ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈29.負け戦〉
二十九、負け戦
久しぶりに見る母親の姿だった。真奈美を目の前にして、ずぶ濡れの彗の体は震え始めた。
「母さん、どうして?」
「何度連絡をしてもあなたが応答しないからでしょう」
メッセージアプリの、家族のグループは、表示しない設定にしていた。真奈美は、どろりとした目で彗を捉えた。この視線が苦手だ。
「彗。こんなに濡れて。傘もささずに何をやっていたの?」
昔からそうだ。真奈美は、彗がどれだけ傷ついていても、今日みたいにずぶ濡れでも、責めるばかりで、まず手を差しのべることはない。
「博人が、突然結婚するって言ったから……」
はっとした。言ってしまった。
「博人くんが? あなたの唯一のお友達の?」
「なんでもない」
「なんでもない訳ないでしょう。お相手はどんな女性なの?」
真奈美が、身を乗り出す。
「サークルの後輩で、北都大の医学部生だって」
真奈美が、口元を歪めた。
「彗。可哀想に。あなたはその方には敵わないわよ。博人君が自分よりもずっと優秀な女性と結婚するって聞いて、ショックだったんでしょう?」
そうじゃない。全然違う。この人は、いつも事実を都合のいいようにねじ曲げる。けれど彗は動けない。少女の頃にかけられた呪いは、まだ解けていない。
「とりあえず部屋に入りましょう? そんな成りで立ってたって仕方ないわ」
「嫌だ」
部屋には創がいる。
「どうして?」
「だから、なんでもないよ」
「そんなわけないでしょ」
「いいから。帰ってほしい」
「私とお父さんのお金で借りている部屋でしょう。何を言っているの」
この人はこういう怒り方をする。声を荒げることなく、死んだような目をして、蛇のように体をくねらせて、心の隙間に入り込んでくる。
「もう観念しなさい」
真奈美は、持っていたスペアキーを彗の目の前にかざし、オートロックの扉を開けた。
「ちょっと、ねえ、待ってよ」
真奈美は無言で三階を目指す。彗の部屋の前で立ち止まった真奈美は、まるでこの部屋の住人であるかのように鍵を開けた。彗は、真奈美を押しのけるようにして部屋に入った。真奈美の視線が、玄関に置かれた男物のスニーカーに捕捉されて固まる。
「彗? 誰かいるの?」
振り返った真奈美は、修羅の顔をしていた。何と弁解しようと、もう遅い。
「誰かいるのね?」
「母さん。説明するから」
「誰なの?」
真奈美は、靴を脱いで大股で部屋に上がり込んだ。短い廊下の先にある扉を開ける。創が、ベッドの中で寝息を立てていた。平和そのものを表すような、天使の顔をして。
「母さん。お願いだから静かにして。とても疲れているから、ずっと眠っているんだ」
真奈美は、辺りを見回し、テーブルの上にあった青いマグカップを掴んだ。創が使っているカップだ。真奈美は、キッチンへと歩き、カップに水を満たした。そのままベッドに近づくと、真奈美は勢いよく、創の顔へ水をぶちまけた。
「やめて!」
彗が叫ぶと、創が目を覚ました。状況を理解できないような驚いた顔をしている。真奈美は、創を見下ろし、マグカップを思い切り床に叩きつけた。カップが音を立てて割れ、砕けて破片が飛び散る。
「彗。説明してみなさい」
真奈美は、カップの欠片が散乱した床に正座した。
「あなたは、この金髪の男と寝たの?」
「は?」
「同じ家に暮らすってことは、そういうことでしょう」
彗は、呆れて目を回した。体に力が入らない。真奈美は、クリティカが言うところの「低次元」にいる。
「母さん。ぼくたちは母さんが思っているような関係じゃない」
「言い訳は聞いていない」
ずぶ濡れになった創が、ゆっくりとベッドから起き上がる。
「もしかして、彗のお母さん?」
「あなたは?」
「長谷川創です。彗さんにはお世話になって——」
「あなたには、名前以外何も聞いていないわ」
真奈美は、彗を睨んで、手を床に叩きつけて彗を正座させた。床を流れた水が、靴下に冷たく染み込む。
「あなたは、私たちが働いて得たお金で借りた家に、この男を連れ込んでいるのね?」
真奈美の発言はすべて正しかった。彗は、両親から与えられた金で大学院に通い、部屋を借り、創を連れ込んでいる。
「何から話せばいい?」
「何から話したとしても、何も、決して許さないわ」
正座した真奈美の足の甲に、青色の陶器の破片が刺さっている。
「僕は、死のうとしていたんです」
創が、ぽつりと呟いた。真奈美が、ぎょっとした顔をして創を睨んだ。
「妹が死んで、僕は抜け殻になりました。部屋のものを処分して、最後に彗さんに妹の遺品を返したら、妹の後を追って、死のうと思っていました。けれど彗さんは、僕を拾ってくれた。一緒に病院に行ってくれたり、料理を作って食べさせてくれたり」
