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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈5.境界線〉

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五、境界線

見上げると、赤い看板に、金色の文字で大きく「来福飯店」と書かれている。ここで間違いない。手に力を込めて、結露した渋い引き戸を開けた。奥のキッチンで、中華鍋から炎が躍り上がっては消えていく。店内を見回す。天井からは、簡体字で何かが書かれた赤や白の提灯がつり下がっていた。テーブルには、お辞儀をする焼き物の人形が置かれている。息を吸い込むと、ごま油と色々な総菜の匂いが体の中に入ってきて、お腹が空いた。

「彗! こっち!」

博人の声がして、探す。入り口のすぐ左手の四人掛けのテーブルに、博人と創が並んで座っていた。飲み物だけを注文して、待っていてくれた。彗は上着を椅子の下にある箱に詰め込むと、創と向かい合うように、壁際の椅子に座った。彗はいつも白と黒の服を選ぶ。「女性らしい体型」を隠せるようにと選んだ、メンズのLサイズの白いニットはとても大きくて、腕まくりをした。

「何にする? ここは何でも美味しいよ。僕が保証する」

創の声を聞きながら、彗はメニューを凝視した。創を目の前にすると、つい視線が泳いでしまう。レンガ色のニットの袖から覗く創の手を見つめる。創は、白く滑らかできれいな手をしている。

「ラーメン以外もあるんだ。回鍋肉も美味しそう」

結局彗は、当初の予定通り、塩ラーメンを注文することにした。創に伝えると、創はいきなり大声を出した。

「おばちゃーん!」

キッチンから、六十代くらいの白いエプロン姿のおばちゃんが出て来る。彗と博人は、思わず顔を見合わせた。創は、中国語で注文している。おばちゃんは、頷きながらメモを取り終えると、彗と創を交互に指差し、冷やかすように笑った。

「創くん、中国語話せるの?」
「創でいいよ」
「ぼくも。彗でいい」
「わかった。彗ね。中国語は、おばちゃんと会話して覚えた」
「会話だけで?」

彗は驚いて店の奥を見た。おばちゃんが中国語で歌いながら、楽しそうに料理を作っている。

「創は耳がいいからな。高校の時も英語のリスニングだけは満点だった」
「うん。たいていの勉強は苦手で嫌いだから、他の科目の点数は酷かった。リスニングだけは好きだったから、頑張れた」
「創、さっき中国語で何話してたの? 最後のほう」
「内緒」

創が目元で笑った。目尻に皺が寄る。きっと、いままでたくさん笑ってできた刻印だ。「内緒」と囁くように言われて、彗の足が、なぜか微かに震えた。太腿の皮膚が、すうっと冷たくなる。

おばちゃんが両手に持てるだけの皿を乗せて、料理を運んできた。立ち上る湯気を吸いこむ。鼻の奥までが温かくなる。ラーメンをすすることが恥ずかしくて、彗はレンゲに乗せた麺をせっせと口に運んだ。

「彗。それは?」

創に首元を指さされ、彗は箸を置いた。彗は、あの日もらった翡翠の玉を黒い皮紐に通し、ネックレスにして首から下げている。

「博人にもらった。翡翠の玉だって」
「高貴な人が使っていたもののレプリカなんだ」

博人が、創を見て低く呟いた。創が、ほんのひととき沈黙し、「きれいだね」と呟く。博人は、「似合ってる」と囁き、目を細めた。普段は低く落ち着いている声が、微かにかすれた。黒いコーデュロイのシャツのボタンは、きっちり一番上まで閉じてある。博人はいつもそうだ。

創が、鳥皮のから揚げを三つ皿にとって、「召し上がれ」と彗の前に置く。

「彗は、どんな子供だったの」

難しい質問だ。彗は、答えるまでの時間稼ぎをするために、から揚げを一口齧った。油がしつこくなく、味付けの濃さも絶妙だ。

「研究とは無縁だった。特に生き物が好きってわけでもなかった」
「意外だね」

味噌ラーメンをすすっていた博人が、箸を止めて、驚いたような声を出した。

「実はね、音楽が好きだったんだ。オペラ歌手になりたかったんだよ」

心の中の柔らかな部分を剥き出しにした気がした。彗は、赤くなった顔をごまかすように、もう一つから揚げを頬張った。頭の中でさくさくと響く音に集中する。

「彗、声が綺麗だもんね。一時期だったとしても鍛えてたでしょ」
「うそ、わかるの?」

創は頷いて、喉に手を遣った。喉仏が小刻みに上下する。

「喉を絞って出してる声じゃない。体は楽器なんだ。鍛えないとその声は出ないよ」

彗は感心した。から揚げの欠片が、取り皿の上で箸からこぼれる。「優しい声だね」と創が呟く。博人が創を無言で見つめた。

「でも今は、科学者なんだ?」
「うん。ちょっと心境が変わってね」

本当は、十二歳の時、婦人科で診断を受けてから、母親が頑として彗の夢に反対し始めた。ある夜、大好きなプリマドンナのポスターが、壁から剥がされ、部屋の床でぐしゃぐしゃに丸められていた。ポスターを胸に抱いて、少女だった彗は泣いた。

今も、痛みは変わらず、胸に巣食っている。

「創は? いつからミュージカルをやろうと思ったの?」

創の黒い瞳を見つめる。データを取る時がきた。

「僕、劇団で子役やってたんだよ。だから最初は親が敷いたレール。五歳くらいの時からずっとミュージカルの世界に身を置いてた」

創の声は、いつも朗々と響き、空気を変える。見つめられたので、彗はテーブルの下で、いつものインディゴのデニムに包まれた両足をこわばらせた。彗は最低限しか化粧をしない。「男の子に選ばれないように」という母親の言葉に背くことが怖いからだ。もっと「女性らしい」化粧と服装で来るべきだったのか。とはいえ、彗はスカートを一着も持っていない。化粧品だってそうだ。

——ぼくは、創にとって恋愛の対象になり得るのだろうか。

「子役時代から舞台に上がってたんだ。すごいねえ」

彗は、普段より少しだけ高い声で相槌を打ってみた。媚びたような声色に自分で幻滅し、急に恥ずかしくなって、苦いものでも食べたような顔になる。

博人にも創にも、彗がY染色体を、SRYを持つことは伝えていない。もし、創との今の関係を先に進められる可能性があるとしたら。その時、果たして本当のことを言えるのだろうか。

——ぼくが秘密を明かしたら、創は何と言うだろう?

