ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈2.クリティカのセルロティ〉
<<第一話
二、クリティカのセルロティ
理学部C棟の九階に、彗が所属する生殖遺伝学研究室はある。若き学部生のかしましい笑い声は、ここには届かない。薄暗い廊下を細胞培養室に向かって歩く。軽くて動きやすいオレンジ色のサンダルが、ワックスが効いた床をきゅっと鳴らす。
細胞培養室に辿り着き、白衣の上で粘着テープを転がして、埃を取り去る。実験用の青いゴム手袋を着け、アルコールを吹きかけて両手を擦る。クリーンベンチのガラスのフードに、彗の姿が映っていた。冴えない表情をしている。俯いて頭を振り、邪念を払う。インキュベーターから、培養細胞が入ったシャーレを取り出し、顕微鏡で状態を確認した。きらきらと輝く細胞の世界は、何度見ても静謐で見惚れてしまう。
クリーンベンチのガラスのフードを持ち上げて開け、腕だけを中に入れて、培養操作を行う。細胞が浮かぶピンク色の液体が、とろりと揺れた。オートピペッターで液を吸ったり吐いたりしながら、細胞をシャーレから剥がしとる。培養液には防腐剤が入っているものの、細胞はカビに対して極端に弱い。腐らせてしまったら、研究がすべて台無しになる。彗は、すっかり無心になって、細胞の培養操作を続けた。
細胞の世話が終わり、彗は目を閉じて顔を上げた。細胞に負担をかけないよう、細胞培養室内は生温かく保たれている。汗をかいても、作業中は拭うこともできない。
「ノイズが多いな」
彗はひとり呟きながら、細胞培養室を後にした。思考にノイズが入り込んでいる。原因は明らかだ。創の笑顔が、彗の脳内で爆ぜる。どうしてこんなことに。あれだけ禁じられていたのに、まさか、恋をしてしまうなんて。
「ここから先に進みたければ、嘘をつかなきゃな」
ため息交じりにゴム手袋を外した。
「嘘って?」
彗は飛び上がりそうになった。おそるおそる振り返ると、彗と同期の大学院生、クリティカ・シャルマが、長い睫毛に囲まれた大きな目を見開いていた。
「クリティカ。いつからそこにいた?」
「彗が、ノイズがなんとかって言ってるあたりから」
「全部聞かれた……」
彗は髪をかきあげた。クリティカは、白衣のポケットに突っ込んでいた手で、ゆるくウエーブした長い黒髪を弄びながら、彗の言葉を待っている。
「なんでもないよ」
彗はひらりと手を振って踵を返し、その場から逃げようとした。簡単なことだ。いつものように、殻を閉じてしまえばいい。
「彗。セルロティ、作ってきた」
彗は、歩みを止め、クリティカを振り返った。
透明なガラスのティーポットの中で、茶葉が息を吹き返すように広がる。お湯が琥珀色に染まっていく。ちょうどいい頃合いを見計らって、彗は、向かいに座るクリティカのマグカップに紅茶を注いだ。廊下の突き当たりにあるここは、「学生部屋」と呼ばれている。研究室を卒業した先輩が置いていったというソファと、白いテーブルが置かれている。
ネパール生まれのクリティカが作った揚げたてのセルロティは、ドーナツのように輪の形をしている。セルロティたちは、黄金色の肌を輝かせながら、食べられる時を待っていた。一つ手に取って齧ると、もちもちとした食感と、強すぎない自然な甘さが広がり、彗の脳が歓喜した。
「美味しいっ!」
彗は、ぎゅっと目を閉じた。食べ物の中では、クリティカが作るセルロティが一番好きなのだ。目を開けると、クリティカが腕を組んで、意味ありげに微笑んでいる。
「彗。セルロティあげたから、細胞ちょうだい」
クリティカは、細胞コレクターだ。研究室のメンバーから細胞を分けてもらうと、嬉しそうに増やして凍結の準備を始める。小さなチューブに細胞を入れ、液体窒素に漬けて長期保管しておくのだ。
「いいけどさ。前から聞こうと思ってたんだけど、細胞コレクションの、一体何が楽しいの?」
クリティカはため息を吐くと、額に右手を当てて、呆れたように首を振った。
「わかんないかなー。細胞ちゃんたちを寝かしつける時の、あの快楽。液体窒素にジュワジュワーって」
「わかんない。わかりたくもない」
クリティカが目をぐるりと回してセルロティを片付けようとしたので、彗は「わかったわかった! 言い過ぎた!」と慌てた。二個目に手を伸ばす。目を閉じながら頬張り、目を開けると、クリティカが何かを言いたそうな顔をして、彗をじっと見つめていた。
「彗の細胞は、クジラの細胞でしょう?」
「そうだけど?」
「彗、鯨類のSRYを研究しようとしたのはどうして?」
「鯨類って、進化的に面白いんだよ。祖先種が、陸から海へと生活の場を変えた。海へ進出したことで、性を決定するメカニズムにどういう選択圧がかかってきたのかについての解析を——」
「彗の性染色体は、何型?」
「はっ? も、もちろんXX型だろうけど?」
突然何を訊いてくるんだ、この子は。彗は怯んだ。
「学部一年の時、タマネギの染色体の実習で、彗と私は同じグループだった。彗は、自分の口腔粘膜のサンプルを提供しなくていいと知って、すごく安心していた」
クリティカの目線が、鋭い。
「そう? そんなことなかったけど?」
誤魔化そうとする。「全く納得していない」とクリティカの顔に書いてあった。
「彗は確かに、『よかった』って言っていた」
「そう……だったっけ?」
クリティカが、彗を見つめたまま、頷く。
「彗。嘘って何?」
「なんでもないよ」
「じゃあ、別の質問から。彗はどうして、SRYの研究にそこまでのめり込むの? 答えるまで帰さない」
逃げられない。この子には嘘がつけない。彗はよろめきながら立ち上がると、学生部屋の扉を閉めた。呼吸が浅くなる。
「クリティカ。これはぼくがまだ誰にも言ったことがない秘密なんだ。口外されたら本当に困る」
「わかった。誰にも言わない。その前に、私にはそもそもあまり友達がいないから安心して」
確かに、クリティカが誰かとつるんだり群れたりしているところを見たことがない。クリティカは孤高の人だ。頭が良すぎるのかもしれない。彗は、震える右手を左手で握りしめた。
『嘘をついて生きていきなさい』
母親の言葉がよぎる。いまここで真実を言えば、クリティカは去ってしまうのだろうか。
「……XYだよ」
彗は、テーブルを両手で叩いた。マグカップがティーポットとかち合って、悲鳴を上げる。
「XYなんだ!」
声を荒げた。クリティカの顔をまともに見ることが出来ない。彗は、息を吐いた。体全体がどくどくと脈打っている。
「本当は、ぼくの性染色体はXY型なんだ。ぼくはSRY遺伝子を持って生まれた。けれど見ての通り、ぼくは女性。ここまで言えばわかるでしょう?」
彗は目線を逸らしたまま、俯いた。ついに秘密を打ち明けてしまった。息苦しくなる。何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに罪深い気持ちになるのだろう。
『嘘をついて生きていきなさい』
——母さん。約束を破ったぼくには、罰が下るの?
