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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈12.家族が欲しい〉

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十二、家族が欲しい

彗の部屋は青い。カーテンは紺色で、その奥のレースのカーテンは、水色だ。壁は白いが、ダイニングテーブルには空色のテーブルクロスを掛けてあるし、ベッドカバーも掛け布団も枕カバーもペールブルーで揃えている。

『発掘現場を片付けに行こうと思って、農学部に向かっていたんだ。そうしたら、道の脇の原生林から泣き声が聞こえたから』

博人の肩につかまり、ゆるりゆるりと歩いていた時にも、彗の涙は止まらなかった。周囲の人間からの好奇の視線を浴びながら、彗は博人に、彗の家まで連れ帰られた。玄関で座り込んで泣く彗を博人が抱き上げ、白衣を脱がせて、ベッドに寝かせた。博人は、台所でキッチンタオルを見つけると、お湯で濡らして、彗の顔についた泥を、涙と一緒に拭った。

天井の一点を見つめながら、彗はまだ泣いている。創が好きだ。胸が張り裂けそうなくらいに苦しくても、それでも創が好きだ。創の歌が聴きたい。創の笑顔が見たい。できれば、ずっと隣で見ていたい。右腕で涙を拭う。ずっと食いしばったままの奥歯がぎりぎりと鳴る。

ベッドの傍には、博人が座っている。博人は、訳を訊かない。

「彗。何か食べたい?」

こんな時に何も食べられるはずがない、と思っていたら、お腹が鳴った。博人は、優しい声で笑うと、「何か適当に探してみるけど、いい?」と聞いた。彗は頷いて、冷蔵庫を指す。博人が立ち上がり、ダイニングの向こうへ消えた。しばらく経って、しゃりしゃりと心地の良い音が聞こえてきた。

「彗。ちょっと起きられる?」

彗がやっとの思いで体を起こすと、博人が皿を差し出した。ウサギをかたどって切られた、蜜入りの林檎が乗っている。

「なんでウサギなの?」

彗がふっと笑うと、博人も笑った。

「よかった。やっと笑った」
「博人……ありがとう。それから、ずっと返信できなくてごめん。ぼく——」
「彗。何も言わなくていいから。美味しいうちに食べてみて」

彗は頷くと、博人からフォークと皿を受けとり、林檎をひと切れ噛んだ。しゃりり、と音がして、彗の口の中で、林檎の蜜の味が広がる。

「美味しい……」
「そうだろ? これでも頑張ってウサギにしたんだから」
「だから、なんでウサギなの?」

創が、星南を想っていると彗に打ち明けた時から、彗はずっと緊張していた。この世で好きになれたたった一人のひとが、手の届かない場所へ行ってしまった。経験のない感情に戸惑い、知らないうちに感情を溜め込んでいた。

「博人は優しいね。ゾウみたいに」
「彗。知ってると思うけど、アフリカゾウは温厚に見えて実はとても凶暴なんだって」
「そうなの?」
「知らないの? 理学部生物学科なのに?」

博人が大袈裟に驚いて見せたので、彗はまた笑った。

「彗。俺とのことは、無理に考えなくていい。焦らなくていい。どこにも行けない関係だっていい。だから今は、ゆっくり休んでほしい」

博人は刹那、逡巡するように目を左右に動かし、彗を見つめた。

「だけどこれだけは教えて。彗をこんなに泣かせたのは、もしかして創なのか?」

彗は、何も言えなかった。沈黙が、答えになってしまった。

「そうか。よくわかったよ」
「博人。お願いだから、創にはこのことは……」
「わかってる。彗が心配するようなことはしない」

かつて彗を戸惑わせた博人は、彗がよく知る、優しくてどっしりとした博人に戻っていた。博人が立ち上がり、彗の顔を覗き込む。

「顔色が戻ってきた。大丈夫そうだ」

「そろそろ帰るよ」という博人の背中に、彗は「待って」と声を掛けた。博人が振り向いた。あたたかな空気を内に秘めたような、静かな瞳をしている。

「博人。博人が考える幸せの形って、なに」

博人は、「なに、急に?」と笑った。顔に、くしゃっと皺が寄る。博人は腕を組んでしばらく考えていた。博人の幸せは、大学で研究を続けることだろうか。前人未踏の発見をすることだろうか。考え事が終わったのか、博人は腕を解いた。

「俺は、幸せな家庭を築ければ、他には何もいらないよ」
「幸せな家庭……」
「うん。俺は、俺を育ててくれた家族みたいな関係を作りたいんだ。父親がいて、母親がいて、子供がいるような、普通の幸せをね」
「普通の幸せ……」

晴れかけていた彗の心が、一瞬にして曇った。

「彗。体には気を付けて」

博人は手を振ると、玄関の扉の外へ歩いていった。彗は、青色の部屋にひとり残された。博人の幸せを叶えるのは、少なくともSRYを持つ自分ではないのだとわかった。枯れたはずの涙が、またあふれ出す。

「ぼくは、博人が言う『普通の幸せ』を叶えることができない」

博人は、彗を好いているだろうか。結婚したいという未来も、少しは見えているだろうか。博人が「普通の幸せ」を欲しているのだとしたら、博人の相手は少なくとも彗ではない。彗は、子供を産むことができないのだから。

「赤ちゃん、産みたかったなあ」

彗は、いつしか創の遺伝子を残したいと考えるようになっていた。頭がおかしいと言われてもいい。創の子なら、何が起こっても絶対に守り育てると確信していた。思考のループが一周終わる度に、彗は、子供を宿すことができない自分の体に愕然とする。

彗は、決心してベッドから抜け出ると、ダイニングテーブルに座り、魔法の書を開いた。今日、十一月二十九日は、史上最悪の日だった。創へ、博人へ、恨みつらみを書こうと思った。青色のボールペンを構える。どんな罵詈雑言を書いてやろうかと思っていたはずなのに、ペン先はあまりにも臆病だった。創に会ってからの日々を思い返す。

恋をし、期待をし、失恋し、自分が叶えることができない幸せを目の当たりにし、痛くてたまらない。それでも彗は、ひとと関わることをやめようとは思わなかった。だれもいない暗くて冷たい道を歩んでいたかつての一条彗は、もういない。

「どんなにひどい目に遭っても、ぼくが最高に『規格外』でも、それでもぼくは、創に恋をする人生を選ぶ」

ノートのページを捲り、カレンダーを見る。創が主演の舞台「ポラリスの王国」まで、あと二週間だ。

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