れていった。
四立ちを終えて十六射。
河瀬に対する四度目の拍手をした時には、一つも外さない河瀬の射に、釘付けになった緊張感から解き放たれた安堵の感情がこもる。
周囲の空気が、少しずつざわめき始めた。
客席の後ろの方で、他校の部員が小さく声を漏らす。
「あの一年、最後の五立目も行くんじゃね?」
別の声が、感心したように続く。
「さすが、インターハイ全国二位ですよね。六星も凄いの取りましたよね」
杏奈は、その言葉に思わず聞き返していた。
「それって凄いことなんですか?」
隣の部員は、はっきりと頷いた。
「四射皆中も難しいのに、五立全部は相当ですよ」
その言い方に誇張はなく、事実としてそれが、どれほどのことかを告げていた。
杏奈はもう一度、射場の河瀬を見る。
「……そうなんですね」
そう答えながらも、心の中では、もう別の言葉が生まれていた。
自分はいま、とんでもないものを見ているのかもしれない、と。
河瀬の最後の立ち。
当たり前のように、十九射目まで的中。
もはや誰も驚かない。
ただ、その精度に息を詰めて見守るだけだった。
杏奈は、じっとその姿を見つめていた。
(河瀬くんの目……)
視線の先を追う。
(見よるの、的じゃない)
(もっと、先を見よる)
胸の奥で、ひとつの名前が浮かぶ。
(……青島……邦彦)
その瞬間。
会の状態で河瀬の瞳だけが、ほんの一瞬杏奈の方へむいた。
そして時間が、止まる。
次の瞬間、弦(つる)が空気を切り裂くような音を立てると、弓が翻る。
離れた矢は、迷いなく星的の黒点へ、吸い込まれるように的中した。
パァン!
鋭い音とともに、的の中心を射抜く。
その一射だけ、ほんのわずかに違って見えた。
機械のようだった精度の中に、わずかに人の気配が混じったようなそんな一射だった。
他校の部員たちも帰り、観覧席には杏奈だけがぽつんと残っている。
試合の緊張感と迫力の余韻が、まだ体の奥に残り、道場の後片付けをする河瀬の姿を目で追いながら、胸の鼓動だけがなかなか落ち着かない。
気がつけば、空はすっかり夕焼けだった。
射場のシャッターが下ろされ、砂を積み上げられた安土(あづち)には、もう的は無い。
その時、足音がして、杏奈は顔を上げた。
私服に着替えた河瀬が、急ぎ足でこちらへやって来る。
「田澤さん!ごめんの、一年は雑用と片付けが多うて」
そう言って立ち止まる河瀬を、杏奈はしばらく黙って見つめた。
「……」
「どしたんね?」
不思議そうに問われて、杏奈はようやく口を開く。
「河瀬くん、凄い人やったんじゃね」
河瀬は、あっさりと首を振った。
「あれくらい、あいつなら軽くやるわい」
その言い方に、杏奈は試合中の河瀬の目を思い出した。的を見ているようで、もっと遠くの何かを見ていた、あの目を。
「なんか、青島さんが上におること、疑ってないんじゃね」
そう言うと、河瀬は少しだけ目を細めた。
「まあ、あいつにゃあ俺より上におってもらわんといけんよ」
それは悔しさとも、執着とも、尊敬ともつかない声音だった。
けれど杏奈には、そこに河瀬の弓の全部が詰まっている気がした。
少し間を置いてから、杏奈は小さく続ける。
「……河瀬くんも、かっこよかったよ」
河瀬はすぐに視線を逸らした。
「お世辞はええって」
そう言って、照れ隠しのように話を変える。
「それより、ご馳走するけえ、神戸行こう!」
「なんで神戸?」
あまりに唐突で、杏奈は思わず聞き返した。
「ポートピアのホテルの、展望レストランのディナービュッフェ」
「どう?」
一瞬、杏奈は言葉を失った。
「いくらかかると思うてるの!?」
「大丈夫、今月の生活費全額下ろしてきたけえ」
「女性と食事ならこれくらいせえって、ネットに.....」
杏奈は呆れて目を見開いた。
「第一週の日曜よ、残りどうやって生活するの?」
「大丈夫、来週にはバイト代入るけえ」
「来週までどうやって生活するんよ!」
「あ、そうか」
「もう!」
思わず声が大きくなる。
さっきまであれほど凄みのある姿を見せていた人と、目の前のこの人が同一人物だなど到底信じられない。
けれど、そのあまりのずれ方に、杏奈はとうとう吹き出しそうになるのを堪えながら言った。
「ま、たこ焼きでええよ」
河瀬の顔がぱっと明るくなる。
夕焼けの残る道場の外で、杏奈は小さく息をついた。
色んな意味で、とんでもない人だと思うと、少し可笑しくなった。
杏奈は河瀬と肩を並べて、スーパーマーケットの入り口付近にある、たこ焼きの屋台のような小さな店舗に並び、自分たちの番が来た時だった。
「まずい!」
杏奈は思わず河瀬の大きな背中に隠れるが、時すでに遅かった。
鉄板のたこ焼きを、ひとつひとつ返しながら、女性店員が微笑んで声を弾ませる。
「いらっしゃいませ……」
「杏奈ちゃん♡」
その声の主は、不敵な笑みを浮かべる、ユズだった。
第27話はこちらから↓
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