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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈7.ブーゲンビリア〉

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七、ブーゲンビリア

創が、いた。クリティカが言った通り、大学病院の温室に。彗は、両手に抱えた黒いプレパラートボックスを床に落としそうになって慌てた。創は、温室のベンチに座り、虚空を見つめていた。初めて会った時、創から放たれていた底なしの光が、消えている。

創の髪は相変わらず白に近い金髪で、グレーのジャケットの中に着た黒いフード付きパーカーとの対比が鮮やかだ。彗は腕時計を見た。十一月二十一日金曜日、午後二時三十分。稽古は終わったのか。バイトは。創の視線を辿ると、白いブーゲンビリアが咲いていた。

声を掛けることが、こんなに怖いなんて。けれど彗は、頭を振り、自分を奮い立たせた。創の横顔の意味を知りたい。なぜ創が大学病院の温室にいるのか。なぜあんなにも悲しそうなのか。創のことなら、何であれ、知りたい。

そっと、足音を消して創に近づいた。

「創?」

創は、とてもゆっくりと、空中にばらばらに散った言葉を一つずつ拾うように、「彗」と呟いた。

「座っていい?」

創は、「どうぞ」と、頷いた。

「彗、白衣なんか着て、どうして病院にいるの?」

——創こそ。

「実験で、医学部に顕微鏡を借りに来たんだよ。共焦点きょうしょうてん顕微鏡っていう、性能がいい機械。だからこれを持ってる」

彗は、膝の上に置いた黒いプレパラートボックスを開いた。細長い小さなガラス板が、仕切りを挟んで三十枚ほど整列している。

「それは?」
「プレパラート。細胞を固定してある。顕微鏡で見ると、細胞が緑色と赤色に光るんだよ」

創は、「へえ」と言って、不思議そうにプレパラートを覗き込んだ。その声が柔らかくて、彗はまた苦しくなる。声が、深い色をした瞳が、体温と混じってそっと香るシャンプーの香りが、彗を一歩ずつ追い詰める。気持ちを伝えたいと思ってしまう。創はどうしてここにいるんだろう。創に何があったのだろう。ざわっと心が波立ち、不安でたまらなくなる。創が、ふうっと息を吐いた。体の中に溜まった絶望を、透明な気体に換えて吐き出したようだった。

「創は、どうしてここに?」

創が、彗と目を合わせた。下まぶたがくすんでいる。すごく疲れているようだ。

「そうだね。ちょっと、病棟に用事があって」
「病棟? お見舞いか何か?」
「うん」

創は口を閉じた。それ以上は話したくないのだろうか。入院しているのは誰だろう。

「彗。今、時間ある?」
「一時間くらいなら」
「じゃあ、アイスでも食べない? もう十一月だけど」
「へっ? う、うん。ぼく、冬に食べるアイスすきだよ」

創は目尻に笑い皺をつくって、立ち上がった。温室を出て、病院の廊下を進むと、アイスクリーム店がある。十種類以上のアイスクリームの中から、悩んでどうにか二種類を選び、コーンに盛り付けてもらう。落とさないように気をつけながらコーンを受け取った。青とオレンジの冷たい球体が二つ、縦に整列している。

創と二人、温室に戻った。一気に室温が上がる。北海道は間もなく本格的な冬を迎える。この時期、屋外では絶対に体感できない温度だ。南国の植物たちがひしめいている。肉厚でつやつやとした深緑色の葉を茂らせたモンステラ。天井まで伸びるパキラ。バナナの木には、赤紫色の果実が実っている。

「この部屋、あたたかいから、早く食べないとね」

創が、スプーンで白いラムレーズンのアイスクリームを掬う。彗は頷いて、青色のアイスクリームにスプーンを刺し入れた。暫く何も言わずに二人で黙々とアイスクリームを食べた。なぜだろう。創と過ごす時間は、沈黙でさえも愛おしい。

「彗、この前はごめんね。途中で帰っちゃって」
「急用だったんでしょう? 仕方ないよ」
「うん。病院から電話で呼び出されたんだ」

お見舞いに行ったというひとの病状が悪化したのだろうか。彗は踏み込めない。なんでもないふりをして青色のアイスを口に含むと、舌の上でとろりと溶けて、ソーダの香りが鼻を抜ける。