クリティカが、ゆっくりと息を吸う音が聞こえる。
「彗は、SRY——『Y染色体性決定領域遺伝子』を持ってるってことね」
「そう。それと同時に、ぼくのX染色体上のアンドロゲン受容体の遺伝子配列には変異がある。ぼくは、完全型のアンドロゲン不応症なんだ。ぼくの体のつくりは、大多数の女性とは違う。ぼくの体には、子宮も卵巣もない。だからぼくは、子どもを宿すことができない」
彗は、顔を上げることもできずにまくし立てた。伏せた目が、床の染みの周りをふらふらと彷徨う。
「だから、SRYを研究対象にした。SRYはぼくにとって特別な遺伝子なんだよ。ぼくはただ、ぼく自身に起きた現象に向き合いたいだけなんだ」
彗は、震えを悟られないように、やっと顔を上げた。クリティカが、首を横に振る。
「今の答えじゃ不十分なの?」
「私たちは生物学者だから、今の説明は一度で理解できた。問題はそこじゃない」
「クリティカ。ぼくのこと、変だって思わないの?」
「はっ? なにが変? どこが? どうして?」
彗は驚いた。クリティカは、彗の質問が理解できないと言わんばかりに、何度も瞬きをした。母親から言い聞かされてきたことと、今のクリティカの反応は全く違う。
「それよりも、彗。最初の質問の答えはまだ提示されていない。『嘘をつかなきゃ』ってどういうこと?」
——ああ。そこまで戻るのね。
彗はやけになって、クリティカに洗いざらい話してしまうことにした。紅茶を一気に飲み干す。茶葉の香りで、頭がくらくらした。
「クリティカ。実はぼく、好きなひとが出来たんだ」
「そのひとに、嘘をつくの?」
クリティカは頭の回転が速い。
「だって。ぼくは……」
「彗。その言い方。彗と同じ診断を受けた人たちに、とても失礼」
ぴしゃりと言われて、彗はやっと気づいた。彗は気づかぬうちに、母親が彗にしたように、彗自身を蔑んでいた。
「一条彗は、そのままのあなたじゃ駄目なの?」
「ぼくの悩みは、クリティカにはわからないよ」
「わからない。けれど、どうあがいても自分自身からは絶対に逃げられない。一度嘘をつけば、もっと嘘を重ねることになる。彗、あなた自身に」
「母さんに言われたんだ。『体のことは一生嘘をついて生きていくように』って……」
クリティカの形のいい眉が歪む。
「『一生嘘をついて生きていけ』なんてひどすぎると思う。その考えは危険だよ」
「でも、十二歳の頃からずっと、そう言われてきたんだ。ずっと、母さんの言葉が正しいと思ってきたんだ」
クリティカが、はっと両目を見開き、すぐに瞼を閉じた。祈るように。クリティカは、ゆっくりと目を開けると、厳かな表情で、視線を彗に向けた。
「彗はいつまで、お母さんが決めた人生を歩いていくつもり?」
彗は呼吸を止めた。クリティカの瞳が、彗の闇を吸引する。
「彗。好きなひとに会いに行きなよ。そこまで思い詰めていた彗が、やっと好きになれたひとでしょう?」
彗は心臓の上に手を置いた。鼓動を感じる。確かなことがある。創のことを不可逆的に好きになってしまったということだ。
「でも怖いよ。クリティカ」
「彗はいつもそう。怖がって他者と関わろうとしない。自分の感情を封じ込める。けど、私に話してくれた以上、もう彗ひとりの問題じゃない。私は、彗に後悔をしてほしくない」
「どうすればいい?」
「とにかく会って。それから、私にどんなひとだったか教えて。プログレスレポートだよ」
クリティカが、テーブルの上で震える彗の手に触れた。彗は息を吸って、静かにそっと吐き出すと、ずいぶん久しぶりに滲んだ涙を手の甲で拭った。
——創に会いたい。
彗はその場でスマートフォンを取り出し、博人とのトークルームを開いた。
「わかった。好きなひとに、会いに行く。これからぼくが、ぼくの人生を生きていくために」
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