『それでもボクはやってない』はどこまで本当か―弁護士が解説する刑事裁判のリアル
映画『それでもボクはやってない』は痴漢冤罪を扱った周防正行監督の作品。
外でも本作は、ニューヨーク映画祭、デリー国際芸術祭、英国での巡回上映などを通じて紹介されてきました。
比較法の研究でも、日本の刑事司法を考えるための「法廷映画」として論じられています。
周防監督はこの作品を撮るために約4年間、刑事裁判を200件以上傍聴し、200人以上の関係者を取材したといいます。
その結果、この作品は現実の事件をもとにしたフィクション作品ですが、法律家が見てもかなりのリアリティがあります。
法律家がどのような点にリアリティを感じているのか、現実の裁判とどのようなところが同じなのかということを解説し、「モデルが再犯」したというデマ騒動などについても触れようと思います。
※この記事は、結末まで含むネタバレがあります。
『それでもボクはやってない』はどんな映画か
主人公の金子徹平は、就職面接に向かう朝、満員電車の中で女子生徒から痴漢だと指摘されます。
徹平は、一貫して否認します。
しかし、駅員室、警察署、検察庁、留置場、そして法廷へと、徹平は次々に連れていかれます。
早く外に出るためには、認めて示談をするという道もあります。
けれども、やっていないことを認めるわけにはいきません。
徹平は裁判で争うことを選びます。
支援者らの支援や弁護人の奮闘もあって、裁判では有罪の立証に対する無罪の証拠も罪あがっていきます。
しかし結局、徹平に対しては有罪判決が宣告され、控訴するというところで映画が終わります。
この映画の巧いところは、「徹平は本当に痴漢をしたのか」という犯行の瞬間を神の視点で決定的には見せないところです。
そのため、観客は徹平を信じながら見ていく一方で、被害者が痴漢被害を訴えている以上、それを訴追する捜査機関側の動きも理解できてしまう部分があります。
この映画は誤判冤罪をモチーフとしつつも、「本当はやっていないのに有罪になった」という結論を置くのではなく、どのような証言と記録から有罪判決が組み立てられていくのかを、長い時間をかけて見せていく作品だと思います。
「認めれば帰れる、否認すれば出られない」という人質司法
徹平が直面するのは、単に裁判で負けるかもしれないという不安ではありません。
無実を主張して争う限り、身柄拘束が続き、仕事も人間関係も失われていくかもしれません。
そして、その負担に耐えられず、早く出るために事実と異なる供述をしてしまうかもしれないのです。
特に痴漢は法定刑が低く、認めれば軽い罪で済むことから、身体拘束を回避するために虚偽自白をしてしまうリスクが高い類型でもあります。
こうした構造は、一般に「人質司法」と呼ばれます。
被疑者・被告人が「自分は罪を犯していない」というほど、逮捕・勾留といった身体拘束を受けやすく、保釈が許可されずに身体拘束が長引く実務運用を言います。
これは、無罪を主張する人の方が、有罪を認める人に比べて、証拠を隠滅する余地と可能性があるために生じていると言われています。
統計上もこの人質司法は裏付けられています。
実際に、『それでもボクはやってない』が上映された当時は、痴漢事件でも無罪主張をすれば身体拘束が認められる状況がありました。
通勤・通学はある程度時間と路線が決まっているので、被疑者が被害者を探し出して懇願したり、脅したりして証言を変えさせる危険があると考えらえていたのです。
映画公開後、痴漢の否認事件で勾留を安易に認める実務には、少しずつ変化が見られました。
複数回同じ人を狙ったような類型の痴漢なら別として、被害者との接触が理屈上可能だとしても現実的にそんなことをする人は少ないのではないか、少なくとも個別の事件の大半はそのような証拠隠滅を疑わせる証拠はないのではないか、という見方が強くなっていきました。
2014年、最高裁は、京都市営地下鉄内の痴漢否認事件について、被疑者が被害者に接触して証拠を隠滅する具体的可能性が示されていない以上、勾留の必要性を認めることはできないと判断しました(最決平成26年11月17日)。
つまり、単に「被害者に働きかけるかもしれない」と言うだけでは足りない、実際に接触できる事情があるのか、どの程度の可能性があるのかを見なければならない、と判断したのです。
この映画が裁判実務を変えた、とまで証明することはできないかもしれません。
ただ、映画はまさにこの人質司法の問題を社会に突きつけ、議論を呼びました。
「否認しているから拘束する」という感覚は刑事司法にとって当然のことなのか、無実を訴える人にとってその制度はどのように働くのかという問題を映画によって可視化・拡散したのです。
特に、痴漢冤罪は「誰もが冤罪を疑われ得る身近なもの」という恐怖がありました。
『それでもボクはやってない』は、それまで専門家の言葉で語られがちだった人質司法問題を、誰にでも自分事として見える形にしたのだと思います。
最後の判決文の持つリアリティ
映画の終盤、徹平を担当していた裁判長が交代します。
そして、徹平の側には、市村という女性の証言があります。
市村は、徹平が上着の裾を電車のドアから引き抜こうとしていた場面を見ており、徹平が痴漢をしたという見方に疑問を投げかける証言をします。
観客としては、これで無罪になるのではないかと思います。
しかし判決は、徹平を懲役3月、執行猶予3年とします。
判決文は、市村証言を完全に無視したわけではありません。
しかし、市村が見たのは痴漢行為より前の場面であり、犯行時点の徹平の行動を直接左右しない、と位置づけます。
加えて、被害者供述についても、具体的で不自然な点がないと評価する一方、徹平の説明には疑問があると整理します。
