伊藤詩織監督作品『Black Box Diaries』の日本公開を切望する
伊藤詩織さんを覚えているだろうか。TBSワシントン支局長(当時)からのレイプ被害を公表したジャーナリストだ。日本における #MeeToo 運動の実践者として、過去記事でも触れた事がある。
しかし実のところ、彼女の著書『Black Box』はずっとAmazonの「ほしいものリスト」に放り込んだまま、購入を留保していた。つまり、読んではいない。これにはわたしなりの事情があった。わたしの性自認はデミジェンダー(部分的に女性)である。男性としての肉体を持つことに違和感がなく、恋愛対象は女性であるため、ただのおっさんじゃないかと言われればその通り。ただし、男性器を切り落として性別を失いたい、と妄想することはままある。もちろん、そのような考えは間違っている。性自認は自由であるとともに、あるがままの自分を認めるためにある概念なのだから。チンコのついたわたしをも認めて、人生を楽しむべきなのだ。
『Black Box』の購入を留保し続けていた事情というのは、この本にはリアルなレイプ描写があると思われ、その時万が一にもわたしの男性器が反応してしまったら、レイプ魔の男性を否定しきれない事実が(たとえ無意識の反応であっても)生じたと捉え、悩み、やはりチンコを切り落として肉体とメンタリティの不一致を解消しなければならない、と考えるに違いないと思っていたからだ。これは下ネタでもなんでもない。わたしなりに真剣な話である。
そういうわけで、数年に渡りなんとなく避けているうちに、伊藤詩織さんは本作からドキュメンタリー映画を作成、来たる第97回米アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた。そのニュースを目にしてやっと、これは間違いなく観るべき映画で、その前に留保し続けていた書籍も読まねばなるまいと心が決まった。
つい昨夜のこと。夢中になり一気読みした。彼女の身に起こる理不尽な物理的・精神的暴力、セカンドレイプの連続、取材が深まるほどに顔を出す巨大権力の恐怖。ジャーナリストとはいえ当時はまだ20代のインターンである。己の信じる正義を貫くことに、どれほどの勇気が必要であったか、想像し得ない。
そして、わたし自身の問題は完全に杞憂であった。怒りと悲しみを含んだ複雑な感情と、戦う勇気への賞賛の気持ち以外、邪なものは何も湧かなかったことに安堵した。
ところで、映画『Black Box Diaries』だが、ハフポストの記事によると、既に世界30以上の国と地域で公開が決定しているそうだが、日本での公開は未定である。これには昨年、『オッペンハイマー』について配給大手を非難したくてたまらなくなった記憶が蘇る。日和っているのである。作品は海外で受賞歴もあり、日本ではテレビ業界の性加害スキャンダルで大物タレントが次々に退場している。質が担保され、時宜を得ているのであるから、必ずや上映されると信じたいものだが、果たしてどうなるか。
今年の米アカデミー賞授賞式は3月3日(日本時間)。『Black Box Diaries』が争うことになる長編ドキュメンタリー部門の本命は『ノー・アザー・ランド故郷は他にない』で間違い無いだろう。こちらは2月下旬より公開される。米アカデミー賞の最高賞である作品賞のノミネート作品『ANORA アノーラ』や、『ブルータリスト』も同時期に公開が始まる。賞レースの本命が集う早春は、映画館が最も面白い時期である。しかし、『Black Box Diaries』が授賞式以前に上映される可能性はほぼ無いだろう。それでも、気骨のある配給会社が現れて、いずれ上映されると信じている。本作が日本で上映されなければ、テレビ業界と同じく、邦画もオシマイということだ。
