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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈26.音信不通〉

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二十六、音信不通
 
彗は、星南の葬儀に参列できなかった。葬儀は親族のみで行われたからだ。星南の体が空へと放たれた日、彗は、研究棟の屋上で空を仰いだ。星南は地球の大気そのものになった。大きく息を吸い込む。もう、星南の肉体は帰って来ない。
 
星南が死んだ日から、創には会っていない。クリーンベンチの中で、抜かりなく無菌操作を行いながら、彗の心の中で心配が芽吹き、方々に伸び広がっていく。
 
「嫌な予感がするんだ。創から三週間も連絡がない」
 
学生食堂で、時間が経ってふやけた塩ラーメンをすすりながら、彗はクリティカと向き合っている。
 
「たったひとりの妹が亡くなったんだよ。そんなに簡単に立ち直れるわけがないじゃない」
「余計なお世話だってことはわかってる。でも」
 
彗は、麺をかみ砕いて飲み込み、割り箸を握りしめた。
 
「創は、家族とうまくいっていない。ひとりで、ちゃんとご飯を食べているだろうか。眠れているだろうか」
 
クリティカが、ゆるくウエーブした長い髪をかき上げ、背中に流した。
 
「本当に好きなんだね。創のことが」
 
彗は、頷いた。
 
「創は、ぼくのことをきっと、好きじゃないんだろうけど」
 
クリティカが、眉尻を下げる。いつものように感情を隠さないクリティカが、彗を少しだけ安心させた。
 

 
午後十時を回った。彗は、青色の部屋のダイニングテーブルに座り、観察記録を書いている。創からは相変わらず連絡がない。今日の観察記録も一行で終わった。ため息をつき、魔法の書を閉じる。そろそろ布団に入ろう。
 
スマートフォンが震えた。創からの着信だ。
 
「創?」
『彗』
「いまどこ?」
『家だよ』

彗は安心した。ふと呼吸を止める。なぜ安心したのだろう。

「創。最近どうしてた? 連絡がないから心配して——」

創が沈黙した。彗の全身が緊張していく。嫌な予感が膨らむ。

『彗に、渡したいものがあるんだ』
「なに?」
『僕、ちょっと今動けなくて。だから、僕の家に取りに来てもらってもいいかな?』

創の家に。一体何だろう。

「わかった。取りに行くから、住所送って」
『ありがとう。彗は優しいね』
「いつ取りに行けばいい?」
『今からきて』
「今から……?」
『駄目かな?』
「創。何かあったの?」
『うん。なんかもう全部どうでもいい』

怖くなった。何としてでも、今、創に会いに行かなければならない。

「わかった。今から行く」

彗は、鏡の前で髪を梳かした。着替える時間の猶予はない気がした。少し迷って、そのままの顔で、スウェットの上から冬物のダウンジャケットを羽織り、ショルダーバッグを掴んで家を出た。三月。夜風はまだ冬のように冷たい。少し雪融けが進んでいるのだろう。風に土の匂いが溶けている。午後十時半。地下鉄のホームへと走る。今の時間帯の地下鉄は十分間隔だ。十分のロスさえもが怖い。

「今から行ったら、終電までには帰れないか。どこかで朝まで時間を潰さないと」

彗が呟くと、アナウンスが流れ列車がホームに滑り込んできた。風で乱れた髪を気にすることもなく、素顔のままの彗は車内へ足を踏み入れた。

創の家は、彗の最寄り駅から三つ目の駅のそばにあった。自転車屋を通り過ぎ、飲食店街に入る。始発まで営業している店はなさそうだ。飲食店街の外には、集合住宅が多く立ち並んでいた。大丈夫だ。ここからなら、歩いて帰れない距離ではない。

創の家は、打ちっぱなしのコンクリート壁のマンションの、二階の角部屋だった。カーテンが開いている。部屋の照明は消えていた。急がなければならない。

インターフォンに応えた創の声は、掠れていた。オートロックが開き、彗は駆け足で階段を登る。部屋の前に立ち、呼び鈴を押した。ドアが開く。真っ暗な闇の中に、創がいた。

「入って」

大好きな創の声なのに、何故かぞくりと背筋が寒くなる。創に続いて、廊下を歩く。創は、黒いパーカーのフードを被り、同じく黒のスウェットを履いていた。リビングのドアが開いている。彗の呼吸が止まった。創の部屋にあったものは、洗濯機とベッド、床に置かれた球形のライト。それだけだった。

「創。この部屋、どうしたの?」
「明日、洗濯機とベッドの回収に来てもらうんだ」
「引っ越すの?」
「引っ越す?」

創の瞳が大きく開かれたことが、僅かな明かりの中でも見て取れた。

「引っ越しじゃないよ」
「じゃあ、なに」

創は答えない。不安が体を突き破って、この何もない部屋に飛び散りそうだ。

「彗。返したいものがある」

創はぎこちなく笑って、ベッドの上に置いてあったものに手を伸ばした。創から手渡されたのは、彗がクリスマスに星南にプレゼントした、あの教科書だった。

「これ。持っているのが辛いから、彗に返す」

彗は、震える両手で教科書を受け取った。すぐに気づく。彗が貼ったのではない付箋が、あちこちに貼り付けてあった。星南は、教科書を読み込んでいたのだ。彗はその場に座り込んだ。

