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『みいちゃんと山田さん』と表現の自由

『みいちゃんと山田さん』、読みましたか。

歌舞伎町を舞台に、キャバクラで働き始めたみいちゃんと、漫画家志望の大学生キャバ嬢・山田さんを描いた物語で、最近完結しました。

この作品は2027年のTVアニメ化が発表された際、SNS上で大きく炎上しました。というのも、この作品は知的障害を思わせる主人公を描いていて、露悪的な側面が指摘されてきたものだからです。

この作品には、危うい側面が確かにあると思います。それでも、「誰がみいちゃんを殺したのか」という問いを通じて、社会と人間の隠された現実を暴く作品として成り立っているとも思います。今日はその点をまず丁寧に解きほぐしてから、最後に、アニメ化の炎上に関して表現の自由の観点からどう向き合うかを書きます。

なお、作者のことや、ウェブ漫画時代のこと、編集者の発言等は基本的に扱わず、なるべく「作品」自体のことを書こうと努めました。

※この記事は、未読の方でも読めるように書いています。ただし、ここから先は、結末を含む全体のネタバレがあります。ご注意ください。


「露悪」とは:消費と暴露の二つの顔

まず、「露悪」という言葉から始めます。

露悪的な表現とは、あえて悪いものや醜態を見せつける表現のことです。きれいごとで包むのではなく、悲惨なもの、悪いもの、醜いものを、隠さずそのまま突き出してくるものです。

露悪的な作品には、二つの顔があります。

一つは「消費」の顔です。悲惨さや悪、性、障害といったものを、珍しい見世物として、あるいは誰かの転落を眺める快楽として消費してしまう側面です。ニュースで誰かの転落を知ったとき、気の毒に思いながら、つい詳しく知りたくなってしまう。露悪的な表現は、その欲望に売り物を差し出す装置にもなり得ます。

もう一つは「暴露」の顔です。露悪的な表現には、社会が普段隠しているものを露出させるという重要な働きがあります。そしてもう一つ、観客自身の欲望や人間の醜さを暴くという働きもあります。かわいそうな展開を読みながら、「かわいそう」と思うのと同時に、続きを読みたくなってしまう。その人間のあさましさ、醜さを読者自身に突きつけることで、人のほんとうの姿をあらわにする。そういう働きです。

だから、露悪的な作品が一概に全部ダメなわけではありません。問うべきは、その作品が露悪によって社会や人間の現実を暴いているのか、それとも、そうした現実を利用して消費しているだけなのか、です。

ただ、ここが難しいところなのですが、この二つは排他的ではありません。両立し得ます。同じ場面が、何かを暴きながら、同時に何かを消費している、ということが起こる。『みいちゃんと山田さん』にも、まさにそういう場面があったのではないでしょうか。

もう一つ。物語においては、フィクション化が避けられません。単純化して、シンプルにして、分かりやすく、面白くしなければ、人に読まれる物語になりません。そのため、現実からのずれが必ず生じます。そのずれが、障害のある人や支援の実態を正しく表していない、という批判にもつながっていきます。

つまり、この作品を評価するには、フィクション化の側面に注意しながら、露悪の消費と暴露の両面を見なければならないと思っています。

「みいちゃんが悪い」と見えかねない危うさ

主人公のみいちゃんは、公式の紹介文で「ヤル気と元気はあるものの、漢字も空気も読めない」「周りから馬鹿にされ『可哀想』のレッテルを貼られてしまう」新人キャバ嬢として説明されています。作中で診断名は示されません。知的障害を思わせる描き方をされますが、みいちゃん本人は障害を認めず、個性だと言い張ります。作者も、みいちゃんがどんな子なのかは読者の想像に委ねている、と述べています。

先に、作品への批判が当たっていると思う面から書きます。

僕が思うのは、この作品には、みいちゃん本人のいわば自己責任の物語として受け取られかねない描写がいくつかあった、ということです。

たとえば、みいちゃんは福祉につながることを拒みます。幼馴染で、福祉の支援を受けながら作業所で働いているむーちゃんがしているような軽作業を拒否して、「もっとカッコイイのがいいの!小説家か詩人か画家か映画監督になるの!」と主張する展開がありました。普通のこともできないのに、山田さんを含む助けてくれる人たちと自分勝手に喧嘩をして、みいちゃんのせいでそういう人たちが離れていってしまう、と読まれ得る描写もありました。

特にみいちゃんはむーちゃんとよく対比して描かれています。むーちゃんは罪を犯して服役し、出所後に福祉につながり、今は安定して働き、平和に暮らしています。明確にルートが分岐していて、むーちゃんのようになっていればみいちゃんもああならなかったのかもしれません。

