ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈13.乙女心〉
十三、乙女心
十二月十四日、日曜日。創が主演の「ポラリスの王国」が初演の日を迎えた。彗はまだ、「創の彼女」という、嘘の契約を続けている。昨日、星南からメッセージが届いた。創を介して、星南とは連絡先を交換していた。
『彗さん。私がちゃんとおしゃれできてるか、確かめに来て! できれば一緒に劇場に行こうよ。お願い!』
そうは言っても、彗こそ着飾った経験などなかった。中学高校の時はスラックスの制服を着ていたし、「モテそうな」服は、母親に禁じられていた。「いわゆる女子」的な格好などしたことがないから、おしゃれの基準が分からない。星南が送ってきた可愛らしいピンク色のウサギのスタンプが、『おねがい』と両手を合わせていた。折れた彗は、『ぼくでいいなら』と返信をした。
午後三時。開演時間まで、三時間。彗は、大学病院の五階へと向かった。廊下の突き当たりから二つ目の個室のドアをノックする。「ちょっと待って! 着替え中!」と軽やかな声がした。星南の体調は安定しているようだ。
「いいよー!」と声がしたので、ドアを開けた。背もたれが起こされたベッドが目に入る。星南は、真っ白なモヘアのニットワンピースに身を包んでいた。キャップ姿ではない。さらりとした髪が、肩の上で揺れた。切り揃えられた前髪の下で、明るい褐色の瞳が、彗を捉えている。
「星南ちゃん。すごく似合ってる」
星南は、「えへへ」とはにかむと、彗をベッドサイドに手招きした。彗は、ライトグレーのウールのコートを脱いでパイプ椅子にかけた。キャメルブラウンのタートルネックのニットの上に、オーバーサイズの紺色のジャケットとパンツといういでたちだ。今日は、白と黒以外の服を選んだ。彗なりに、「おしゃれ」をしたつもりだった。
「今日の彗さん、いつもにも増してイケメン」
星南がほうっとため息を吐く。彗は頭を振った。少し照れる。
「ねえ、彗さん。ちょっと意見を聞きたいんだけど」
「うん?」
「これとこれ、どっちがいいと思う?」
星南は、ベッドサイドに置いてあったものを持ち上げた。黒髪の、ゆるく巻かれたボブヘアのウイッグだった。星南を見た。肩まである今の茶色の髪も、ウイッグだ。
「なかなか決められなくてさ。せっかくウイッグ被るなら、茶色がいいかな、なんて思うけど、黒髪も迷うんだよね」
「両方試してみたの?」
「うん。茶色い方が色味は好きだけど、黒髪は巻いてあってかわいい」
「それは悩むね」
星南が楽しそうに「うーん」と迷う声が、彗の心を浄化していく。
「お兄ちゃんに花束を渡したいの。お兄ちゃん、どっちの髪形が好きかなあ」
星南の言葉の温度で確信した。星南はやはり、創を好いている。彗は、張り裂けそうな心を必死で隠して、微笑みながら星南を見つめた。星南は、茶色いウイッグを脱いだ。剥き出しの頭皮に、まばらに髪が生えている。後頭部についた大きな傷跡が露わになった。
「この姿、彗さんだからまあいいけど、お兄ちゃんには絶対見せられないな」
星南は、呟きながら黒髪のウイッグを被った。茶色よりもしっくりと馴染んでいる。
「ぼくは、黒髪を推すかな。星南ちゃんの瞳の色が綺麗に見える」
「ほんとー? 嬉しい! じゃあこっちにする!」
星南が笑うと、この世の大抵のことは大丈夫なのだと思える。そこまで思いを巡らせて、彗はやっと気づいた。星南の親は、いつ来るのだろう。
「星南ちゃん。今日は、これからご家族が来るよね? ぼくがいても大丈夫?」
星南の目が、白い壁の一点を見つめた。
「来ないよ」
星南は、柔らかそうなニットの袖に触れた。
「お母さんも、お父さんも、もう来ない」
「どういうこと?」
呟いて、彗は息を止めた。触れない方がよかったか。
「お母さんとお父さんは、私にお金をくれる。けどそれだけ。もう、ここには来ないよ。だから私には、お兄ちゃんしかいないの」
「ごめん。話したくないことだったよね」
彗は、頭を下げた。行き場のない手が、ベッドの柵に縋る。ひんやりと冷たかった。顔を上げると、星南の目に光が戻ってゆく。
「大丈夫。気にしないで。もう慣れたから。それに、今は彗さんもいる。お兄ちゃんがやっと作った彼女だもん。嬉しいよ」
この子は自分に嘘をついている。本当の気持ちを告げて、創との関係が壊れることを恐れている。彗が言葉を探していると、病室の扉が開いた。
「星南ちゃん、そろそろ時間だね」
博人よりも背の高い男性医師が、病室に入ってきた。白衣にはきちんとアイロンがかけられており、胸元に、“KAWANO.T”と紺色の刺繍が入っている。医師は、白髪交じりの清潔な髪を少し撫でて、彗を見た。
「先生! 前に言ってた、お兄ちゃんの彼女でーす!」
「そうか。よかったね、星南ちゃん」
医師の目尻が、柔らかく下がる。医師は、「星南さんの担当医の、河野です」と名乗った。彗は、「一条です」と頭を下げた。
「一条さん。もうすぐ神崎看護師がここに来ます。そうしたら、一階のロビーまでついてきて下さい。水槽の辺りで、今日星南さんに付き添う、菅原看護師が待っています。菅原さんにはちょっとした買い物を頼んでいるので、病棟の外での合流となります」