「電気、つけていい?」
「ごめん。いまの僕には、ちょっと眩しすぎる」

彗は、頷いて立ち上がると、明かりをつけるかわりに、カーテンを開けた。三月の深い夜。天には月が輝いている。開いたページに月光を受け、彗はページを捲った。わからない英単語を調べたのだろう。星南の丸文字で、いくつも書き込みがあった。

「創。この教科書の中身は見た?」

創は、黙って首を横に振った。

付箋が貼ってある箇所を順に開いていく。皮膚の下で、彗の心臓が激しく脈打った。 

「M、A……」






「そんな……」

震える彗を、創は少し驚いたように見つめた。





















教科書を握る手が、指が、激しく震える。名前もわからない混沌とした感情が溢れる。彗は喉を震わせて泣いた。あの日、星南が彗にぶつかって来たとき、彗は星南をはっきりと拒絶した。仕方なかったのだと未だに言い訳をする自分が、情けない。彗は最後まで、星南に言えなかった。創が本当に好きなのは、星南だったのだと。

「星南ちゃん。ごめん。星南ちゃん」
「どうしたの? 彗」

教科書を胸に抱いて泣きじゃくる彗の背に創が触れた。創の手は、まだ温かかった。創が、彗の背をさする。

「悲しい時は、好きなだけ泣いていいんだよ、彗」

創は、涙なんか枯れてしまったように、乾いた声を出す。本当に泣きたいのは創のはずだ。ぐしゃぐしゃの顔のまま、創を振り返る。月光の中に浮かび上がった創は、もう光を放ってはいなかった。

「創は、英語が得意?」
「え? 英語なら、読むのと書くのは大っ嫌い」
「そう」
「どうして?」
「ぼくと星南ちゃんの秘密」

——そして、ぼくの永遠の後悔。

彗はまた泣き始めた。骨が軋むほどに。

小鳥の声がして、ゆっくりと瞼を開けると、カーテンが開けっ放しの窓から、太陽光が部屋に差し込んでいた。

「しまった。寝ちゃったのか」

スマートフォンを見ると朝六時半だった。はっとする。彗はベッドで寝ていた。ベッドまで移動した記憶はない。慌てて床を見ると、創が穏やかな寝息を立てていた。よかった。生きている。

改めて部屋を見回す。白いフローリングのワンルーム。テーブルも椅子もない。キッチンには、鍋もフライパンも炊飯器もない。洗濯機だけが、所在なく洗面台の横に佇んでいる。

「これじゃ料理もできないな」

料理なんか全く得意でもないのに、彗は呟いた。床で眠る創に、せめてタオルケットでも掛けようかと動いたとき、創が目を覚ました。

「ごめん、創。勝手にベッドで寝て。起こしちゃったね」
「久しぶりによく寝た……」
「眠れなかったの?」
「うん。眠れなかったし、食べられなかった」

彗は息を飲み込んだ。創は、明らかにやつれて見える。肌にはつやがなく、頬はこけている。今日は、業者がベッドと洗濯機を引き取りに来ると言っていた。このまま創をこの部屋に残して帰ったら。彗は、両手を握りしめた。星南が彗に遺したメッセージを、頭の中で反芻する。

〖SUPPORT HIM〗

星南はきっと、自分がいなくなったあとの創を案じていたのだ。

「創。業者さんに来てもらうのはやめよう。少なくとも今日じゃなくていい。それから、このまま、ぼくの家へこない? 簡単なものしか作れないけど、なにか食べようよ」

創の黒い瞳が、開いたり閉じたりする。

「どうして?」
「どうしてって……」

星南からの「遺言」だとは言えなかった。いま知れば、創は壊れてしまうだろう。

「ぼく、お腹空いちゃったんだよ。それに、家に誰かがいてくれるっていう生活に、ずっと憧れてたんだ。どうせこの家にはもう何もないし、ちょっとその……ホームステイだよ!」

彗は笑ってみせた。無理にでも、明るい声を出して。ひどく場違いな笑いだった。

「ベッドと洗濯機を引き取ってもらった後、死のうと思ったんだ」

創は、何の表情もない顔をして、無機質な声で呟いた。

「星南がいない世界で、僕はもう生きていけない」

創の頬を、一筋の涙が伝う。

「あれ? 僕どうして泣いてるんだろう。星南が死んでから、涙なんか一滴も出なかったのに」

彗は、創に走り寄り、創を抱きしめた。創の背を、母親が子供にするようにそっと、そっと、繰り返しなでる。

「どうしようもない時は、涙を流すんだよ、創」

彗の右肩に頭を置いていた創の喉から、嗚咽が漏れる。静かに、祈るように、彗は創の背を撫で続ける。創が彗の体を強くつかむ。これでいい。やっと泣けたなら、それだけでいい。

「ぼく、創の傍にいるから。どうやったら生きられるか、一緒に考えよう。必要なら一緒に病院に行こう。恥ずかしいことなんかじゃ決してない。ひとりで死のうとするなんて許さない」

創は、迷子になった小さな子供のように、泣きじゃくった。創の金色の髪を撫でながら、彗は少しだけほっとした。今日の朝ご飯は、あの日、発掘現場で渡せなかった、梅干しとおかかのおむすびにしよう。ワカメのお味噌汁もつけよう。

安堵しかけていた彗の脳裡に、冷たい刃が這う。

——ぼくは、星南ちゃんの死を利用してはいないだろうか。

>>第二十七話


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