【2】戦争は、生きている人にも傷を残す―被爆死した大叔母の謎を解き明かすまでの話
こちらの記事の続きになります。
さて、話は戻りますが、広島市に「美津子さん(大叔母さん)の亡くなった日と、どなたがお骨を引き取られているのか、できるならお聞きしたい」とお話ししたところ、
「個人情報になるため、また判断して折り返し電話します」とのことでした。
その後、広島市から電話がかかってきて、「どなたがお骨を引き取られたかは、市としては個人情報の観点から教えることができない」との回答でした。
残念でしたが…まあ、そりゃそうだ、しょうがないよね…と思いました。
たぶんファミリーサーチで出た、県境の古川さんの墓地に眠られているのでしょう。
ですが、美津子さんの名前、亡くなられた年齢、日付の3点は登載証明書でわかるとのことでしたので、それだけ発行をお願いしました。
発行しても、天国の祖母は悲しむだけかもしれませんが…でも、これは美津子さんが生きていた証でもあるのです。
「おばあちゃん、ごめんね。美津子さんが生きてたこと、おばあちゃんと仲良かったこと、私が理解して持っておいてあげたいけえ」と思うばかりでした。
残る最後の手がかりは…私の一番上の叔母。つまり祖母の子です。父と一番上の叔母は10歳以上歳が離れているので、何か知ってるのかもしれません。
ただ、叔母はかなり、マイペースな方でですね…しかもこの時期、不幸があったばかりでした。普段もあまり連絡がとれません。
なのでどうかなあ…と思いました。
でも、叔母ももう70代後半になるし、姪である私のことは悪く思っていないので「最後のチャンスだ」と思い、今自分がわかっていることと、何か美津子さんについて知らないかを書いて手紙を送りました。
広島市からの登載証明書は発行に数週間も時間がかかり、その前に叔母から返信が来ました。
叔母によると、叔母も昔、同じく広島市から登載証明書を取り寄せたということ、
また、「美津子さんは寺町(つまり住んでいる家)で亡くなったと祖母から聞いた」と書いてありました。
ハッキリそれだけはわかりました。
叔母は他にも何か知っているようでした。
今から惨いことを書きます。
美津子さんは、恐らく主婦で、仕事へ行く哲二さんを見送った、8月6日の8時15分に家にいて亡くなられたのでしょう。
祖母が生前、母に言っていた「生家の家族が探しにいった」その答えはきっと……見つからなかったのだと思います。
核は3000℃もあったといいます。
3000℃ですよ?考えてみてください。
そして、美津子さんの住んでいた寺町は、爆心地から1km以内にあります。
それを考えると、美津子さんは、即死された可能性が高いです。
前編の原爆投下後の航空写真にもあるように、家がなくなっているからです。
美津子さん……絶句しました。
原爆の、核のひどい現実を目の当たりにしました。
美津子さんが、まさかあの「はだしのゲン」で読んだ「水をくれ」と全身やけどになっていた人達の一人どころか、即死だった可能性が高いなんて……
今まで遠いことだと思っていました。自分には関係ないことだと思っていました。親戚、しかも祖母の姉がそうだったなんて……とても悲しく、辛く思いました。
やりきれない思いだっただろうに…旦那さんの哲二さんを見送ったあと、そのまま離ればなれになって……
美津子さんは自分に何が起こったのか、わからないまま亡くなられたのでしょう。
痛くて辛かったろうに…。
あのとき、原爆が落とされなかったら…
美津子さん、元気に楽しく人生を送りたかったはずですよね。哲二さんと一緒に。
哲二さんは、官有(国の土地)に住んでいたことから、公務員だったのではないかと推測していますが、当時の県庁は爆心地から1km以内にあり、市役所は爆心地より2km離れていました。
哲二さんがどちらに勤められていたのかはわかりませんが、やはり即死にせよ、その後生きられていたにせよ、8月6日に哲二さんも亡くなられているのは確実だと思いました…。
美津子さんと哲二さんが、一瞬で原爆によって奪われた。
美津子さんを思うと、やりきれない気持ちと共に、今天国で笑っていてほしい…そう思うばかりでした。
美津子さんの性格は、亡き祖母にしかわかりませんが、現時点で美津子さんについて、「絶対にこうだった」と確定していることをもっと深掘りして書きます。
祖母と美津子さんの生家は、ど田舎に佇む大きなお家です。
そして祖母が出不精だったのを見るに、祖母の生家では「女性は家の仕事をして外になるべく出ない」という教育方針だったのは間違いないです。
美津子さんも生家の教育で出不精で、それが急に広島市内に住む哲二さんと結婚することになった。