「彗」

創と博人に同時に呼ばれ、彗ははっと顔をあげた。自分の内なる世界から飛び出す。

「十二月の第二週に、ミュージカルの舞台があるんだ。だから、これ、よかったら」

創が、スポーツブランドの黒いショルダーバッグから取りだした茶色い封筒を、博人と彗に渡した。開けると、舞台の招待券が入っている。

「ポラリスの王国」

自分でも気づかぬうちに、彗は舞台の演目を口にしていた。

「僕、この舞台の主演。王子役だからこの髪色にしてるんだ。すぐ伸びて根元が黒くなるから、維持が大変で」

創が、髪に手を遣る。創の金色の髪は、柔らかいだろうか。あまりじろじろ見ると印象が悪いかもしれない。

「創。招待券、もらっていいの?」
「だって彗、ミュージカル好きでしょ? それに、博人から聞いてるよ。大学院生は劇団員と似てて、貧乏暇無しだって」

創が、隣の博人を小突いて悪戯っぽく笑う。創のレンガ色のニットがふわりと空気を含む。博人が彗を見て、目を伏せた。創は知らないのだ。博人がきっと学振DC2に採用されることを。博人と彗の経済格差は、残酷なほどに明らかになるだろう。このまま本当に、博士号を目指して進んでいいのか。

机の上に伏せてあった創の藍色のスマートフォンが震えた。画面を確認した創の表情が固まる。

「ごめん。電話」

創が慌てて席を立ち、店の外へと出た。すごく焦っているようだ。

「大丈夫かな」

扉に向かって呟く。創が出ていったときに発生した気流が、天井からぶら下がっている赤と白の提灯飾りを揺らした。創と入れ替わりで、四人連れの会社員のグループが店内に入ってきた。彗と同じくらいの年齢の人間もいる。スーツ姿の集団を見た瞬間、彗の心が揺れた。

「『まっとうに生きる』って、ああいうことなのかな」
「何が?」

博人がピッチャーを持ち上げ、彗のグラスに氷水を注ぐ。氷の角が滑らかに融けている。彗は博人に礼を言うと、そっと水をすすった。

「就職して、やりたくない仕事もやって、少なくとも自分一人は養える分のお給料をもらって、親に迷惑かけずに生きていくこと」
「彗」
「博人はもう『まっとうな側』だね。学振に採用されれば、生活費を稼げるわけだから。って。ああごめん。羨ましくて、妬むようなこと言っちゃった」
「彗。俺だったらいつでも、何でも聞くから」

スーツ姿の一団から視線を剥がし、彗は博人を視界に入れた。博人は、彗が博人を見る前からずっと、真っすぐに彗を見つめていた。

「博人は優しいね。いつもありがとう」

博人は、彗が言い終わらないうちに席を立った。彗の向かいの、創が座っていた席に移ると、博人はもう一度、彗を見つめた。博人の、大きくて骨張った浅黒い手が、彗の方へ伸びる。博人は、そっと、ごく弱い力で、羽根に触れるように、彗の白い頬を撫でた。ゆっくりと。それから博人は、彗の首元に指先を移し、翡翠の玉を愛おしそうにつまんだ。

驚いた彗は、動けない。博人は、はっと我に返ったような表情をして、「ごめん」と囁いた。

驚きから、衝撃へ、彗の感情は激流のように乱れた。博人が、彗との境界線を越えてきたのは、初めてだ。彗は混乱しながら、首に巻かれたネックレスを外した。博人に誤解を与えてしまったのか。これ以上、この翡翠の玉を身近に置くことはできない。

彗は、翡翠の玉をテーブルの上に滑らせ、二本の指で博人の前に置いた。博人の顔は強張り、瞳孔がどんどん縮んでいく。

「博人。だめだよ。ぼくは博人の『親友』でしょう。もう、これ以上はだめだよ」

博人は、翡翠の玉をズボンのポケットに入れると、俯いて顔を両手で擦った。顔を上げた博人は、千円札を二枚、机に置くと、彗を見ずに一言「今日は帰る。ごめん」と呟いて、その場を去った。

彗は、振り返らなかった。

博人と入れ違いに、創が戻ってくる。創の顔は、白く引き攣っていた。ばら色だった唇が色あせている。

「博人は?」
「ちょっと色々あって。今日は帰るって」
「ごめん。僕も帰る」
「え」
「彗のせいじゃないよ。急いで行かなきゃいけない所がある。時間がないんだ」

創は、博人と同じ額をテーブルに乗せ、「ごめん」と両手を合わせ、急いで黒いダウンジャケットを羽織ると、店から出ていった。

彗は一人、冷めていく塩ラーメンの水色の器を見つめた。麺が水分を吸って膨れていく。今日書く予定の創の観察記録は、散々なものになりそうだった。

創に恋人がいるのかを探りたくても、まだ創の連絡先すら聞けていない。

>>第六話


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