ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈14.幕が上がる〉
ピザが食べたいという星南の希望で、夕飯はイタリア料理店で食べることになった。菅原が見守る中、星南は目を輝かせ、美味しそうにマルゲリータピザを頬張った。食後、星南の体調を確認した上で、再度タクシーに乗り込み、劇場を目指す。
午後五時。開演まであと一時間。冬の太陽は足早に落下し、タクシーの車内も暗闇に包まれた。冬至の前。夜が世界を支配していく。
「きれいだな」
星南が窓の外を見てぽつりとつぶやく。クリスマスイルミネーションだ。街路樹に巻き付けられた青と銀の電飾が、光の並木道を作っている。
「もうすぐクリスマスだね」
菅原が星南に寄り添うように、穏やかな声で応える。
「お兄ちゃん、今年もクリスマスプレゼントくれるかなあ」
「去年は、何をもらったの?」
「このバッグだよ。もらったけど、使うのが一年後になっちゃった」
星南が軽やかに笑う。星南は、彗よりもずっと強い。彗は夜にまぎれるように、ふっと息を吐いた。
彗のスマートフォンが震えた。博人からだ。彗は、今劇場に向かっていること、創の妹も一緒だということを伝え、待ち合わせ場所を指定した。博人にメッセージを送り終えた直後、クリティカからも連絡が来た。クリティカに創の舞台のことを話したら、一緒に行きたいと言った。日本語の舞台を観てみたいのだと。けれど本当は、創がどんな人物なのか、観察したいのだろう。魂胆はわかっている。彗は、『仕方ないな』と心の中で呟いて、クリティカに連絡をした。
「彗さんのお友達から?」
「そうだよ。今日は二人来るんだ」
「どんなひと?」
「一人は、考古学研究室の、博人。もう一人は、ぼくと同じ研究室のクリティカ」
「クリティカさんって、外国の人?」
「うん。ネパール人の留学生」
「彗さん、英語喋れるの?」
「ちょっとね。でも、大丈夫。クリティカの日本語は完璧だから」
車内の闇の中でも、星南が笑ったことがわかる。タクシーが劇場に近づいた。駐車場に車を止め、菅原と彗は外に出る。星南を降ろすと、タクシーは走り去った。劇場の入口へと向かう。車いす用のスロープを登ると、入り口のドアの前にクリティカと博人がいた。彗が手を振ると、二人は同時に手を挙げ、驚いてお互いをまじまじと見つめた。偶然、二人とも黒いダッフルコートを着ている。
「クリティカ。博人。とりあえず寒いから中!」
彗がドアを指さす。菅原が車いすを押して先導し、五人で劇場の中に入った。
「うわあ」
星南が歓声を上げる。劇場内には、劇団北極星のポスターや旗が随所にあしらわれていた。北欧の先住民を思わせる衣装に身を包んだ創が、ポスターの中心にいた。夜空を指している。彗が愛するひとの姿だ。
「お兄ちゃんだ!」
星南が嬉しそうに振り向く。彗はなるべく自然に見えるよう、にっこりと笑った。
「創の妹さん?」
博人が星南を見る。星南は、「はい!」と答えた。
「高校の時、創の同級生だった、前田博人です」
「その節は、兄がお世話になりました!」
星南が律儀に頭を下げた。
「私からも。クリティカ・シャルマっていいます。彗の大学院の同期です」
「よろしくお願いします! クリティカさんは、ネパールの人なんでしょう? 今度、ネパール語を教えてください!」
クリティカが、「もちろん」と頷くと、あたたかな笑いが生じ、五人は一気に打ち解けた。
「私は、看護師の菅原です。星南ちゃんの付き添いできました」
菅原が、親しみが持てる笑顔を皆に向ける。
「菅原さん。私、グッズ売り場に行ってみたい」
「よーし。お兄ちゃんのグッズ、買っちゃおうか!」
菅原が、星南を連れていく。彗と、博人と、クリティカの三人になった。
「学振の一次選考に受かった前田さんでしょ?」
クリティカが博人を見る。
「彗から聞いてます。学部一年の時、フランス語の授業で思いっきり寝てた彗を助けたひとだって」
「そう。その通り。俺がその前田博人です」
クリティカが、ダッフルコートを脱ぎながら、にやりと笑った。オレンジ色のニットと、オフホワイトのコーデュロイのパンツがよく似合っている。何かを企んでいなければいいのだが。
「博人さん!」
聞き覚えのない高い声がして、彗は声の方へ振り向いた。
「よかった! 間に合った!」
上等な、紫がかったグレーのコートを着た若い女性が、息を切らしながら頬を上気させていた。鎖骨ぐらいまである真っ直ぐな黒髪が、艶やかに揺れている。化粧は派手ではないが、品よくしっかりと施されている。
——「女の子」だ。
「萌香」
博人が「女の子」の名前を呼んだ。萌香は、ゆっくりとした仕草で、コートを脱いだ。冬物の、襟のついた黒いベルベットのワンピースに、くるぶしまでの、ヒールのある黒いブーツ。彗は、萌香を眺め、そして、凍り付いて息をすることすら忘れた。
萌香の首元に、あの日、来福飯店で彗が博人に返した、翡翠の玉のネックレスを見つけたのだ。
——どうして、このひとがこれを?
