勝負はどちらに? 光悦村〜裏編
さて。
光悦村のつれづれを続けたい。
(表編はコチラ↓)
家康が光悦に鷹峯の土地を与えたのは、1615年である。
徳川が豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」が起きた年であり、古田織部が豊臣内通の疑惑により自害させられた年でもある。
家康が、織部の弟子であった光悦を警戒し、ていの良い左遷の地を与えたと言っていい。
が、一概に左遷とも言いづらい。
なぜなら、京の豪商たちが光悦のバックにつき、光悦村の資金援助をしたからである。
高級呉服商である雁金屋を営む尾形宗伯は、光悦の屋敷のすぐそばに居を構えている。宗伯の孫は、後に琳派の祖となる尾形光琳である。
また、朱印船貿易で莫大な富を築いた茶屋四郎次郎も光悦村に居を構えた。彼は、徳川と通じる人である。その政治的人脈と資金力を活かし、光悦村の開拓を支えた。
さらには、角倉素庵。高瀬川や大堰川の開削で知られる角倉了以の息子であり、京の水脈を司る巨万の豪商である。「嵯峨本」の資金を出したのも彼である。
光悦寺のほど近い場所に、常照寺がある。
当代一と言われた名妓、吉野太夫で有名な寺である。
中国にもその名が知られたというのは疑わしいが、そんな名妓を身請けできるのは、当然ながら金持ちである。
落籍した吉野太夫の夫となるのは灰屋紹益。
名の通り、染め物に使う灰を生業にした豪商である。今でいえば、特許を取得した大企業の御曹司であり、遊女を妻にすることには反対する者が多かった。光悦は、吉野太夫の人柄と文化力ゆえに結婚を支持したという。
さて、なにゆえ京の豪商たちは、光悦村への支援を厭わなかったのか。
もちろん、光悦の芸術性への支持もあったであろうし、彼らは光悦と茶の湯はじめ、文化的な交流がある友人たちでもあった。
それ以上に彼らを結びつけていたのが、日蓮宗なのである。
日蓮宗は祖である日蓮の激しさを受け継ぐ、苛烈な宗派である。
日蓮宗の「不受不施」は権力者にとっては非常にやっかいな教えである。
日蓮宗を信じない者からは、どんな施しも受け取らない。つまりは、天下をとった徳川といえど、懐柔ができない。
また、日蓮宗を信じないものには、供養はしない。(不施)
事実、1599年、家康が大坂城にて「形だけも他宗派との合同法要に参加せよ」と命じた際、日奥は不受不施を理由に、拒絶した。
その過激さゆえに、幕府はその暴徒化を怖れ、キリシタンと同じく弾圧の対象とした。
が、現世利益を求める京の豪商たちも光悦も、弾圧されることは当然望まない。
日蓮宗の僧侶や寺が布施を受けることは教理に背くが、光悦が土地をもらうことはなんら問題はない。
鷹峯という治安の悪い場であれ、日蓮宗と芸術に口出しをされない場が作れるのなら、光悦や豪商たちにとってはユートピアである。
また、光悦のいとこ、本阿弥アントニオはキリシタンであり、日本にいられずマカオに逃れていたとする小説もある。
事実はともかく、京で弾圧されるキリシタンの仲間や工人たちを保護するためにも光悦にとって「ユートピア」は必至であった。
国宝「舟橋蒔絵硯箱」の作成に携わった五十嵐三好もまたキリシタンであったという説もある。
「舟橋蒔絵硯箱」にせよ、後の琳派にせよ、南蛮文化の煌びやかさや幾何学的なデザインが色濃い。
洛中で破壊された南蛮寺やキリシタン文化の工人たちの多くが光悦村に流れこんだのではなかろうか。
常照寺を日蓮宗の学問の場、光悦村を芸術の発信地とし、鷹峯を完璧な「文化の地」としてしまえば、家康も無粋に踏み込むこともできなかったであろう。
のち、日蓮宗も寺請制度に組み込まれ、光悦亡きあと、工人たちもまた徐々に洛中に戻ることとなる。
が、家康に屈することなく一矢報いる京の文化と豪商たちのネットワークに私は1票投じたい。
光悦が鷹峯に移ったその約250年後、江戸幕府を倒す砲火が京から始まるのだから。
