ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈31.妥協か、本心か〉
三十一、妥協か、本心か
阿藤の教授室。応接テーブルの上のマグカップからは、湯気が立ちのぼっている。阿藤が最近買ったという新しい珈琲豆を、味見することになった。テーブルの隅には、いつものように論文や教科書が束になって乱雑に置かれている。珈琲を一口含むと、阿藤はそっと目を閉じた。
「アメリカンも美味しいわね」
彗は、頷いた。最近の休日は、創と二人で朝にコーヒーを飲む。焙煎の仕方によって味が変わることを、彗はようやく理解しつつある。
「ご友人の体調はどう?」
「はい。回復している途中だと思います。阿藤教授にご紹介いただいた精神科医の先生とも、相性がいいみたいで」
「よかったわ。私もほっとした」
阿藤が、コーヒーを飲みながら、表情を緩めた。
「それで。今日はどんな打ち明け話?」
「教授。いつもすみません」
彗は、頭を下げた。顔を上げると、阿藤が首を横に振った。
「私は大学の教員なの。学生のサポートをするのも仕事なのよ。どうぞ。聞かせて」
彗は、机の上に手を滑らせ、マグカップを探し当てた。僅かに手の震えがある。
「ぼくは、ずっとアカデミアの研究者を目指してきました。ですが……。今は、博士号を取って、大学院を卒業したら、安定した仕事を探して就職しようと考えています」
阿藤が、瞳を開いた。とても驚いている、という表情だった。
「実は、先日実家から母が来まして。それで、学費や生活費のことで、揉めてしまって」
俯く彗の次の言葉を、阿藤は無言で待っている。
「あと二年しか、金銭的な援助は受けられないことになりました」
阿藤が、机の上で両手を組んだ。整えられた指先が、天井のLED灯を反射してきらりと光る。
「一条さんは、納得しているの?」
「……いえ。正直なところ、納得はしていません」
「そうだよね」
「納得はしていないのですが……。お金の話をされてしまうと、ぼくにはもう、どうしようもありません」
「学振DC2は今年も受けられるし、PDだってあるでしょう?」
「母は、ぼくが研究者になって、やりたいことを仕事にして生きていくことを、一生認めたくないのだと思います」
ぎゅっと目を閉じた彗が、再び目を開くと、阿藤の視線が真っすぐに彗を向いていた。
「私がぎりぎり踏み込める所までを言う。お母さんをなだめることよりも、逃げずに将来の自分像と向き合うことが大切だと思うわ」
「それは……」
「あなたがお母さんとうまくいっていないことはよくわかる。追い風になってくれる家庭で育った人たちよりも、あなたは、確実に、根本的な意味でハンデを負っている」
目を逸らさずに、彗は阿藤を見つめ返した。
「けれどあなたの人生を生きるのはあなたしかいないの。あなた以外にあなたの人生に責任を持てる人は存在しない。一条さん。もう一度考えてみよう。今の気持ちのままで就職を決めても、きっと毎日が空虚になるだけよ」
彗は、震える両手でカップを持ちあげ、珈琲を一口飲んだ。褐色の液体はまだ、あたたかかった。
「ねえ。一条さん。しばらくは二兎を追おうよ。就職口を探すとしても、まずは研究職を狙える企業に絞ろう。製薬。化粧品。食品。企業だけじゃない。試験を受けて、国公立の研究所への就職っていうルートもある。いずれの選択肢を選んでも、研究をしながら社会の役にも立てる。それと同時に、学振DC2をもう一度狙う。あきらめるのは、まだ早いわ。今、研究と全く関係のない分野に移るのは、本当にもったいないと思うの」
阿藤の言葉が、熱を帯びていた。温かな感情が、彗の中で膨らんでいく。
「阿藤教授。ありがとうございます。そこまでぼくのことを考えてくださっていたなんて」
「覚えてる? 一条さんが、学部二年の時。『生殖遺伝学』の講義後に、分厚い教科書を抱えて、質問に来てくれたわね」
「はい。講義の中で説明がなかった所を、質問したくて」
「そうね。一条さんの質問は、今でも覚えている。『ヒトのゲノムから、SRYが消える日は来るのでしょうか』って。なんて面白い質問をする子なんだろうって、驚いたわ」
その時、阿藤は、天井を仰いで、面白くてたまらないという風に、大きな声を出して笑っていた。
「講義の後、あなたをこの教授室に招いて、ある日本人研究者の研究成果——アマミトゲネズミの性決定の話をしたわね。それ以来よ。私の講義に、アマミトゲネズミの雄性化について組み込むようになったのは」
阿藤は、コーヒーをすすると、澄んだ瞳に彗を映した。
「この子は伸びるって思ったわ。今だから言えるけれど」
「ぼくはただ、自分のY染色体上にあるSRY遺伝子のはたらきを知りたかったんです。ぼく自身という人間が成り立っている仕組みを」
「その視点が、あなたにしかない唯一無二のギフトね。あなたが我が研究室の門を叩いてくれた時は、跳び上がって喜んだのよ」
「光栄です。教授」
「だから、研究を諦めて欲しくはないの。一条さん。研究は好き?」
彗の中を、一陣の春風が吹いた。好きか嫌いかで、その先に待ち受けている未来を選べる日が、訪れるなんて。
「好きです。とても……。とても好きです」
「じゃあ答えは出たわね。あなたの人生よ。あなたが選べばいいわ」
教授室を出た彗は、帰る前に実験室に寄った。黒い天板の実験机には、様々な精密機器が置かれ、忙しく規則的なモーター音を立てている。白衣を着た学生たちが、集中しながらいそいそと動き回り、手を動かして実験をしている。
「彗。ちょっと!」
白衣姿のクリティカが、長い三つ編みを揺らして、彗を手招きした。クリティカの隣には、学部四年の中谷早紀子が、戸惑った顔をして佇んでいる。
「中谷さんが昨日仕込んだエライザ試験が上手くいかなかったって。見て。バックグラウンドが異常に高い」
クリティカが指さす先には、穴が九十六個開いた、スマートフォンよりも少し大きなプラスチックの板——「プレート」があった。本来は黄色から無色へのグラデーションになるはずが、全ての穴が均一に黄色に染まっている。
「彗。どうすればいいと思う?」
「非特異反応だね。洗浄は何回やってる?」
「二回です」
「回数を増やした方がいいね。五回くらいまで。あと、希釈液に界面活性剤は入ってる?」
「いえ……。入れてません」
「ごく低濃度で入れた方がいい。非特異吸着を防いでくれる。それでもうまくいかなかったら、また相談しよう」
「ありがとうございますっ!」
中谷が頭を下げた。クリティカがパチンと指を鳴らす。
「さすがだね。一条先輩」
茶化すクリティカに笑顔を返し、彗は実験室を後にした。今の彗には、居場所がある。好きなことがある。追いかけたい夢がある。愛する人がいる。これを幸せと呼ぶのだ。
理学部の外に出ると、辺りは薄い闇に包まれていた。今日は少し寒いから、クリームシチューにしよう。帰りにニンジンを買って帰ろうか。創は、どんな顔をしてシチューを食べるだろう。
彗は、創が再び歌える日が来ると信じていた。
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