「彗、最近見ないけど、発掘のボランティアはやめたの?」
「そう、だね。実はね。今、博人と連絡とってなくて」
「どうして?」

彗は言葉に詰まって、温室の天井を見上げた。格子にはまった分厚いガラスの向こうには、十一月の終わりの雪雲が浮かんでいる。

「ちょっとね。拗れちゃった。博人はメッセージをくれたけど、怖くてまだ読んでない」
「彗、大丈夫?」
「うん。なんでもない」

創が、顔を近づけて、彗の瞳を覗き込んだ。瞳の奥には、創への想いが隠れている。彗は、気持ちを悟られるのが怖くて、創から目を逸らした。

「彗はよく、『なんでもない』って言うけど、それって『大丈夫じゃない』ってことでしょ」

創が、博人と同じようなことを言った。彗は苦しくなって、目を瞑りたい衝動を堪えた。創はまた、白いブーゲンビリアを愛おしそうに眺めた。

「十七歳の妹がね、入院してるんだ。」

創の横顔が、白く透き通っている。創と彗は同い年だ。二十五歳の創と妹とは、八歳差ということになる。

「年が離れた妹さんなんだね」

何の気なしに彗が言うと、創は「うん」と続けた。

「母親の再婚相手と、母親との子供なんだよ」
「そっか……。話したくないことだったら、ごめん。ぼくの配慮が足りなかったら教えて」
「どうして彗が謝るの? 何にも問題ないのに」

今日初めて創が笑った。彗は、創の笑顔を渇望していた。不安だった心に、陽だまりができていく。この疲れた笑顔ですら、目に焼き付けたい。

「彗は、お母さんと仲いい?」

彗は、少し驚いて、「ええと」と、二度瞬きをした。

「母親とは、今はほとんど話さないし、会わないかな。ぼく、出身が秋田なんだよ。実家に帰るのは、年末年始と、法事の時くらい。だけどぼくはまだ学生だから、学費と生活費を親に負担させてる。それが心苦しくてたまらない」
「彗は、真面目なんだね」
「そんなことないよ。経済的に自立できれば、親とも完全に縁を切れる。だけど今は……。だからどうしても学振に受かりたかった。なのに」
「ガクシンってやつに受かれば、お金がもらえるってこと?」
「そう。生活費と研究費をもらえる。ぼくは今年も一次選考で落ちて、博人は受かったんだけどね。だからぼくは、実は博人にものすごく嫉妬してるのかもしれない。だから博人と拗れたのかも。とにかく、母親とはあんまり仲が良くないんだ」

創の金色の髪が、午後の光の中で輝いている。創の唇が開く。

「僕のお母さんは、僕のことが気に入らないらしいんだ。成長するにつれて、僕が別れたお父さんに似てきたのが、苦しかったみたいで。僕は、家族というより、居候みたいな立ち位置」

創の瞳が、とても慎重そうで深いのは、創が背負ってきた境遇のせいなのかもしれない。彗は、驚くほど抵抗もなく、お互いの過去を語りたい気持ちになった。

「ぼくの母親はさ。ぼくが十二歳の時からずっと、『男のひとに選ばれてはいけません』って言い続けてきた。ぼくは、特に反抗もしないで、その言葉をそのまま受け取った。だから今でも、ぼくは一枚もスカートを持っていない。中学高校の制服ですら、スラックスだったよ」

創の瞳に、疑問符が浮かんだ。

「『男のひとに選ばれてはいけません』って、どういうこと?」
「創は、ぼくを女性だと思うでしょう?」

創は、質問の意図が分からないという顔をして、戸惑いながらも頷いた。彗は、息を吐いて、ゆっくりと吸った。

「ぼくは、大多数の女性とは、体のつくりが違うんだ。本当は男性の体になるはずの遺伝子を持っているんだけど、体が男性ホルモンを受け取れない状態だから、男性になるスイッチが働かなくて」

創は、視線をくるくると動かし、考えたり頷いたりしながら彗の言葉を待っている。創はどう思うだろう。足が強張る。

「ぼくは、赤ちゃんを作れない体なんだ。だから、ぼくが子供を産むことはない。母親はきっと、そんなぼくが恥ずかしかったんだ。もしくは、ぼくが恋愛をしても成就することがないと思って、あらかじめぼくの人生から障害物を取り除こうとしたのかもしれない。ぼくは、そんな母親が嫌いなんだよ。だから、母親とはもう仲良くできない」

