【放課後ライティング俱楽部/シロクマ文芸部】タコさんウインナー無双論
1.
水たまりを見つけるなり、娘は歓声を上げて飛び込んだ。
笑顔が写真立ての祖母に似てきたと思う。親である私は、日差しがまぶしくなり手をかざす。となりの水たまりに映った世界は、少し歪んで見える。
2.
冥宮の奥に魔性は潜み、人の姿をしながら、犠牲者を待って蜷局(とぐろ)を巻いているものだという。前の会社で、私は魔性の標的にされ退職願を出した。個人的に助言を述べるなら、戦っても良いし、逃げても良いだろう。ただし、深夜の回送電車に飛び込まなくても良い方法が最善だ。
そのときの私は、家族を作り、そこに逃げ込む選択をした。生まれてきた娘は、私を激しく嫌い、しつけと称して折檻を繰り返した祖母と、面立ちが似ている。
3.
水たまりで水遊びを続けている娘を、私はベンチで見守っている。 遠い昔、幼い私が水たまりに飛び込むと、祖母は顔をしかめ『泥が汚い』と、外の水道で泥を洗い落とす約束が守れるようになるまで、私を家に入れてくれなかった。
私も水たまりが好きだった。幼い頃は必ず足をつけにいった。少し大きくなると、水たまりに映る世界がたまらなく美しく見えた。
今こうして無心に水たまりで戯れる娘にとっては、後で冷たい水で泥を洗い落とすことも、足に嚙み付いたヒルがなかなか取れないことも、水たまりの水は不衛生であることも、余事象にすぎない。
祖母はいくら顔をしかめても、何度家から締め出しても、水たまりを見るや挑みかかる私にあきれ果て、『汚い子はうちの子じゃない』と金切声をあげたものだ。
そんな祖母が引き出しの奥に大切にしまっていたオパールの指輪を、ある雨上がりの日、私は勝手に持ち出し、お気に入りだった水たまりのそばにおいた。水を内包するオパールに水たまりがどう映るか、興味があった。そのまま私はその場を離れ、戻ってみるとオパールの指輪は、あとかたもなかった。
私は正直に祖母に話したと思う。オパールの指輪は勿論、見つかることはなかったが、咎められた記憶はない。
それは、いずれは祖母から私に渡されることになっており、生まれた時から私のものだった。今オパールの指輪が手元に有れば、それは娘のものになる。
私の娘は、水たまりをこよなく愛し、オパールのきらめきを知らない。
4.
私はオパールに魅せられたこともあれば、水たまりも良いものだと思う。
「めめちゃん 足だけの約束よ」
水たまりには細菌や破傷風菌がいることがあり、感染リスクがある。小さい子が無邪気に遊ぶことと、健康に過ごすこととの両立は案外むつかしい。
「はーい」
返事と鈍い水音が返ってきた。あれはレインブーツに水が入った音だ。去年買ったものだから、もう小さくなったかもしれない。幼児用の雨具は1年保てば長い方だ。たいていは半年も経たずに購入している。娘はお気に入りのレインブーツを晴れた日でも履きたがるので、華奢なものだと3ヶ月でダメになる。
きっと私は前の職場に長くいすぎたのだ。だから開けてはいけない扉をあけ、あの目を合わせただけで石になりたくなるような魔性に遭遇し、そして魔性から逃げることで、私は冥宮の外にようやく、自分の意思で出ることができたのかもしれない。魔性は出たくても出られないのだ。
5.
日暮れが近くなり、私は帰りたくなった。ノンアルコールビールが飲みたい。娘は、私のいることも忘れて、水との戯れを続けている。
「めめちゃん帰ろう」と声をかけると、即座に「いや!まだするのー」と返ってくるものだから、私は帰ろうと誘う代わりに「今夜のごはんはなーんだ?」と謎をかける。
はたして娘は目を輝かせて考えて始めた。
食事を作るようになって休肝日が自然に増えたのは、私は酔うと失敗するからだ。だから気兼ねなくワインやビールが飲めるのは、冷凍食品やレトルトのときに限る。
「んー今日のごはんはシチュー!」
やっぱり今日もビールはノンアルコールだ。私は苦笑する。
そういえば、魔性は料理をはじめ家事全般が全滅だった。アイメイクにこだわり、真っ赤なリップカラーで笑うと妖怪そのもの。伸ばしてネイルストーンをあしらうのが得意だという自慢を聞かされたことがあった。
そのイメージは水たまりに映った虚像のように、ゆらりと揺らぐと娘の容赦ないレインブーツにあっけなく踏みしだかれた。
シチューを作るだけの材料は冷蔵庫にあっただろうか。私はなけなしの記憶をはたいて、ストックの食材を思い出そうとしている。
「ねえ ウインナーがタコさんで、今日はトマトシチューでいい?」
いいよ、ママ それじゃ帰ろう。
娘は自分から水たまりを後にした。
【終】
《今週の三題噺》
1.回送電車
2.ノンアルコールビール
3.写真立て
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