「あなたは、何者なの?」
「俳優です。劇団に所属しています」
創の金色の髪を見て、警戒していた真奈美が、少しだけ目元を緩めた。創が、見た目よりもしっかりしていると思ったのか。
「心配させてしまって、本当にすみません。妹が死んでから眠れない日が続いていたので、今は反動で眠り続けてしまっています。正直なところ、今、僕一人では生きていけないと思います。体調が安定して、外に出られるようになれば、また家具を買い集めて、自分の部屋に帰ります」
創は、深々と頭を下げた。
「あなたは、いったい彗のどこを好きになったの? だってこの子は……」
真奈美は、彗の体のことを言っているのだ。どうしてこのひとは、男女が同じ部屋に暮らしていれば、性的なかかわりを持つはずだと推測してしまうのだろう。彗と創の間には、性を目的とした行為は一つも無いのに。
「母さん。母さんは、あの日、婦人科に行った後に、ぼくに『体のことは一生嘘をついて生きていきなさい』って言ったよね。でもね。ぼくは、もうぼく自身を異常者だとは思っていないんだ」
真奈美の顔が、赤く沸騰していく。
「創はぼくに、『彗は彗でしょ』って言ってくれた。ぼくの体を差別しなかった。母さんがぼくを差別したようには、言わなかった」
真奈美が両手を握った。手の甲に、青い血管が浮き出る。
「創だけじゃない。研究室の教授にも、同期にも、勇気を出して伝えた。皆、ぼくの告白をあたたかく受け止めてくれたんだ。母さんだけだよ。ぼくを差別したのは。ぼくはずっと、ぼく自身を差別し続けてきた。母さんがぼくに刷り込んだように」
彗が目を伏せるより早く、彗の頬を真奈美が打った。真奈美の手に貼り付いていたマグカップの破片が、彗の頬を削った。
「母さん。痛いよ」
彗の目から、涙が溢れた。
「あの日から、母さんはぼくを見ないようにした。ぼくの存在が恥ずかしいみたいに。ぼくの体にはSRYがある。母さんがくれたX染色体の受容体の遺伝子には変異がある。それでもぼくは女として生きてきた。十二歳になるまでも、なった後も。ぼくは、堂々と生きてはいけないの? 母さんにとってぼくは邪魔だった? ぼくは……。ぼくは、母さんに愛されたかった! 大切な存在だと抱きしめてもらいたかった! ぼくは異常なんかじゃない。ぼくはこうして今、ここでこうして、母さんの前で生きてるんだ」
彗は一息に言うと、俯いて震えた。嗚咽を堪えようとしたが、できなかった。
「ぼくの周りにいるひとたちは、母さんの代わりにぼくを認めて受け入れてくれたよ」
真奈美が、細く息を吐いた。心の中の淀みを、ずっと飲み下して溜めて来た静かな怒りを、吐き出しているようだった。
「あなたは、親が必要ないって言いたいのね」
彗は、真奈美を睨み上げた。その通りだ。親は、もう精神的な支えではない。
——お金さえ、自分で稼げるようになれば。
そこまで考えて、彗の思考が停止した。底のない深い淵の中へと、引きずり込まれていくようだった。
「わかりました。あなたに私は必要ないのね。けれど、あなたはまだ学生でしょう。必要ないなんて簡単に言うけど、親を棄てて自活できるの?」
いちばん苦しい所を衝かれる。学振に落ちた彗には、返す言葉もない。受かっていれば、家賃も生活費も、自分で払えたのに。
「お金で支配しようなんて、もう無理ですよ」
創が低い声で呟いた。錆びた鉄のような匂いがする。血だ。先ほど真奈美の手についていた陶器の欠片が、頬に傷を作っていた。
「あなたに何がわかるの」
「たしかに彗さんは金銭面でご両親に頼っています。でもそれだけです。彗さんは、精神的に自立された、素晴らしい人です」
真奈美は、わなわなと震え始めた。
「私がどんな思いで、どんなに苦しい思いで、あなたを育てて来たと思っているの? 世間に引け目を感じながら、私がどんな思いで——」
真奈美は床に崩れ落ちて、泣き叫んだ。彗が背に触れようとすると、「触らないでっ!」と真奈美は叫んだ。
「穢らわしい。あんたたちの関係なんか、一時の気の迷いなのに。私たちのお金で買ったものをこの人が食べているなんて、信じられないわ」
ああ。この人はもうだめだ。彗がどんなに遠くへ手を伸ばしたとしても、もう、真奈美には届かない。
「彗。あなたを、あの人のようにだけはしないように、私たちがどれだけあなたを気遣ったのか、全然気づいていないのね」
『あなたを、あの人のようにはさせません』
十二歳のあの日に、真奈美が言った言葉が、蘇る。
「あの人……?」
真奈美は温度のない死んだような目をして、彗の頭からつま先までを、ゆっくりと眺めた。
「本当に、あなたはあの人に似たわね」
「だから、誰の——」
「あなたには、叔母がいるの」
——叔母?