気付かぬうちに、彗の体は小刻みに震えていた。創にだけは明かすまいと、あんなに注意深く隠し続けていた秘密を、勢いに任せてぶちまけてしまった。創が、瞬きをして、目を大きく見開いた。創が息を吸う。何と言われるのだろう。彗はぎゅっと目を瞑った。

「それって、死ぬ病気?」

彗は、目を開けた後、一瞬間を置いて、「死にはしないかな」と答えた。

「なんだ。よかった! 心配して損した! 安心したよ」

創は上を向いて、大きな声を上げて笑った。彗は、何が起きているのかわからず、面食らいながら、笑い続ける創を見つめた。

「生きていられればいい。彗は彗でしょ」

創が、笑ったままの瞳で彗を捉えた。創の二つの瞳に、驚いた表情の彗が映っている。彗の心の水底が、大きくむせかえった。

——このひとかもしれない。このひとしかいないのかもしれない。ぼくを理解し、互いに支え合える、一生にただ一人のかけがえのないひとは。

彗は逡巡した。言ってしまおうか。創とはじめて会った時から抱いている気持ちを。クリティカも、阿藤も、彗を差別しなかった。もし断られても、今なら納得できる。彗は覚悟を決めて、口を開いた。

「創。ぼく——」
星南せなっていうんだ。僕の妹。僕と同じお母さんから生まれた妹」
「妹……?」
「そう。今まで誰にも言ったことがなかったけど、彗になら言える。彗はきっと、僕を軽蔑しないだろうから」

創は、また白いブーゲンビリアを見つめた。

「僕ね、ほんとうは星南のことが好きなんだ」

急に頭を殴られたような衝撃が襲った。彗の全身の血が凍り付く。

創がゆっくりと彗に視線を戻す。

「僕のこと、気持ち悪いって思う?」

同じ母親から生まれた妹。創の思慮深そうな黒い瞳が、こんな時にまで無性に愛おしい。

「思わないよ。気持ち悪いなんて」

彗は、創を見つめ返した。

「ありがとう。根拠はないけど、彗にならわかってもらえるって思ってた」

——ぼくは、どうすればいい?

「星南の脳には、腫瘍がある。もう外出もあと何回できるか分からない。だからなんとしてでも、来月の舞台を成功させたい。星南に、舞台を観に来てほしいから」

創の頬を、澄んだ涙が伝う。創は、彗からは遥かに遠くの聖域にいた。彗は、その聖域の扉を探し当てることすらできない。創が遠い。初めて好きになったひとには、彗に恋心が芽生えるよりもずっと前に、好きなひとがいた。

彗は下唇を噛みしめた。

創の瞳から、涙が溢れ、頬を伝う。きれいな涙だ。彗は、創の頬に手を伸ばし、つめたい指先で涙を拭った。

「泣かないで」

創が驚いたように彗を見る。

「ごめん」

あの日、博人にされたように、ほとんど自動的に、彗は創に謝った。

「彗は優しいね。ありがとう」

創は、彗を感謝の気持ちで包んだ。彗は、創にとっては、恋愛の候補にすらならない、聖域の手前にいる存在なのだ。

「彗。またここで会おうよ。一緒にアイス食べよう」

創が無邪気に笑う。彗は、どうあがいても抗うことすらできないほど、創を好いている。

「わかった。また星南さんの話を聞かせて」

無理に笑ったことに、創は気が付くだろうか。アイスクリームが溶け落ち、彗の白衣には青色とオレンジ色の染みが広がっていく。彗は白衣を脱ぎ、染みが見えないように白衣を丸めた。

創と別れて研究室に帰ると、彗はものすごい形相で、溜めていた論文のPDFファイルを開き、精読を始めた。はっと研究室を見渡した時には、夜が更け、他に誰もいなかった。

「創には、ずっと前から好きなひとがいた。そのひとは、ぼくじゃなかった」

今夜をひとりで越えられる気がしない。誰もいない研究室で、彗は、縋るようにトークルームを開いた。

>>第八話


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