「わかりました」と彗は頷いた。よかった。星南はきちんと医師に外出許可を取り、看護師が付き添うのだ。彗は安堵した。
「先生、これどう? 彗さんと一緒に選んだ髪型!」
「うん。良く似合ってるよ」
星南は、白い歯を覗かせ、にっと笑った。
「星南ちゃんはずっと、お姉ちゃんが欲しいって言ってたね」
「うん。まさかこんなイケメン女子がお姉ちゃん候補になるとはね!」
星南が楽しそうに笑う。彗の気持ちも、持ち上がる。
「先生。今日、劇場でぼくの友人たちが待っています。星南さんの体調に障りがない範囲で、星南さんを紹介したいのですが」
「うん。菅原看護師の判断で問題ないようであれば、いいですよ」
「やったー! 彗さんの友達に会えるの?」
「星南ちゃんさえよければ」
「いいに決まってるよ! ねえ、先生」
河野医師は静かに頷いた。その目が、微かに悲しそうな光を帯びた。彗は、気付かないふりをした。
「失礼します」
車いすを押した、茶色いショートヘアの小柄な看護師が、部屋の入口に立っていた。
「星南ちゃん、行こうか」
「はあい。神崎さん、おそれいります」
星南がおどけて、病室はあたたかな笑いに包まれた。
「星南ちゃん、楽しんできて。帰ってきたら、先生にどうだったか聞かせてね」
「わかった。楽しみにしててよね、先生」
神崎看護師の介助で、星南が白いウールのコートを羽織り、車いすに移動する。彗は、介護経験がないことを悔いた。星南の白い首筋に、ウエーブがかかったボブの黒髪が映える。背中は、華奢だ。エレベーターに乗り、一階へと降りる。ロビーの脇、大時計の下の淡水魚の水槽の前に、見覚えのある人物が待っていた。初めて星南の病室を訪れた時、ハイテンションな星南を案じて、自制するよう声を掛けた看護師だ。改めて見ると、年齢は四十代半ばといったところか。以前病室で見たとおりの、茶色いおだんご頭の菅原は、ベージュのダウンジャケットを着て、大きなリュックを背負っている。
「菅原さん。星南ちゃん来ました」
神崎が、菅原と呼ばれた看護師に星南を託す。菅原が彗に気付き、「あのときの!」と、人懐こい笑顔を見せた。信頼のおけるひとだと、彗は直感した。彗は、あらためて菅原に自己紹介をした。
「今日、星南さんに同行する、一条です」
「菅原です。よろしくね。早速だけど一条さん。これ持ってくれる?」
彗は、菅原から紙袋を受け取った。創への花束だった。
「星南ちゃん、マフラー巻ける?」
「うん。自分でできるよ」
星南は、膝にかけていた赤いチェックのマフラーを、ゆっくりと首に巻いた。
赤いチェック。
——ぼくが大好きだった赤いチェックのスカート。ぼろぼろにされて、捨てられてしまった、お気に入りの。
「じゃ。行こうか」
はっとして現実に引き戻された。星南が嬉しそうに頷き、菅原が車いすを押す。彗は、車輪に靴を巻き込まないよう注意しながら、後ろからついていく。
「星南ちゃん、可愛いバッグだね」
「さすが彗さん! このピンク色のね、レザーのリボンがお気に入りなの。お兄ちゃんがくれたんだ」
十代の女の子向けのブランドの、小さなバッグだ。好きなひとからもらったバッグで外出できることを、星南はずっと楽しみにしてきたのだろう。
「雪!」
病院の外に出ると、音もなく雪が降っていた。星南は、掌で雪のひとひらを受けた。
「冷たい!」
嬉しそうに笑う星南の横で、彗は、折り畳み傘を出すか迷った。鞄に手を遣る。
「一条さん。ありがとう。傘なら私も持ってるから、必要な時に出すね」
菅原が、彗に目で合図をした。菅原の背中に目が行く。
「菅原さん、大きなリュックですね」
「これ? そう。星南ちゃんセット。薬とか、パルスオキシメーターとか、血圧計や体温計なんかが入ってる」
「完璧ですね」
「姫をお守りするためだからね」
菅原は、ピースサインを作った。
玄関のスロープを下ると、介護タクシーが待っていた。タクシーの後部の扉が開き、星南が車いすごと乗り込む。彗は、菅原に続いて、星南の向かいの座席に腰を下ろした。
「お願いします」
星南の安全を確認し、菅原が運転手に声を掛ける。車が動き始めた。星南は車窓を眺めている。
「星南ちゃん。リクエストどおり、ピンクと白のブーケ、買ってきたよ」
菅原が、彗の膝に乗った紙袋を指す。
「本当? 嬉しい! お兄ちゃん喜んでくれるかな?」
「喜ばないわけがないよ」
彗は目元を綻ばせ、星南に見えるように、紙袋を広げた。
「わあ! きれーい! すごい。なんか今日は、ほんとに全部、夢みたい」
「星南ちゃん、涙は終演後にとっとかないと」
菅原が星南を笑わせた。菅原は、心までも看護するのだ。
「今日は外食もするんだよねー。楽しみだなあ」
星南の笑顔を見て、彗は改めて決意した。たとえかりそめでも、この少女の心の安定を保つために、「嘘の彼女」であり続けることを。
幕が開くまで、あと二時間半を切った。
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