弁護士による『リーガル・ハイ』考察
FODで『リーガル・ハイ』の配信が始まりました。僕の好きなドラマの一つです。
リーガル・ハイは2012年にフジテレビ系で放送されたドラマで、堺雅人さん演じる毒舌の弁護士・古美門研介と、新垣結衣さん演じる新人弁護士・黛真知子が、殺人事件の控訴審に挑むところから始まります。
リーガル・ハイの良さは、正反対の二人の弁護士を描きながら、視聴者にもその答えのない問いを突き付けるところにあると感じています。
今日はその構造を読んでみます。
※この記事は内容を見たことがない又はうろ覚えの状態でも楽しめると思いますが、内容として第1期1話のネタバレも含んでいるためご注意ください。
二つの弁護士モデル
弁護士の世界では、どういう弁護をすべきかという議論が長らく展開されてきました。
一方には、弁護士は真実や正義に仕える存在であるべきだ、という見方があります(聖職者型)。もう一方には、弁護士は依頼者の利益のために全力を尽くす存在だ、という見方があります(雇われガンマン(hired gun))。
黛は聖職者型に近く、古美門は雇われガンマンに近いと思います。法律業界でも答えの無い永遠の問いを用いて登場人物を対置させつつ描いたところに、このドラマの妙味があると感じています。
そして、二人の弁護士モデルはそのまま、「真実とは何か」という価値観に繋がっています。
黛は目の前に見える現実に向き合い、徹底的に自分が善と考える世界を実現させようとしています。これは一般視聴者の目線にも近く、黛目線でドラマを見つつ、それとはズレた古美門の視点をユニークに感じることになります。
だからこそ、法律家の僕はまず古美門の視点を説明すべきだと思います。
古美門は真実と言うものは結局誰にも見えないのだという立場に立っています。これは「不可知論」と呼ばれるものです。
例えば、二人の初対面は電車の中です。老人に席を譲らない古美門に黛が食ってかかると、古美門は、自分が心臓を患っている可能性を考えなかったのか、という趣旨の切り返しをします。外見からは見えないものがあり、人間には全ての真実は見えない。正義感で食ってかかった黛が、まず言い負かされる場面です。
そして無罪判決の後、古美門は、依頼者がやっていようがいまいが自分には関係ないし興味もない、検察の証拠が不十分だったから無罪になっただけだ、という趣旨のことを言い放ちます。
これは冷たい台詞に聞こえます。でもこの言葉の背景には、真実は究極的には誰にもわからない、だから弁護士にできるのは目の前の依頼者のために全力を尽くすことだけだ、という雇われガンマン型の思想と繋がっています。
現実世界でも、事件の究極の真実は誰にもわかりません。その中で、間違いのない事実を一つずつ積み重ねながら仕事をしていきます。古美門の極端な言い方は、この感覚を突き詰めた先にあるものでもあります。
一人の人間に二つの顔がある
聖職者型と雇われガンマン型の対立は、つまるところ法律家にも色々な価値観があるということを表しています。法律家だけでなく、普通の人間にも色々な価値観があります。そしてこのドラマが面白いのは、この対比の構図を、弁護士二人の間だけで終わらせなかったことです。
例えば、第1話には事件当日に被告人を見たというアリバイを証言する目撃証人が出てきます。弁護側が立てた、無罪主張を支えるはずの人物です。
僕にはこの証人が、見たままを誠実に話そうとする気持ちと、法廷で証言することで離れた家族との関係を取り戻せるのではないかという淡い期待とを、同時に抱えた人物として描かれているように見えました。
証言でさえ、純粋な動機だけで立っているわけではないのです。人間は単純な生き物ではありません。記憶には限界があり、証言にはその人の事情が絡む。人は善を追い求める生き物だという黛の前提も等しく裏付けられていく一方で、真実は誰にもわからないという古美門の前提も人間の生き物の側面から裏打ちされていくのです。
誠実さと欲望をひとりで併せ持つこの証人の姿は、弁護士という一つの仕事の中に聖職者型と雇われガンマン型という二つの見方が同居していることと、同じ構図です。人物と人物の対比が、一人の人間の中でも繰り返されている。リーガル・ハイの対比を面白くしているのは、この反復だと僕は思います。
なぜ悪人かもしれない人を弁護するのか
