名画は、盗んでも売れない|学芸員と、盗まれた絵のその後
南仏の美術館から、ルノワールが4点持ち出されました。
カーニュ=シュル=メールという、ニースの近くの町にある小さな館です。ルノワールが最後に暮らした家がそのまま美術館になっていて、事件のとき館内に出ていたルノワールの絵は12点でした。そのうちの4点なので、展示のかなりの部分が一度に壁から消えたことになります。
早朝に警報が鳴って、警察が着くまでが5分ほど。犯人は2人。
前々から美術品盗難のニュースには興味があったので...
これを機に、備忘録代わりとして調べてみました。
数分で4点、そのうち2点が庭に落ちた
まず、美術館で絵を1枚、壁から下ろすところを想像してもらえたらと思います。
手袋をして、二人がかり。
床には、先に毛布を敷いておきます。
壁から床までは1メートルもないんですが、それでも緊張します。
額の角をどこかにぶつけたら、その傷はずっと記録に残る。
絵が無事でも、額もまた作品のうちだからです。
それを、数分で4点。
4点とも、額はついたままでした。
壁に留めてあった部分を切って、そのまま外しています。
額がつくと、厚みも重さも一気に増えるのは想像に難くないですよね。
二人で4点は、さっと抱えきれる量ではありません。
だからでしょう、庭に2点落ちていました。
回収されたのはその2点で、残りの2点は行方不明のままです。
※数字はまだ固まっていません。庭に落ちたのが1点か2点かも、いまは割れています。数日しか経っていない話なので、金額は書かないでおきます。
絵の運び方の話は、Xでも前にポストしたことがあって、そのときにわりと反応をいただきました。
丸めたカンヴァスって、麻薬や銃よりずっと目立たず運べるんですよね。なのに、盗んでも正規価値の1割でしか売れない。
— りん|美術館学芸員 (@rinhwan_blog) June 21, 2026
有名な絵ほど買い手がつかない。買えるような収集家ほど盗難ニュースを知ってるし、そもそも飾れない絵をリスク覚悟で買う人はほぼいないんです。
じゃあ誰に売るのか。… https://t.co/VjV95IxSHl
2か月後に、答え合わせがありました
運び出すだけなら、実は簡単にできます。
額から外してカンヴァスだけにして、くるくると巻いてしまえば、驚くほど小さくなるので…。絵の具の層に負担はかかりますが、盗むほうはそんなことを気にしません。
というわけで、丸めたカンヴァスは麻薬や銃よりずっと目立たずに運べます。
難しいのは、そのあとです。
売ろうとしても、まず売れません。
有名な絵ほど買い手がつきません。
それを買えるだけのお金を持っている人は、たいてい盗難のニュースも知っているからです。
※盗品につく値段は、正規の市場価値の7〜10%ほどらしいです。(参考:FBI Law Enforcement Bulletin) https://leb.fbi.gov/articles/featured-articles/protecting-cultural-heritage-from-art-theft-international-challenge-local-opportunity
実際に売れなかった例が、最近イタリアでありました。
今年の春、パルマ近郊の美術館から、ルノワール、セザンヌ、マティスの3点が盗まれ事件。犯行にかかったのは3分足らずです(!)
その3点ですが、先月無事そろって戻ってきました。容疑者のひとりの自宅から見つかったそう。報道によると、事件が大きく報じられたせいで売ることができず、物置に隠したままだったようだ、とのことでした。
売れないなら、足のつかないものに変えてしまえばいい。
宝石ならそれができます。
去年の秋。ルーヴル美術館から王室の宝石が8点持ち出された事件では、翌日に1点だけ、館のすぐ近くで見つかりました。逃げるときに落としたとみられていて、かなり傷んだ状態です。残りの7点は、いまも見つかっていません。石を外して作り替えられてしまったのではないか、という見方が出ています。石を外して地金を溶かせば、それはもう「ルーヴルから盗まれた品」ではなくなります。
絵には、それができません。
切り分けたらただの布になって、値段のほうが消えます。
だから絵は、売れないまま、形だけはそのままでどこかに置かれ続けます。そして形が残っているかぎり、いつか誰かの家から出てきたりするんですよね。
※盗まれた美術品が戻ってくる割合は、全体では1割前後らしいです(資料により5〜15%と幅があります)。そのなかでは、絵は戻りやすいほうに入ります。
売れると思って、盗んでいます
ここまで売れないのに、どうして盗むんだろう。
それがずっとわからずにいました。
FBIで美術品盗難を担当していた人が、こんなことを言っています。盗んだ側は、金に糸目をつけない収集家が声をかけてくると思い込んでいることがある。つまり、売れると思って盗んでいます。
でも、その声はかかりません。そうなると残るのは、美術館か保険会社に買い戻しを持ちかける道です。
表向き、館も保険会社も犯人と交渉はしません。実際には「情報提供への謝礼」という名目でお金が動くことがある、と指摘されています。
返せばお金になるとわかれば、同じ絵がまた狙われます。フランス・ハルスの1枚は、これまでに3回盗まれています。
戻ってくるまでに、8年半かかりました
ただ、出てくるまでに何年もかかることがあります。
30年ほど前、フランクフルトで開かれていた展覧会から、ターナーの2点が盗まれました。所蔵していたのはロンドンのテートで、貸し出していた最中の事故です。
取り戻せたのは、1点が6年後、もう1点が8年半後でした。
ただ、待っていたら戻ってきた、という話ではありません。テートはドイツの弁護士を通じて、350万ポンドを払っています。名目は「情報提供料」でした。
そのお金が最終的にどこへ流れたのかは、いまも議論があります。
この交渉をしていた本人が、一部始終を本にしています。サンディ・ネアンさん、当時テートで展覧会まわりの責任者だった人です。
『美術品はなぜ盗まれるのか ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い』(中山ゆかり訳、白水社)
まだ読めてないんですけど、面白そうですよね...貴重な話が聞けそうだなぁと思って積読です📚
貸出中に盗まれた、というところが個人的にはいちばん重たいなぁ…と。作品を借りて、運んで、また返す。事件でもなんでもない、こちらの日常業務です。その延長線上に、こういうことが起きます。
テートに2点が戻るまでの8年半、あの絵の前に立った人はいません。
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✏️ 書いてる人¦現役学芸員のりん
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出典
ルノワール美術館の盗難:BBC NEWS JAPAN、AFPBB News、ARTnews JAPAN、CNN.co.jp(いずれも2026年9月8〜9日)
パルマの事件と回収:CNN.co.jp(2026年3月31日)、AFPBB News(2026年8月15日)、日本経済新聞・共同通信(2026年8月14日)
ルーヴルの宝石盗難:CNN.co.jp、ARTnews JAPAN
盗難美術品が戻ってくる割合:Newsweek、Priceonomics ほか(資料により5〜15%と幅があります)
買い戻し・謝礼・繰り返される盗難:CNN(FBI美術品盗難プログラム担当者の発言)、Priceonomics、DailyArt Magazine、The Sunday Telegraph(Chris Marinello の指摘)
ターナー盗難とサンディ・ネアン:白水社の書籍ページ、日本経済新聞の書評、The Art Newspaper(ネアンへのインタビュー)、Art History News
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