「私のたったひとりの姉。あなたと同じ診断を受けた人間よ」
背後で、創が息を吸う音が聞こえる。
「姉には、恋人がいたの。結婚すると言っていた。姉は、いつも『女性らしい』身なりをしていて、私の目から見てもとても美しかった。けれど」
真奈美は、床に散らばった水色の陶器の欠片を眺め、次いで自分の指を見つめた。
「相手方のご家族にご挨拶に行った時、子供を宿すことが出来ないと姉は告白したわ。初めての告白だったそうよ。交際相手にも、そのご家族にも」
母親の言葉を待たずとも、その後の展開は容易に想像できる。
「手のひらを返すように、姉は拒絶されたわ。全てを否定された姉は、絶望した。いのちを絶とうとすらした。それからは、私たち家族とは関わらずに、ひとりで山奥に暮らしているけれど」
彗は直感した。ほんとうは一条家が叔母を拒絶し、一族から除名したのではないか。家を飛び出し、一人暮らす叔母。彗は、その人に会ってみたいと思った。この修羅場の中で、あまりにも平和すぎる思考だった。
「だから、私はあなたに、女らしい振る舞いを禁じた。あなたを失望のどん底に放り込まないように、あなたが道を誤らないよう、守ってあげたのよ」
「守る? ふざけないで!」
彗は叫んだ。喉をからして、今までため込んでいた感情を爆発させた。
「ねえ、ぼくがSRY遺伝子を持っていることは、『いけないこと』なの? そんなはずがない! ぼくは今でもこうして女性として生きていて、親愛なるひとたちと関わっていて、とても幸せなのに!」
握りしめた拳を、なんとか抑えこむ。
「子どもを産めないことは、不幸せなことなんかじゃない! お願いだから、ぼくの幸せを勝手に決めつけないで!」
真奈美は、呆然として、中に何も入っていないガラスのような目で、彗のほうをぼんやりと見て、俯いた。彗は、以前から決めていたことを、ここで真奈美に話すことにした。
「母さん。ぼく、アカデミアの研究者を目指すの、やめるよ」
真奈美が、顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔に、白髪染めした髪が貼り付いている。
「博士号を取ったら、企業に就職する。金銭的な負担をかけるのは、あと二年でやめにするから」
「彗、それでいいの?」
創が慌てた。彗は、創を目で制した。
「大きな声を出して悪かったと思ってる。今まで育ててもらった恩を、少しずつ返すから。だからお願いします。今回は帰ってください」
彗は、床に頭をつけた。頬を流れる血が、頭に向かって垂れる。経血もこんな匂いがするのだろうか。
「約束しなさい。あと二年で学生生活を終わらせて、必ず就職しなさい」
「わかりました。約束します」
真奈美は息を吸って、大袈裟に吐きだした。吐いた息が震えている。真奈美は立ち上がると、ずぶ濡れの彗と創をじっとりと冷たい目で舐めるように見て、「あなたもさっさと自分の家に帰りなさい」と言い捨てると、割ったマグカップを片付けることもなく、大股で玄関まで歩いて、ドアを開けた。荒々しく靴を履き、ばんっと大きな音を立てて、真奈美は扉を閉めた。
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