🌸第5話「祖母の昔ばなし」
家に帰ると、屋敷の広さがかえって寂しく感じられた。
父はほとんど戻ってこない。
仏壇に備えられた母の写真が、ぼんやりと光っている。
胸のざわめきは、むしろ強くなっていた。
——あの和歌のことを、確かめなくては。
祖母の家で部屋の障子を開けると、灯りの下で古い文机に向かう姿があった。
「おや、紗良。こんな時間にどうしたのです」
やわらかな声に少し救われる。私は古書の頁を開き、例の和歌を示した。
「おばあちゃん、この歌……知ってる?」
祖母は目を細め、しばらくじっと見つめていた。
やがて口を開く。
「それはね、花霞の一族に伝わるもの。平安の昔、ある姫が桜の精を見た時に詠んだ歌というのです」
「桜の精……」
思わず声に出していた。
祖母は静かにうなずき、さらに続ける。
「花霞の血を引く者の中には、ときに精霊の声を聞く力を持つ者が現れる。大正の頃にもいました。柊一郎といって、私にとっては祖父にあたります。彼はその力がとても強く、精霊と語らったとも伝えられています」
祖母の声を聞きながら、背筋がひやりとする。
伝説と現実が一本の線でつながるような感覚だった。
その夜、祖母の屋敷を辞そうとして庭に出たとき、目に入ったのは大きな桜の木だった。
古くから花霞の家を見守ってきた樹。枝先には、散り残った花が月明かりに淡く揺れていた。
風が吹き抜け、私はふと耳を澄ませる。
「……たすけて……」
確かに聞こえた。弱々しい声が。
思わず足を止め、胸に手を当てる。
「……誰?」
囁いても返事はない。
ただ、花びらがひとひら、肩に落ちた。
静かな庭の中で、心臓の鼓動だけが大きく響いていた。
胸のざわめきは、不安と期待に形を変えて脈打ち続けていた。

