ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈3.発掘現場〉
彗は、カーキ色のアウトドアパーカーをはおり、ベージュのカーゴパンツに着替えた。十月第二週の土曜日。今日、彗は遺跡発掘現場にボランティア作業員として向かう。クリティカに背中を押され、創に会いに行くと決めた彗は、博人に連絡を取った。「発掘作業に参加したい」と告げると、アルバイトの枠は埋まっているが、ボランティアとしてなら、作業を手伝ってもいいと許可が出たのだ。
迷いに迷った末、彗は博人と創の分までおにぎりを作った。何味が好きなのかわからなかったから、梅干し、おかか、塩昆布の三種類の味を用意した。彗が握るおにぎりは不格好で大きい。自分以外のひとのためにおにぎりを握るのは、初めてだった。どうすればきれいな三角が作れるのかが、わからない。
朝八時。ひとりで学生用のマンションに暮らす彗は、家を出た。緊張と期待でいっぱいの頭の中身を入れ替えたくて、思い切り深呼吸をする。豊穣の季節の空気は、木が燃えたような、香ばしい匂いがする。両足が、自分のものとは思えないほどに軽い。スポーツブランドの黒と白のスニーカーが、朝日の中で踊る。
『彗。あなたが子供を産むことはありません。子宮も卵巣もないから、不可能なの』
『だから、男の子に選ばれてはいけません。服も髪も、おしゃれをしてはいけません』
母の言葉に応えるように、彗はいつも髪を短く保ち、露出の少ない男の子のような服ばかり着る。今日の服装だってそうだ。「選ばれない」ための服を着た彗は、けれど今、創に「選ばれたい」と思ってしまう。
溺れそうになって、クリティカを思い出した。何でも見通せるような黒い大きな瞳と、揺るぐことのない信念。そうだ。彗は、「好きなひとに会いに行く」のだ。研究農場に辿り着くと、博人と創を探す。アルバイトに来ている人々の年齢層は広く、学生らしきひとたちから年配のひとまで様々だ。
「彗」
落ち着いた低い声がして振り向くと、博人が立っていた。博人の肌がいつも日に焼けているのは、フィールドワークばかりしているからだ。博人の顎先に生えた無精ひげに目がいく。ホルモンの受容体が機能していれば、彗は男性として生まれ、当たり前にひげが生えたはずだ。
「珍しいね。理系の彗が遺跡に興味を持つなんて」
「うん。他分野について学ぶのも必要かなって」
ごまかした。本当は、創に会いたいから、ここに来たのだ。博人は大袈裟に笑って、その後で静かに彗に一歩近づいた。
「彗。来てくれてうれしい」
感情が込められたあたたかな言葉だった。彗は、笑って一度頷くと、博人の言葉の裏にある感情を受け取ることを、無意識に拒んだ。
「おはようございます! って、彗さん?」
ハイトーンの声がして、彗の脳が「創だ!」と叫ぶ。鏡が無くても、自分の瞳が輝いていることがわかった。
「おはようございます」
創の金髪から、甘すぎないシャンプーの香りがする。この人のどこに惹かれたのだろう。じっと見つめたいが、失礼だ。彗はお辞儀をすることで視線を逸らした。
「道具はこっちにある。見てみる?」
博人に促されて、発掘現場の堀の土手に敷かれた青いビニールシートの方へと歩く。鍬やスコップ、園芸用の移植ごて、刷毛などが並んでいる。彗はしゃがみこんで、道具を隈なく見渡した。
「博人、これ何に使うの?」
シートの上には、中華料理用のおたまがあった。
「柱の跡とか、丸みのある穴を掘る時に使うんだよ。遺跡を傷つけないようにね。これも、おたまと一緒によく使うんだ」
博人は、先が反り返った銀色のシャベルを指した。
「先が曲がってる」
「そう。掘削用に自分で曲げたんだ」
「へえ」と驚く彗が顔を上げると、博人が嬉しそうに微笑んでいた。
「ようこそ、太古の宝探しへ」
博人が彗に手を差し伸べた。彗は少し逡巡して、博人の腕を掴んで立ち上がった。ライトグレーの作業着を探す。創は、持ち場に向かいながら、歌っていた。空中にひとつひとつ音符を放つように。他の作業員たちを見ると、創の歌に慣れているのか、皆、淡々と作業を進めている。
彗は目を閉じた。創の歌を聴く。高く澄み切った声だ。ひとの体は六十パーセントが水でできている。創の声で、彗の水面が揺らぐ。波立つ。目を閉じたまま、顔を上げて秋の太陽を浴びる。なんて幸せなんだろう。
発掘の経験がない素人の彗は、いきなり地面を掘ることを許されない。掘削した地面や出土物の写真を撮ることが、彗に与えられた最初の仕事だった。あちこちにいる作業員から、いっぺんに呼ばれる。思っていたよりも忙しい。
「あんた、前田くんの友達かい?」
老齢の女性作業員に問われ、彗は、「はい」と頷いた。真っ赤な口紅が印象的だ。心の中で、彗は女性を「遺跡おばちゃん」と呼ぶことにした。遺跡おばちゃんは、農作業用の麦わら帽子に手を遣りながら、彗に撮影する箇所を示した。ふわりと土の香りが立つ。落ち葉が微生物に分解されるときの匂いだ。冷たい風が、頬の熱を奪っていく。
「前田くんはいい子だよお。頭もいいし、真面目だし、何より優しいからね」
「ええ。博人は学振の一次選考に通ったんです。優秀ですよね」
「ガクシン?」
遺跡おばちゃんは、地面を丁寧に掘り進めながら、彗にてきぱきと撮影箇所を指し示す。
「日本学術振興会特別研究員の略ですね。若手研究者の登竜門です。才能がある学生を、早いうちに選び取るための」
「そうかい。青田買いか。前田くんは『先生』予備軍になるってわけね」
「はい。学生の間は、返済義務のない生活費と研究費が当たるんです」
「親孝行だねえ、前田くんは」
博人と違って親孝行じゃない。わかっている。母親の顔がよぎる。記憶の底で、母親はいつも彗をじっとりと見つめている。
「ぼくも応募したんですけど、二年連続で、一次で落ちちゃって。もう、研究者としての才能がないのかな、なんて落ち込んじゃって」
あっけなく落ちた自分自身が許せない。
「『ぼく』?」
遺跡おばちゃんは、帽子の庇を泥だらけの軍手で押し上げると、少し灰色に濁った眼で彗を見つめた。
「なんにせよ、諦めるのが早すぎるだろ! あんたなんか、うちの孫より若いんだから、絶望しないで頑張りな! おばちゃんなんて、もうすぐお迎えが来ちゃうってのに、太古のロマンを追っかけてるんだよ」
「失礼ですが、ご年齢は……?」
「いくつに見える?」
「七十歳、くらいかなと」
遺跡おばちゃんは、「勝った」と言って豪快に笑った。
「おばちゃんね、八十五。やったね」
ピースサインを作った遺跡おばちゃんにつられて、彗も吹き出した。体の中に溜まっていた暗いものが、空気の中へ溶けだしていく。
「彗さーん! 写真お願い!」
歌うような創の声が聞こえて、彗は背を伸ばした。今日これから起こることがいいことでも、悪いことでも、クリティカに報告しよう。顔を上げると、頭にタオルを巻いた創が、遠くで手を振り、眩しく笑っていた。少しでも早く創のそばに辿り着きたくて、彗は走った。
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