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日常が勝手にクラシックになる──爆走する私とラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》

京都には「高瀬川」という細い川がある。その川沿いを歩き、川のせせらぎと水面のきらめきに癒されたあと、私は爆走していた。

理由は単純だ。予定時刻に間に合うか微妙で、しかも道が合っているのか自信がない。京都の街は碁盤の目で分かりやすいはずなのだが、道を間違えたのか人っ子一人おらず、道を尋ねることすらできないのだ。


そんなとき、私の頭の中で勝手に流れ始めたのが、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》。最も人気のあるピアノ協奏曲のひとつと言っても過言ではないだろう。数多くのピアニストがCDを発売しており、それぞれに素晴らしい魅力があるが、この時に私の頭の中で流れたのは「ラフマニノフ自身の演奏」である。難曲にもかかわらず、とんでもなく速いテンポで突っ走るあの演奏は、何度聞いても人間技とは思えない。

高瀬川といえば森鷗外の短編小説『高瀬舟』の舞台でもある。もっとも、「森鷗外が concertoコンチェルト を “協奏曲” と訳した」という話とはまったく関係がない。私は必死で泣きそうで焦っているときに、いつもこの曲が流れる。それだけのことだ。


ロシア正教の鐘を模した和音の連打は、クレッシェンドとともに緊張感を増し、壮大な分散和音へとなだれ込む。そのわずか10小節の劇的な展開が、私の不安を掻き立てる。しかも、ラフマニノフ自身の演奏ゆえに、心拍数の上がり方が尋常ではない。そして、オーケストラのトゥッティの重厚さと目まぐるしい展開が、驚くほど私の感情とぴったり重なる。

第2主題の抒情的なピアノ独奏が、焦る私の心をなだめてくれる。おかげで少し冷静になることができた。ラフマニノフの自作自演は何度も聞いている。おかげで、「○小節目ということは、○分○秒あたりだろう」と推測がつく。腹時計よりもよっぽど信頼できる。

この時点でスマホで地図を確認しようとしたが、運悪く電波が入らず、スマホは「ただの板」と化していた。絶望した。ただ、それでも私の脳内ではピアノ協奏曲が流れ続けていた。おかげで「練習番号○番~○番を走れば○分走ったことになるから、このくらいの距離を進んでいるに違いない」と計算できる。巨匠の演奏を何度も聞いた副産物だ。


第2楽章に入った。ホ長調(E-dur.)の穏やかな主題が木漏れ日の美しさと重なり、思わず足が止まる。待て。足を止めて、風に揺れる木々に見とれている場合ではない。暑さの中を走りすぎたせいか、頭がぼーっとしていたらしい。慌ててカーディガンを脱ぎ、半そで一枚になった。


そうこうしているうちに、第3楽章。まだ「目的地にたどり着くための目印」すら見えない。大通りに出てきたが、歩いている人が少ない。しかも、この暑さの中、元気に歩いているのは外国人観光客と思われる人ばかりだ。道を尋ねることができない。一体どうなっているのだ。第3楽章は「Allegro scherzando」だが、冗談もほどほどにしてほしい。


もし道を間違っているのだとすれば、絶対に予定時刻に間に合わない――そう思った時、どこかの警備をしているおじさんが目に留まった。

「すみません、○○に行きたいんですけど……」

続きを言う前に、「ああ、○○さんでしたら、この道をまーっすぐ行ってもらったら、右手に見えますよ」と教えてもらえた。のんびりとした、でも「品の良さ」という芯をはっきりと感じる道案内に、京都らしさを感じた。

良かった。どうやら合っているらしい。これで、自信を持って歩ける。曲が調性を変えながら美しく壮大に奏でられる。心に随分と余裕が出てきたのだろう、私の手は無意識のうちにピアノ独奏パートの動きをしている。


目的地の近くまで来た時に、「これだ!」と気づいた。最後のピアノのカデンツァが華やかに始まったのと相まって、思わず駆け足になった。

そして、目的地の前に立った瞬間——脳内ではちょうど、カデンツァの最後のフェルマータだった。ピアノが鍵盤を駆け上がり、一瞬時が止まった、あの瞬間。そして、オーケストラが「パーン!」と高らかに鳴り響いた。

「ここだ!!合ってた!!」

私の足も、心も、ラフマニノフと完全に同期していた。そのままフィナーレの勢いで目的地に滑り込んだ。タイミングが良すぎる「ラフマニノフ終止」が間に合ったことを祝福してくれているように感じられ、額の汗をぬぐいながら一人で笑ってしまった。


人生はときどき、こうして勝手に音楽的になる。

多くの人の目には大げさに映るかもしれない。
でも、そんな大げささが、日常をちょっとだけ面白くしてくれる。



後日譚はこちら


森鴎外が concertoコンチェルト を「協奏曲」と訳した話はこちら



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