この構図は、結局、みいちゃん本人が悪い。本当はむうちゃんのように生きられた。それなのに、支援を拒んだ人が、障害のある人が、要領の悪い人が、間抜けな人が悪い。そう受け取られかねない部分もあります。これは、みいちゃんをむうちゃんと対比させて、無様な存在として露悪的に描いているからです。

この漫画が描いている人と社会

一方で、この漫画がみいちゃんの特性や個性だけをこの悲劇の原因にしているわけではない、ということも、きちんと指摘しなければなりません。

この作品でかなり踏み込んだ描写が、みいちゃんが客と性的な関係を持つ、いわゆる枕営業の場面です。

作中でこれは彼女の知的な弱さや常識のなさから起きたこととして描かれます。みいちゃん自身が、性的な関係を通じて男性から承認を得ている、という内面まで描かれました。

みんなみいちゃんのことバカとか可哀想って見下してるけどエッチの時だけは対等に接してくれるんだ

これは、知的に弱い女性が搾取されるという被害者の物語にして、読者を同情させるだけの描き方ではありません。みいちゃん自身が、そこを自分の居場所だと思っている。現実の人間のこういう厄介なところを、この漫画はきちんと描いています。そしてその厄介さは、彼女がこれまできちんとした教育や常識を受け取れなかったという背景から生まれていることまで、その後にきちんと描きました。

まず、支援の点です。作中には、小学校時代の回想として、担任の先生がみいちゃんの特性に気づき、親に支援を勧める場面があります。しかもこの先生の親への言い方が、今ならタブーとされるような直截さで描かれている。そして、親は、それを安易に断ります。みいちゃんは、生まれた家庭からして過酷で、そこにもたくさんの問題がありました。つまりこの作品は、みいちゃんの人格形成に関する原因・背景を、作品自身の手で描いているのです。

みいちゃんは、単に頭が悪く性に奔放な女性として描かれているのではありません。そうなってしまった原因や背景のもとに描かれている。その意味でこの作品は、本人の特性だけではなく、社会の問題も浮き彫りにしています。

対比されるむーちゃんについても、親がきちんと関与していること、むうちゃんが「扱いやすい障害」とされている現場の問題などを描くことで、単にみいちゃんとむーちゃんの外側の問題を描写しています。

誰がみいちゃんを殺したのか

以下、結末のネタバレを含みます。

みいちゃんは、殺されてしまいます。この作品は、みいちゃんが死ぬことから始まり、死ぬまでの物語として描かれています。

では、誰がみいちゃんを殺したのか。これが、この作品が追いかけてきた問いであり、比喩表現においても重要な問いとなっています。

物語上、直接手を下した人間はいます。しかし、本当にその人間だけが犯人なのでしょうか。本人の特性だけではなく、家族、学校、夜の街、彼女に関わった男性たち、福祉制度——いろいろな「犯人」が、この漫画では描かれていたのではないでしょうか。

しかも、物語においては、この真犯人に関する冤罪の展開すらありました。みいちゃんを殺した犯人として疑われた人が、実はそうではなかった、という展開まで用意されているわけです。誰か一人を罰して終わり、にはならなかったのです。本当に悪い人は逃げ、弱い人はどこまでも搾取される。社会の病理がここに描かれています。また上記の解釈に沿うように考えれば、この舞台装置は「本当にその人間だけが犯人なのでしょうか」とやはり突きつけているように思えます。

山田さん自身も、ある意味でみいちゃんの死に寄与した一人でした。

みいちゃんのいちばん身近にいた山田さんは、みいちゃんに理解を示そうとします。ただ、どこかで見下している。それは私たち人間誰もが持っている浅ましい側面です。そして漫画の終盤では、そんな山田さん自身が容赦なく醜く描かれる描写もあるのです。

この漫画は、読者が山田さんに自己投影できるような構成を序盤から取っていて、山田さんはどこかみいちゃんに同じものを感じていて、最後の最後に、読者自身のその見方に気づかせる仕掛けになっていました。これによって、次の式が完成するわけです。つまり、

みいちゃんは山田さんであり、あなたなのだ。

人は何かのきっかけでいつでも”そちら側”に転がり得るし、人間の醜さは誰もが持っている。そう突きつけてくる作品だと思います。

この作品には、社会の隠しているものと、読者自身の醜さとを浮き彫りにする側面が、確かにあると思います。

非常に難しい題材です。描写の正確性含めて足りない部分もあったと思います。障害のある人や支援の実態を正しく表しきれていない部分はありました。

一方で、この作品が見せつけた人と社会の醜さは、ある程度、それらに対する批判にもなっていました。消費の危うさを抱えながら、暴露として機能している。だから、作品としては成り立っている。僕はそう評価しています。

