ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈30.夕空〉
三十、夕空
彗は、ずぶ濡れのままで、真奈美が去ったあとの扉をずっと見つめていた。
「ごめん。ちょっとシャワー浴びてくる」
彗は創を振り返らずに立ち上がり、バスルームに向かった。お湯の温度を普段よりも二℃高くする。鏡で自分の顔を見る。頬の傷の血は止まっていた。そのまま鏡の中の自分を見続ける。睨む。額の真ん中で半分に分けた黒髪が顔を半分覆っている。
「ぼくは、もう、ぼくを恥じない」
鏡の中の彗が、鏡の手前の彗を睨みつける。
「母さんがどんなにぼくを傷つけようとも、ぼくはもう、母さんのためには泣かない」
バスルームで顔を下に向け、シャワーのお湯で頭を洗う。熱いお湯で、肌がちりちりと痛む。彗は、泣かなかった。
髪を乾かし、リビングに戻ると、部屋は片付けられていた。アウトドアパーカーを着た創が待っている。
「彗。気分転換をしない?」
「気分転換?」
創は、目尻に皺を寄せて微笑むと、彗に薄いダウンジャケットを着せた。彗の手を取って、創が玄関の扉を開ける。創の手が温かい。彗の心拍数が上がっていく。
マンションの外に出ると、春の夕焼けが広がっていた。
「少し散歩しようよ」
創が、彗の手を取ったまま、一歩先を歩く。ふんわりとたなびく雲は、夜店で売っている綿菓子のような、ピンクとも朱ともつかない色をしている。
「太陽はね、明日も輝くために沈むんだ」
創が、少しだけ手に力を込める。
「創。こんなことになって、本当にごめん」
「大丈夫。それに、お母さんに会って、彗の苦しみの正体がわかった気がするよ」
創が立ち止まり、彗を振り返る。
「もう一度言う。死ぬ病気じゃないなら、それでいい。彗は、彗でしょ」
つないだ手に力が入る。創の心の中には、きっと今も、星南がいる。けれど彗は気持ちを伝えたい。「ありがとう」とお礼が言いたい。創は無邪気な顔をしていながら、本当は、彗の気持ちに気付いているかもしれない。
——だめだ。今は。
底なしの黒い淵から、何本もの手が生え出る。淵の中央では、星南が彗をじっと睨んでいる。星南が教科書に刻んだ遺言。あの言葉は、星南にとって真実だったのだろうか。獰猛な獣のように彗を罵倒した星南。教科書を投げつけて来た星南。
全ては星南が、もっと生きたかったから。
——今は、言えない。
「創。少し体調、よくなってきた?」
「うん。沢山寝て、少し動けるようになってきた」
彗は、繋いだ手を見つめた。創にとって彗は、どういう位置づけにあるのか。友人だろうか。彼女ではないよな。ひょっとすると、ある意味で家族なんじゃないのか。
「彗。スーパーに行かない? 今日はカレーを作ろうと思うんだ」
「創が?」
「なに? 僕のカレーに信頼が置けないの?」
創がわざとらしく目を細めたので、彗は思わず吹き出した。博人と、そして母親と断絶した壮絶な今日だ。こんな日に笑えるなんて、ずいぶん図太くなったものだ。
「チキンカレーとポークカレー、どっちがいい?」
創が真剣な目をするので、彗は少し考えた。
「ポークカレーがいい」
「了解」
創が、繋いだ手を高く掲げた。その先に、彗は北極星を探した。
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