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選択と集中の時代に、残らなかったもの

「選択と集中」は、
必要なものを残し、
不要なものを削ぎ落とすための言葉だ。

ただ、その判断が行われた時点で、
本当に「不要」だと分かっていたものは、
どれほどあったのだろう。

評価できなかったものは、
ただ、まだ分からなかっただけかもしれない。


評価できるものに、資源を集めるという判断

選択と集中は、
「成果が見えるもの」を優先する。

需要が読める。
技術の改良方向が見える。
効果を説明できる。
比較的短い時間で、結果が出る。

こうした条件を満たす分野に、
資源は集められてきた。

高度経済成長期の成功体験もあり、
日本はこの判断を、
比較的うまく使いこなしてきた国だと思う。


削ぎ落とされたのは「無価値」だったのか

一方で、
選ばれなかった側にあったものは、
何だったのだろう。

成果がいつ出るか分からない。
評価軸が定まらない。
説明が難しい。
時間がかかる。

それらはしばしば、
「非効率」「優先度が低い」と整理された。

けれど、ここで注意したい。
それらは、
価値がなかったから外されたのではない。

ただ、
その時点では
評価できなかっただけ
だ。


評価は、いつ立ち上がるのか

実際、
当時は意味が分からなかったものが、
時間が経った今なら、
はっきりと価値として語れる例は多い。

NVIDIAやOpenAIも、
創業当時から
「世界を変える存在」として
評価されていたわけではない。

評価とは、
初めからできるものばかりではない。


生活の中にある「評価できそうで、できないもの」

たとえば、
VRヘッドセットも、
そんな存在の一つかもしれない。

かつては
「世界を変える」と言われ、
メタバースという言葉とともに
大きな期待を集めた。

けれど今、
それは成功だったのか、
そうでないのか。

そう簡単には言い切れないまま、
生活の片隅に置かれている。

技術としては進歩している。
けれど、
社会の中での立ち位置は、
まだ定まっていない。

まさに、
評価できそうで、できてない
そんな存在だと思う。


分からないとき、社会はどう振る舞うのか

ここで、
一つの問いが浮かぶ。

分からないものに対して、
早い段階で評価の線を引こうとするのか。

それとも、
分からないという前提に立って、
いったん、平均的に薄く広く支えるのか。

評価とは、
初めからできるものばかりではない。

にもかかわらず、
評価できるかどうかを
先に決めてしまうと、
社会は成長の可能性を
自ら狭めてしまう。


削ぎ落とされたものが、示していること

選択と集中が削ぎ落としたのは、
非効率なものではない。

評価の時間を、
必要とするもの
だったのだと思う。

それは、
研究や産業だけの話ではない。

働き方や、生き方、
そして制度のあり方とも、
深くつながっている。

分からないものを、
分かったつもりにしない。

評価できない段階を、
切り捨てず、
そのまま置いておく。

そのとき、
応援はしないけれども
見守る、という形での関係は
大切なのだと思う。

応援は、ときに、
期待を生む。

期待は
応えなければならない、という
呪いに変わる
ことがある。

そしてその呪いは、
まだ形のないものに、
意図的な方向付けを強いてしまう。


評価を急ぐことの代償


評価や期待を先に置くことは
可能性の幅を早くに固定してしまうことになる。

そうした判断のあり方こそが、
今の社会に
問われている。


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