美津子さんは家がひとしきり立ち並んでとっても狭い、都会の広島市内で暮らすのはとても最初戸惑われたと思われます。なかなか慣れなかったと思います。
それでも哲二さんと2人で暮らしていた。美津子さんは最初は戸惑いながらも、市内に慣れた哲二さんを頼りにしていたはずです。
2人での暮らしは、美津子さんにとってほっとするような素敵な生活だったのでしょう。
それを一瞬で…たった一瞬で原爆は奪ったのです。
しかも人間が耐えられない、痛くてつらい思いをさせて…。
そして、祖母の、一番上のお姉さんに対する様子からも美津子さんのことがわかりました。
祖母は一番上のお姉さん(美津子さんの姉でもある方)のことは、ハキハキものを言う方で苦手ぽかったようです。
一番上のお姉さんは長生きされ、祖母が最期に面会したとき、私の母に「もうええわ。元気そうで安心した」とあっけらかんとして言ったそうですから…。(祖母はこういうとき、いつも泣く人でしたが涙もなく…。)
その祖母のリアクションの違いから、美津子さんは一番上のお姉さんとは違う性格だったのは明らかです。
母曰く、二番目のお姉さんである美津子さんは、被爆死したことが辛くて祖母が語らなかっただけで「頼りにしていたんじゃないか。好きなような感じだった」とのことでした。
美津子さんは、ハキハキものを言う気が強い人ではなく、祖母にとって頼れるやさしいお姉さんだったんじゃないかなあと思います。
なぜそんな美津子さんが原爆で亡くならなければならなかったのか。美津子さんの幸せな暮らし、そして旦那さんの哲二さんもを一瞬で奪った原爆を憎く感じました。
原爆なんてなかったら…核なんてなかったら。
美津子さんが苦しい思いをして、未来も奪われずに死なずにすんだのに。
どうして美津子さんと哲二さんだけが、そしてあのとき広島市内で暮らしていた人だけが、どうしてそんな目に遭わないといけないの?
やさしい方だったろうに…祖母の気持ちが乗り移ったように涙が出ました。
話は戻りまして…叔母の返信からは「泊まって語り明かしたい」と書いてあったので、それはちょっと…と困り、「私は持病があって今、会えそうにないので、(本当です)手紙と文章で美津子さんのことを教えてください」と返信しました。
しかし…よくよく考えてみると、惨いことですし、叔母も不幸があったばかりなので、文章に書けるのかどうか……「返信は返ってこないかもしれない」と思いました。
登載証明書も叔母からの返事もなかなか来ない日々が続き、その間、美津子さんの住んでいたすぐ近くにある、寺町の本願寺広島別院に行こうかなと思いました。
ですが、突如気分が悪くなり……美津子さんは一瞬で亡くなられたのに、あのとき全てがなくなったのに、再建したお寺や被爆しても残ったものを見に行くのが辛くなりました。
それに「ここで美津子さんが…」と思うと辛く、寺町に行くことはできないと思い、断念しました。
祖母が「もうそれ以上はやらんでええ」と言っているのかもしれないとも思いました。
というのも、生前の祖母は一回も、あの8月6日の8時15分に手を合わせることはありませんでした。母も、私もその姿を見たことがありません。
毎年8月6日をいつも通りに過ごし、もう完全に姉の美津子さんが原爆で亡くなったつらさを封印して生きていたように見えました。
それだけ祖母が辛くて封印したい出来事だったから、私が気分悪くなっても当然だなと思いました。
ちなみに「なぜ美津子さんと哲二さんが被爆死したことが明確にわかったのだろう」と思い、ネットで調べると、“被爆当時に広島市にいたと推定される人口42万人から5年後の調査で当時広島市に居住していたかを尋ね、生存が確認された約15万8000人を引き、そのほかの資料を考慮した数字から”とのでした。
(引用文献…https://www.hiroshimapeacemedia.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070226.html)
80年たった今も、被爆死された正確な人数はわかっていないそうです。このことは原爆が突如落ちて混乱状態に陥り、誰かわからなくなったご遺体を何人も葬らなければならなくなった当時の実情を示している証拠でもあります。
そのことを調べていたら、2001年から国立広島原爆死没者平和祈念館という施設で、原爆死没者の名前と遺影を公開し永久保存していること、また募っていることを知りました。美津子さんが被爆した寺町には行けそうにありませんでしたが、ここなら美津子さんも哲二さんのことも正確にわかるはずだと思いました。
遺影は非公開にすることもできるそうで、ご遺族の古川さんがどう登録されているのかはわかりませんがお二人の名前が登録されていることは確実です。
【3】に続きます。
