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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈4.創についての観察記録〉

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四、創についての観察記録

「それでね、創くんに土壌の断面を撮影してって言われて、けど緊張して手が震えちゃって。三回も撮り直したんだ」

学生食堂のテーブルの向こうで、朱色のタートルネックセーターを着たクリティカが頬杖をついた。長い黒髪は、今日は後ろで丁寧に編み込んである。

「彗。アイス溶けてる」
「わっ。ほんとだ。早く食べないと」
「理解できない。今日はとても寒いのにどうしてアイスなの?」
「クリティカ。寒い季節にめいっぱい着こんで食べるアイスが美味しいんだよ」

白いウールのマフラーに触れる。買ったばかりなので、ふわりと柔らかい。溶けかかったバニラアイスをプラスチックのスプーンで掬う。

「創くんが歌いながら作業するのはね、歌った方が捗るからなんだって」
「劇団北極星って、有名なの?」
「うーん。ミュージカル業界がよくわからないからね。どうだろう」
「彗は、研究ばかりしている。彗から研究を取ったら何も残らないと思ってた。けど、創ってひとを好きになったことで、世界が変わったみたいだね」
「そうかな」
「そうだよ」

クリティカが、大きな目を細める。口元に咲いた笑みを見て、彗も笑う。

結局、作っていったおにぎりは渡せなかった。創を前にすると、何も言えなかった。上手に握れなかったかもしれない。嫌いな味かもしれない。何より、自分が握ったものを気持ち悪いと思われたら、立ち直れない。家に帰って、冷たくなったおにぎりを、ひとりで三個食べた。

「でさ、クリティカ。進展があるんだよ。今度、発掘終わりに、三人で一緒にラーメンを食べに行くの。創くんが大好きなお店があるんだって」
「三人?」
「そう。博人と、創くんと、ぼくの三人」
「ふーん」

途端にクリティカの表情が曇った。クリティカは、感情をすべて顔に出すタイプだ。

「彗は、博人さんのことをどう思ってるの」
「どうって、信頼できる友人だよ」

クリティカが、目を閉じ、上下の睫毛を重ねた。

「博人さんとは、どこでどうやって知り合ったの」
「学部一年のフランス語の授業で。ぼくが思いっきり寝てて、教授に怒鳴られたとき、博人がフランス語で弁解してくれたんだ。ぼくは勉強のし過ぎで夜更かしをしてしまったって。おもしろいでしょう?」
「おもしろくない」

クリティカの脳に、お世辞を作り出す機能はない。クリティカは、横を向いて三つ編みにした髪を掴み、肩から前に垂らして弄び始めた。一度も染めたことがないという髪は毛先まで均一に黒く、少し乾いていてくせがある。

「そういえば、気になることがある」

気を取り直して、彗は少し冷めた緑茶に手を伸ばす。

「創くんが、『僕には時間がない』って言ってたんだ」
「どういう意味?」
「わからない。発掘調査が終わった時、妙に急いでた。早く帰らなきゃいけないみたいだった」
「どこか、行くところがあるの?」
「なんだか表情が暗くて、聞けなかった」

彗は、テーブルの上で両手を組んだ。

「創くんにも色々あるのかもしれない。ぼく、今まで自分のことばかり考えて生きてきたんだろうね。ひとの気持ちを想像できないんだ。幼いままだよ」
「彗は抱えているものが重すぎる。内向して当然。仕方がないよ」

クリティカに微笑んで、彗はスマートフォンを取り出すと、「劇団北極星」と検索した。俳優のページに、創を見つけた。画面の中の創は、目尻に皺を寄せて、屈託なく笑っている。

「何にやけてるの? 彗」
「これ。このひとが創くんだよ」

クリティカがスマートフォンを覗き込む。

「このひと……」
「クリティカ。創くんを知ってるの?」
「ちょっと待って。今思い出そうとしてる……。あ」

クリティカが手を叩いた。

「前、医学部に共焦点顕微鏡を借りに行った帰りに、病院の温室に寄った。このひとを、温室で見かけた。金髪だから印象が強かったんだ。間違いない」
「病院の温室……」

「病院」という単語が引っかかる。口を開こうとして、クリティカを見た。

「ねえ、クリティカ」

クリティカが彗を見た時、彗の背後から、クリティカを呼ぶ英語の声が聞こえた。声の主の男子学生は、高揚した様子でクリティカと会話を始めた。男子学生は、身振り手振りをまじえて、早口でまくしたてている。会話の内容を追った。どうやら彼は物理学専攻で、博士号取得の目処が立ったようだ。

博士号が欲しくて、それこそが一本道だと思って、彗は迷うことなく進んできた。果たして、道は本当に一本なのだろうか。そもそもきちんと三年で博士号が手に入るのだろうか。その先の未来は。急に足元がぐらつく。彗が立っている地盤は、思っているよりもずっと脆い。こんなにも不安定なのに、創に恋なんかしていていいのか。

「ぼくの人生を保証するものなんて、どこにもない」

男子学生が彗に目を向け、首を傾げる。クリティカが心配そうに彗を見た。

「彗。大丈夫?」
「なんでもない。ごめん、先に帰る」

秘密を打ち明けた時から、分かっていた。クリティカは、彗の言葉を受け止めるわけでも、彗に無理に寄り添うわけでもなく、彗が一人で立ち上がるまで隣で待っていてくれる。ありがたみと申し訳なさを噛みしめながら、彗は学生食堂を後にした。

まっすぐ家に帰ると、彗は、バスタブにお湯を張った。ストックしていた入浴剤を三袋全部入れ、何の香りかもわからない濁った緑色のお湯に浸かった。熱めのお湯が皮膚を刺激する。彗は、浴室の天井を見上げた。

「ぼくは、誰の背中を見て、どこへ向かって歩いていけばいい?」

答える者がいない浴室に、彗の言葉が反響する。体の輪郭にはきちんと丸みがある。腹部の傷跡は、ずいぶん目立たなくなってきた。

「会いたい」

ひとり呟いて、涙が出た。不安と絶望の涙だった。創に照らしてほしかった。世界が、彗の体が、明日からずっと何にも変わらなくても、このまま生きていかなければならない心もとなさを。もし、彗の体について、創に話したとして、創はどんな顔をするだろう。創は、彗を肯定してくれるだろうか。それとも。

風呂から上がった彗は、短い髪を乾かし、ダイニングテーブルに座った。買ってすぐ本棚に置いたハードカバーのノートを開く。表紙が綺麗な、魔法の書のようなノートだ。見開き一ページ目の第一行目に、紫色のインクのボールペンを滑らせる。

“長谷川創についての観察記録”

目を閉じていても、創がどんな顔をしていたのか、思い出せる。笑顔がまぶたの裏に刻まれている。ペンが走るカリカリという音が、彗を慰めるように、独りの部屋に響く。

“創のライフサイクル。平日は、劇団北極星で夕方まで稽古。稽古後、アルバイトに向かう。アルバイトは二種掛け持ち。平日深夜の交通整理、土曜は、遺跡の発掘。発掘のアルバイトは、十一月の中旬まで。「時間がない」としばしば口にする。理由は未だ不明。病院の温室での目撃情報あり”

創はいつ音楽と出会ったのか。どうして病院の温室に来ているのか。長谷川創という人間を研究対象として、データを取り、解析し倒したい。

「ほんと不器用だな。ぼくは」

彗は、こういうやり方でしかひとを理解できない。ふと顔を上げて、カーテンを開けたままの夜を眺める。雲間に月が見えたかと思えば、またすぐに雲に隠れてしまう。

創に、恋人はいるのだろうか。

>>第五話


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