「はじめまして。井波萌香と申します。大学のオーケストラ部で、博人さんと同じチェロパートです。博人さんの一年後輩です」
萌香と、博人。二人の関係は、サークルの先輩後輩以上なのか。彗の部屋で林檎を切ってくれた時の博人を思い出す。あたたかな記憶が、彗の頭の中で歪んでいく。
「ワオ! キレイナヒトネ。モエカサン、ヒロトサンのカノジョ?」
誰かと思ったら、クリティカが大きな目をまん丸く見開き、素っ頓狂な声を出していた。
「ワタシ、ネパールカラキタ、リュウガクセイノ、クリティカ・シャルマデス。モエカサン、ヒロトサンのカノジョ?」
「あっ。違うんですよ。私、博人さんの彼女とかじゃなくて。ただ、ミュージカルって一度観てみたいなあ、なんて思って。博人さんに無理言って、混ぜてもらったんです」
「オォーー! ソウナノ。カノジョジャナイ。ワカッタ!」
彗は、吹き出しそうになって、必死で笑いをこらえた。隣の博人は、何が何だか分からないという顔をして戸惑っている。彼女じゃないなら、どうして萌香はあのネックレスを着けているのだろう。萌香の博人への気持ちは、一目瞭然だ。
「席番号は?」
博人が、財布から招待券を取り出した。あの日、来福飯店で創からもらったものだ。博人と彗が、連番。萌香とクリティカは、車いす席のすぐ近く。四人とも、A席だった。萌香の顔に、あからさまな落胆が浮かぶ。
「ぼく、星南ちゃんの傍にいくよ。もしよかったら、これ、交換しよう」
彗は、萌香にチケットを差し出した。クリティカの眉が左右非対称に歪む。
「いいんですか? やった! 博人さんの隣」
萌香が、博人を見上げた。博人は、彗を見つめた。声も出せず、目で彗に何かを訴えていた。彗は、博人の気持ちを受け取ることを、何も言わず拒んだ。
「彗さーん! 見て見て! お兄ちゃんが載ってるパンフレット、買っちゃった!」
菅原が押す車いすに乗って、星南が嬉しそうに近づいてくる。星南が萌香に気付き、会釈をした。萌香は、博人をまた見上げた。
「今日の主演……俺の友達の妹」
博人が低く呟くと、萌香は、「ああ」と笑って、星南を上から見下ろした。彗は、萌香の仕草に不快感を覚えた。それでも星南は、きらきらと笑ったままだった。
「星南ちゃん、ぼく、車いす席の近く」
「本当? よかった! 嬉しいな」
開演十分前のチャイムと共に、アナウンスが流れる。
「そろそろ行こうか」
菅原が星南に目くばせをする。頷く星南の後に続いて、彗も歩きだした。何かを言いたそうにしているクリティカも、続く。
「彗さん。彗さんはお兄ちゃんの彼女でしょ? 実は緊張してるとか、終わったら楽屋に来てとか、お兄ちゃんから何か言われてない?」
「彼女?」
後ろから、博人の声がした。彗の横を歩くクリティカが、尋問するような視線を投げかける。
「うーん。特に何にも言われてないなあ」
「そうなの? あー、楽しみだなあ。お兄ちゃん、ちゃんとできるかなあ」
今は、純粋な星南に寄り添いたい。今は。今だけは、嘘をついて。クッションがきいた柔らかな客席に体を埋めると、彗の右側に車いす席があった。目を輝かせる星南と、星南の傍に座る菅原の姿を確認した。開演のチャイムが鳴る。舞台が夜より暗い闇に包まれていく。
幕が上がった。
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