実際に、私たち弁護士は、刑事裁判ではこのような理由付けの判決文を度々目にします。
一つひとつの文章だけを読めば、判決は理屈の上では成立しているのかもしれません。
だからこそ怖いのです。
痴漢のような客観的証拠が少なく不安定な証拠類型では、書こうと思えば有罪判決も無罪判決も両方書けてしまうのかもしれません。
そして、裁判官によって証拠をどこまで重く見るか、疑いをどこまで疑いとして残すかは変わり得ます。
映画は、その危うさを、露骨に不正な裁判としてではなく、理由のある程度整った現実的な判決文として見せているのです。
特に、被害者証言が具体的かつ自然だという言い回しは非常によく使われる有罪判決の定型文の一つです。
最高裁裁判官が、痴漢事件におけるこうした危険に関して、裁判官に注意喚起をしたこともあります(最判平成21年4月14日那須弘平裁判官補足意見)。
その内容は以下のとおりです。
・痴漢事件で被害者供述を「詳細かつ具体的」「迫真的」「不自然・不合理な点がない」といった一般的な言葉で信用し、有罪の根拠とする判決が少なくない
・しかし、混雑する電車内の痴漢は、比較的短時間で、被害者の身体を手で触る等の単純かつ類型的なものであり、普通の人がその気になれば、その内容が真実か虚偽か錯覚又は誇張等かにかかわらず、法廷で具体的で詳細な体裁をそなえた供述をすることはさほど困難でもない。
・その反面、弁護人が反対尋問で矛盾や虚偽を暴き出すことも、裁判官が虚偽・錯覚・誇張等をかぎ分けることは決して容易なことではない
・痴漢に関する被害者供述には、元々、誤判を生じさせる要素が少なからず潜んでいる。
このような注意喚起が本作品と関連しているかどうかは分かりませんが、本作品は圧倒的な取材によって、まさにこの誤判の構造を最後の判決文でさりげなく描いているのです。
もちろん、被害を訴える人がいることを軽く扱ってよいわけではありません。
痴漢は重大な被害を生む犯罪です。
けれども、「犯罪が起きたか」と「この人が犯人か」は別の問いです。
人は、誤解した出来事についても具体的に語ることがあり得ます。
記憶は時間とともに変化することもあります。
そもそも満員電車内の一瞬の出来事では、誰が何をしたのかを客観的に確かめる手段が乏しいことがあるのです。
そして、その人が犯人であることに合理的な疑いが残るなら、国家は人を処罰してはなりません。
「疑わしきは被告人の利益に」という原則は、被告人を特別に甘やかすためのルールではありません。
国家が人の自由を奪う以上、間違えるかもしれない状態では処罰してはならない、という限界線なのです。
『それでもボクはやってない』の最後の判決は、その限界線が、いかに言葉によって越えられ得るかを見せているのです。
「モデルになった事件の人が再犯した」というデマ騒動
この映画は、一つの事件をそのまま映画化したものではありません。
周防正行監督は、東京高裁で逆転無罪となった痴漢事件の記事を読んだことをきっかけに、当事者や弁護人、司法関係者への取材と裁判傍聴を重ねて映画を作りました。
西武新宿線事件や京急線事件など、複数の事件が作品の素材になっています。
こうしたモデルの事件について、SNSではときどき「映画のモデルになった人が後に痴漢を再犯した」という話が流れます。
しかし、これは正確ではありません。
明確なモデルとされる当事者について、再犯を裏付ける報道は確認できません。
再審請求を「再犯」と取り違えたという説や、映画の取材先と関係のある別人の事件などが混ざり単純な物語として広がったという説があるようです。
このデマ問題自体、映画が描いた問題を考えるうえで非常に象徴的です。
痴漢冤罪を描いた映画に関して、新たな痴漢冤罪が生まれてしまっているからです。
一度「痴漢の犯人」という物語ができるとそれを信じてしまう人がいます。そして、人は一つの印象を手に入れると、それに合う情報だけを集めてしまうことがあるのです。
だからこそ刑事裁判では、「それらしく見えること」と「証明されたこと」を分けなければならないのです。
映画の後も、周防監督は問い続けている
周防監督は、映画公開後も刑事司法の問題から離れませんでした。
法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員を務め、取調べの録音・録画、証拠開示、冤罪防止をめぐる議論に参加しました。
現在も再審法改正を求める活動に関わり、近年は「なくそう!冤罪、終わらせよう!人質司法」を掲げる「ひとえんちゃんねる」などを通じて、当事者の声を届けようとしています。
『それでもボクはやってない』は、映画の中だけで完結する社会派映画ではありません。
映画を作った人自身が、その後も制度の中へ入り、市民として異議を申し立て続けています。
その時間まで含めて、この作品は続いているのだと思います。
総評
『それでもボクはやってない』の評価は以下のとおり。
★★★★★ 5つ星!満点です!
「どこまで本当か」という記事タイトルへの答えとしては、勿論物語のためのフィクションもありますが、それを除いても、当時の痴漢冤罪を描いた映画としてかなりリアルだと思っています。
今の裁判実務と整合しない部分もありますが、それらはむしろこの映画が変えてくれた部分もあるのではないかと思います。
周防監督の作品の作りこみには脱帽するしかありません。
僕はこの映画とその後の裁判実務を見て、「物語」の力を実感しました。
この記事を書けて良かったです。
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