表現の自由について考える

ここからは、法律家の目線から、アニメ化の炎上について考えたことを書きます。

2026年7月26日にTVアニメ化が発表されると、SNSでは懸念や、制作中止を求める声が広がりました。発表翌日には製作委員会が声明を出し、懸念や意見を真摯に受け止めるとした上で、偏見や誤解を助長することのないよう、専門家の助言も得ながら、適切なレーティングや注意喚起を記載するなど、慎重に制作を進めると表明しています。

8月には、二つの団体が意見書を公表しました。全国手をつなぐ育成会連合会は8月19日、「一律に映像化を反対する立場は取りません」とした上で、主人公が軽度知的障害や境界知能を示唆する設定であること、「みいちゃん」という呼び名が現実に知的障害のある女性への揶揄として使われている実態があることなどを挙げて、偏見の助長を懸念し、適切なレーティングなどを希望しています。全国「精神病」者集団は8月21日、最終話まで読んだ上で、原作の問題点を十分に検証しないまま原作に忠実な内容でアニメ化することに反対し、原作の問題が検証・解消されないままであれば中止すべきだ、としています。

では、表現の自由との観点ではどのように考えるべきなのでしょうか。

憲法21条の表現の自由は、政治的な主張だけでなく、漫画やアニメのような創作表現も守っています。そして大事なのは、表現の自由は、作品を作る側だけのものではない、ということです。作品を批判する側にも、等しく表現の自由があります。批判も、抗議も、中止を求める声そのものも、一つの表現活動です。

表現の自由の世界には昔から、「思想の自由市場」と呼ばれる考え方があります。これは、思想や意見を自由に発表・競争させれば、議論を通じて誤った考え方が淘汰され、自然と真理や正しい知識が浮かび上がってくるという表現の自由の理論的根拠です。

まずい表現への処方箋は、黙らせることではなく、別の表現をぶつけて、議論の中で鍛えていくことだ、という発想が表現の自由の根本にあります。ある表現に問題があるなら、その表現自体を取りやめさせるのではなく、批判という別の表現をぶつけ合って、元の表現をより洗練させていくことが重要だということです。

ですので、アニメ化を取りやめることは、行き過ぎだと思います。表現自体をなくさなくても、できることがたくさんあるからです。たとえば、この作品が障害への差別や偏見を助長しようとするものではないことは、放送のたびに注意書きや告知で一言示すことができます。製作委員会が表明したレーティングや注意喚起は、まさにこの方向です。声優が言葉を当てるときの口調や演出によって、誤解を招きかねない表現に適切に対処していくこともできます。育成会連合会が指摘した、現実の誰かを「みいちゃん」と呼んで揶揄するような使われ方も、そういう使い方はやめてほしいと、作品の側から示すことはできます(これは本来は作品そのものというよりそのような呼称を使う人達の問題だと思います)。

中止を求める声もまた、表現の自由によって守られるべき批判です。しかし、その批判に応える方法が、作品そのものをなくすことだけだとは思いません。作品を公にし、批判も公にし、その批判を脚本や演出へ反映する。重大な害を避けるために中止以外の方法があるなら、表現を市場から消すより、作品と対抗言論の双方を残す方が、表現の自由の理念にかなうと僕は考えます。。

この記事を書いた理由

僕がこの記事で『みいちゃんと山田さん』の作品性を書いたのは、この作品がこの社会をより良いものにするため、また悪い方向で使われないようにするためにも、一つの作品に対する解釈を示したかったからです。

危うさを危うさとして見つめ、批判を批判として受け止めた上で、それでもこの作品が何を暴いたのかまで受け取る。この記事が、その読み方の一つの道筋になればうれしいです。

今後のアニメ化にあたって、いろいろな批判も踏まえて、より良い表現に、より誤解のない表現になって、この作品がきちんと楽しまれることを願っています。

総評

『みいちゃんと山田さん』の評価は以下のとおり。

★★★☆☆ 星3つ!まずまずです。

非常に難しい題材で、足りない部分もあります。それでも、見せつけた醜さが人と社会への批判になっていて、作品として成り立っている。正しく解釈され、きちんと楽しまれることを願う一作です。

同様の露悪的作品の描き方については、Netflix『ラヴ上等』と法務省「更生上等」のタイアップも題材にして考えたので、ぜひこちらもどうぞ。

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