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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈8.深夜の産声〉

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八、深夜の産声

曇り空の夜に、星は見えない。けれど学生部屋の窓からは、向かいの研究棟の窓明かりが見える。どの研究棟も不夜城だ。彗は、学生部屋に持ち込んだクリーム色のブランケットに身を包み、型崩れしたソファに寝転んでいる。深夜零時を回った。ドアが開く音が響く。

「彗。セルロティ、作ってきた。実験は、いまから三時間待ち」

学生部屋に、クリティカが現れた。今日の実験は待ち時間が長く、実験の都合上、深夜からスタートする必要があるのだと言っていた。

「クリティカ……」

彗は、涙声で応じた。腕を組んだクリティカは、形のいい眉を寄せ、口元をふわりと持ち上げた。

「彗。紅茶淹れて」
「はい……」

彗は、ブランケットから抜け出ると、電気ケトルに水を満たし、お湯を沸かし始めた。

「どうしたの。深夜にセルロティが食べたいだなんて。いきなり連絡をくれたから心配した」
「クリティカ。ぼくのわがままをきいてくれてありがとう。今、セルロティを食べないと、ぼくは気が狂ってしまいそうなんだ」

体に力が入らない。クリティカの故郷、ネパール産の茶葉は、テーブルの上に常備してある。試薬を計り取るように、計量スプーンで正確に二杯、茶葉を量り取る。透明なティーポットに茶葉を入れ、沸いたばかりのお湯を注ぐ。すぐに紅茶の高貴な香りが立った。ゆらめきながら広がっていく茶葉を見つめる。彗はテーブルに両腕を折り重ねて置き、顔を乗せた。

クリティカが、風呂敷包みの結び目を解く。広げると、赤地に白牡丹が咲いていた。

「それ、ぼくが去年あげたやつ」
「日本の風呂敷は使いやすい。大きくも小さくもない。赤い色もきれいで好き。実家に帰った時、家族にも配った。みんな、彗がくれた風呂敷を喜んで使ってる」

風呂敷包みの中から、タッパーが現れる。蓋を開けると、大好きなセルロティがぎっしりと詰まっていた。

「たくさん作ったから、余った分は持って帰るといい」
「クリティカ。本当にありがとう」

彗は、セルロティに手を伸ばして取り、両手で持って齧った。激しく主張するわけでもない家庭的な甘さは、いつ食べても心がほぐれる。

「もちもちしていて、最高」
「セルロティは米粉を使うからね」

クリティカも一つ取り、頬張ると、頷いた。

「我ながら、まあまあの出来かな」

今日のクリティカは、長い黒髪を二つに分け、ゆるく三つ編みをしている。彗は髪を伸ばしたことがない。無意識に、額の真ん中で分けたショートヘアを触った。紅茶が出来上がったので、マグカップに注ぐ。目を伏せて紅茶を飲むクリティカの、長い睫毛をしげしげと見つめた。

「観察記録をつけてるんだ」
「何の?」
「創の」
「げっ」

クリティカが、紅茶を吹きそうになる。あからさまに引いた顔をされた。クリティカは全ての感情を顔に出す。隠していることが何もないので、会話をしていて彗はとても安心する。

「なにそれ。怖いんだけど」
「そうかな。創のデータを取り尽くして、研究したいだけ」
「データ? それが怖いんだよ。研究と恋愛は別でしょう?」
「うーん。ぼくには、こういう行動しかできないから」

クリティカが呆れた顔をして目をぐるりと回す。

「今日も持ってきてるんだ。観察記録」

彗は立ち上がると、自分のデスクの引き出しを開け、魔法の書を引っ張り出した。ソファまで戻り、テーブルの上に置く。

「うわー。装丁までヤバそう」
「素敵なノートだと思うんだけどなあ」

彗は、ノートを捲り始めた。学振に落ちた日、創と出会った。一緒に発掘調査をした。来福飯店に行ってご飯を食べた。ミュージカルの招待券をもらった。暫く連絡を取らなかった。病院の温室で再会した。これからも温室で会う約束をした。それから、星南について。「星南」「読み:せな」とだけ書いてある。紙を削るように、ペンの跡が刻まれていた。

「創はね。ぼくがアンドロゲン不応症だって伝えたら、『生きていればいい。彗は彗でしょ』って、言ってくれたんだ。創だけかもしれないって思った。ぼくをありのままの状態で受け入れてくれる恋人が、もしも存在するとすれば」

けれど、創は。

「本当に、本当に非道徳的なことを言うよ。星南さんはずるいよ。生まれた時から創と一緒にいたんだから。出会った順番が違っていたら、もしかしてぼくだって」

彗は、俯いた。膝にかけたブランケットに、涙の染みが出来ていく。まだ会ったこともないのに、星南という名の妹を羨ましいと思った自分が、情けない。星南は、病気だというのに。ひとりでいたら、どこまでも星南に嫉妬し、落ち込んでしまうだけだろう。

「彗。やっと人間らしくなってきたね」

クリティカが、悪戯っぽく笑う。

「どういうこと?」
「創さんに出会う前の彗は、機械みたいだったよ。毎日決められた時間に、正確に実験をして、論文も完璧に読み込んで、プレゼンもそつなくこなして。彗のアイデンティティは、完全に研究そのものだったから。彗から研究を取ったら、何も残らないと思ってた」

クリティカは、湯気の立つ紅茶を一口すすると、香りを吟味するように目を閉じた。

「創さんと出会う前の彗は、研究にすべてを捧げていた。すごいけど、危険な気がしてた。だから、彗に好きなひとが出来て、私は嬉しい。たとえ思いが叶わなくても、背中を押してよかったって思う」

彗は、あたたかいマグカップを両手で包んだ。クリティカの言葉が、心の中にじんわりと広がっていく。

「彗はずっと、お母さんとへその緒でつながっていたみたいだった。お母さんが彗を離さなかったから。彗はへその緒をお母さんに引っ張られて、遠くに行かないように見張られてた。飼い犬みたいに。でも今は違う」

クリティカが、テーブルの向こうから手を差し出す。彗の手に重ねる。

「今日は彗の第二の誕生日だね。おめでとう、彗。これからは、いいことも悪いこともたくさんある。けれどそれらは、全部彗が選び取っていけること。自分で決めて、生きていいんだよ」

『あなたの人生よ。あなたが選べばいいわ』

阿藤の言葉が蘇った。そうか。そういうことだったのか。彗はクリティカを見つめた。視界が滲む。

「彗。何にも言わなくていい。セルロティ、食べて」

彗は頷くと、セルロティを頬張った。体の中が、クリティカの優しさで満ちていく。学振に落ちてから、色々なことがあった。ずっと、ひととの深い関わりを避けて来た彗にとっては、経験のないことばかりが起こった。

「クリティカ」
「なに」
「ひとと関わることって、とても苦しいけど、悪くないかも」

クリティカが、笑った。普段はまず、こんなに大きな声で笑うことはない。クリティカの笑い声は、彗を骨ごと揺さぶった。笑い声が、彗の心の部屋のドアを叩く。やわらかなままの、まっさらな彗が、おそるおそる外界に、初めの一歩を踏みだした。彗は、体に繋がれていた臍帯を切った。生まれたばかりの皮膚には、これからたくさんの傷が刻まれるだろう。傷はやがて、彗を強くするのだろう。

「泣いていいんだよ、彗」

クリティカの声は、紅茶のように温かい。喉の奥が震える。彗は産声を上げた。

創を惹きつける星南とは、どういうひとなのだろう。怖い。けれど、知りたい。創は、連絡先を教えてくれた。次は一週間後、創に会える。

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