第一話の事件には、犯人かどうかはその人の目を見ればわかる、という趣旨のことを言う刑事が出てきます。被告人を取調べで自白強要した張本人です。
刑事裁判では、検察官が、健全な社会常識に照らして合理的に疑う余地はない、と言えるところまで証明できない限り、裁判所は無罪を言い渡さなければなりません。「怪しい」「犯人かもしれない」という印象では有罪にできない、というのが法律のルールです。
だから無罪判決は、無実が証明されたという意味ではなく、有罪にできるだけの証明が届かなかったという判断です。証明が届いていないのに、印象で有罪にすることは許されません。目を見ればわかる、という緩い基準が一度まかり通れば、次に同じ基準で裁かれるのは無実の誰かかもしれません。それは自分かもしれないし、家族かもしれない。だから、検察官の証明が本当に基準を満たしているのかを、被告人の側に立って徹底的に吟味する人が要ります。どんな事件の被告人にも弁護人が保障されているのは、そのためです。
結局、第一話の被告人が本当に犯人だったのかどうかは、最後まで明かされませんでした。弁護士が手を抜いて「怪しい」かもしれない人が有罪になっていれば、この社会はどうなっていたのでしょうか。
真犯人を取り逃がさず済んだかもしれません。真犯人ではない人が有罪になってしまっていたのかもしれません。しかしいずれにしても、緩い基準で裁かれたという手続のほころびは生まれていたのでしょう。それ自体が社会にとって良くないことなのだと思います。
最後の一言:信じるものは「自分で探せ」
結末の場面。
古美門は黛に対し、「うぬぼれるな。我々は神ではない。ただの弁護士だ。真実が何かなんてわかるはずがない」と突き放します。「だったら私たちは何を信じればいいんですか?」と食い下がる黛に返ってきたのは「自分で探せ!」という一言でした。
この一言を、僕は捨て台詞ではなく、作品全体の問いとして読みました。視聴者に向けられた言葉だったのです。
黛は、被告人が真犯人かもしれないと思ったら、弁護しなかったのでしょうか。自白の強要をうかがわせる取調べがあり、崩れていく目撃証言があった事件を、犯人かもしれない人を弁護をすべきではないという理由に見捨ててよかったのでしょうか。
聖職者型の理想だけでは、この問いに答えられません。かといって、古美門のように割り切ってしまえるかどうか。リーガル・ハイは、その答えを言いません。代わりに、人の二面性を浮き彫りにしつつ、何を信じて、どういう人でありたいのか。その問いだけを黛と視聴者に手渡して終わります。
弁護士の僕はどう答える?
この問いに対して、現実の弁護士はどう返すのでしょうか。
僕自身は聖職者型でも雇われガンマンでもありません。真実観は古美門寄りですが、そんなに簡単に真実が変えられないことも知っています。だからこそ、自分なりに真実を探して、依頼者ととことん話をして、想定されるリスクも全て伝え、そのうえで弁護方針を決定します。その結果か分かりませんが、これまで弁護してきた事件は全て弁護する価値や意義を僕自身も感じてきました。ドラマではこのような他人との対話や真実との向き合い方がすっ飛ばされるというのがフィクションの部分なのかもしれません。だから、僕は黛のように迷ったことはありませんし、古美門のように真実の前に傲慢になったこともありません。
しかし、少し引いて見たときに、古美門と黛の対立はやはり法の世界を貫く永遠のテーマです。だからこそ、このドラマを法律家の僕が面白く見れたのは、それが僕たち自身も死ぬまで悩み続けるべき事柄だからです。
法律家は、弁護士、検察官、裁判官がそれぞれの役割で仕事をします。だからこそ、二面性といわず人間の様々な顔を見ることになります。ドラマとしての誇張もあるとはいえ、その人間の色々な顔を法廷劇を通じて爽快に表現するところにこのリーガル・ハイの良さがあると思います。
総評
リーガル・ハイの評価は以下のとおり。
★★★★★ 5つ星!満点です!
法律家の僕にとって、「だから人間は面白い、だから裁判は面白い」ということを表現してくれた作品です。たくさんの人に観てほしい。
なお、同じ法廷ものの人気作品『HERO』の記事も書いたので、ぜひこちらもどうぞ
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