ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈16.カーテンコール〉
明るくなった劇場を、万雷の拍手が揺らす。やがて拍手は、一定のリズムを刻み始めた。カーテンコールだ。
えんじ色の幕が開く。舞台の上には、役者が一列に並んでいた。皆、深々と頭を下げる。端から順に、役者が中央に進み出て、お辞儀をしては舞台袖に消えていく。一番最後の創の番が来た。創は、彗が出会った時の創だった。金色に輝く光の集合体だった。
彗は、誰よりも早く立ち上がった。創の目が、彗に焦点を合わせた。永遠にも思える、長い長い一瞬。彗に続いて、スタンディングオベーションの波が劇場をさらっていく。視線を感じて、右側を見た。星南が彗を見つめていた。目に感情がない。彗が瞬きをすると、星南はいつも通りの明るい星南に戻っていた。
「クリティカ。どうだった? 日本語の舞台」
今日は長い髪を結んでいないクリティカは、「うん」と言って、腕を組んだ。
「とても良かった。内容も理解できた。私が好きな文化圏に近い設定だったから嬉しかった。ただね」
クリティカの眉は、歪んだままだ。
「誰かさんの妹が開演前に言った言葉のせいで、あまり集中できなかったよ」
「クリティカ。説明するから」
クリティカの冷ややかな視線を横顔に受けながら、ロビーへと出る。
「とっても面白かったね! 博人さん」
萌香が博人を見上げながら、はしゃぐような声を出していた。彗に気が付くと、萌香は博人の腕を叩いて知らせた。博人が彗を見て、目を細めた。
——星南は?
彗は辺りを見回した。星南の体調はどうだろうか。客席への入口を振り返ると、菅原が星南の車いすを押して、ロビーに現れた。
「星南ちゃん、体調はどう?」
「うーん。すっごく楽しかったけど、ちょっと疲れちゃったかも」
「菅原さん、星南ちゃんは?」
菅原は、おだんごの髪に触れて、「うん」と星南を見た。
「疲労だね。大きな心配はないと思うよ」
彗はほっとして、星南を見た。星南の目元が黒くくすんでいる。
ロビーから、ざわざわと歓声が聞こえた。何事かと思って声のする方へ向き直ると、役者たちが現れ、観客に手を振っていた。反射的に創を探す。列の端に、創がいた。
「菅原さん。私、お兄ちゃんに直接花束を渡したい」
「そうだね。いいと思う。星南ちゃん、もうひと頑張りできる?」
星南は、頷いた。
星南と共に、人だかりを目指す。創はすでに、多くの観客から花束を受け取っていた。順番を待って、星南が最前列に辿り着いた。彗は星南の後ろに立つ。創と星南が向かい合う。創は、役者の顔をしていた。ミリム王子のままだった。彗はなぜか少し安心した。星南がブーケを創に掲げる。創は屈んで花束を受け取り、王子様のお辞儀をして、「ありがとう」と声を張った。
星南の笑顔が、眩しかった。彗の思考回路は、彗の良心が止めるのも聞かずに勝手に空転し始める。星南はいい。一目で病気と分かる。抱えている問題が目に見える。彗は違う。彗が体のことでどれだけ深く悩んでいるかは、誰の目にも見えない。彗はとんでもないことに思い至った自分に恐怖し、考えたことをすぐに滅却した。
星南と菅原を乗せたタクシーのエンジン音が遠のいていく。
「彗」
振り返ると、博人がいた。横に、上等なコートに身を包んだ萌香が立っている。
「よかったらこの後、四人でお茶でもしませんか? ミュージカルの余韻に浸りたいですし」
萌香が言って、また博人を見上げる。彗は気が進まない。
「ごめ——」
「いいね、行きましょう」
クリティカが彗を制した。クリティカは何かを企むように笑っている。
「じゃあ、前から気になってたこのカフェ、行きません?」
「どこでもいい」と彗は思った。今は静かに、まぶたの裏の創の面影を追っていたかった。
四人で歩く道中、前を行く萌香と博人は、他愛のない話をしていた。オーケストラ部の定期演奏会の話、萌香の友人の話。最近買った服の話。「どうでもいい」とまた彗は思った。萌香の存在が、静かな夜を乱すノイズに思えた。
辿り着いたカフェで、やはり萌香は博人の隣に座り、しきりに博人を見つめ、微笑んでみせる。クリティカは、言葉少なく相槌をうち、頬杖をついてゆっくりと目を動かしている。注文していたパフェが運ばれてきた。「可愛い!」と萌香が叫んで、パフェの写真を撮る。彗は、目の前に鎮座するチョコレートパフェを見つめた。胸がいっぱいで、もう何も食べたくない。
「一条さんって、ミリム王子の彼女さんなんですよね? いつから付き合ってるんですか?」
萌香がいきなり核心をつく。「ミリム王子」という呼称が不快だ。
「答えたくないな」
彗は言葉で拒絶した。クリティカが少し驚いた顔をする。博人は、彗の斜め向かいで遠い目をしていた。博人が、ゆっくりと焦点を合わせるように彗を見る。博人を見上げ、萌香がふくれたような口をした。
「答えたくないって。一条さん、本当にミリム王子と付き合ってるんですかあ?」
萌香が彗の言葉に食らいつき、鼻で笑う。質が悪い。
「どうぞ、ご随意に解釈なさってください」
萌香があからさまに不快そうな表情になる。彗はチョコレートパフェにこんもりと乗った丸いアイスクリームを一さじ掬って、無理矢理口に入れた。たしかに濃厚な味がする。けれど、創と一緒に食べるアイスの方が、ずっと美味しい。
「萌香。言いすぎだろ」
博人がたしなめる。けれど萌香は、きっと彗を睨んだ。
「博人さん。どうして一条さんを庇うんですか? 今悲しい思いをしているのは、一条さんじゃなくて、私です」
クリティカがヒュっと口笛を吹く。クリティカが隣にいてくれてよかった。
「萌香さん。そのネックレス、きれいだね」
クリティカが何食わぬ顔で爆弾を投下した。クリティカには、来福飯店の一件を話してある。彗はテーブルの下でクリティカを小突いた。
「博人さんにもらったんです。一週間ずーっと欲しい欲しいって言い続けて、やっともらえたんですよ。翡翠の玉です。高貴な人物が身に着けていたんですよ」
「へえ」
クリティカと萌香の言葉の温度差が激しくて、彗は笑いをこらえた。萌香は、彗に見せつけるように、翡翠の玉を右手でつまんだ。
「萌香さんは、結婚願望とかあるの?」
彗もまた、爆弾を投下した。博人の唇が強張っていく。萌香は一瞬驚いて、すぐに夢を見る少女のような甘い声を出した。
「あるに決まってるじゃないですか。女の子の幸せは、王子様に選ばれて結婚することでしょ。それから……」
彗は萌香の言葉を待った。萌香ははにかみながら、博人の横顔を凝視した。
「子供を産んで、家族を増やして」
クリティカがくるりと目を回した。萌香は、一見品がよく、健康そうで、気も強い。男の子を夢中にさせ、引っ張っていくタイプだ。
「じゃあ問題ない。萌香さんは、博人と素敵な家庭を築けばいい」
さすがにクリティカが彗の足を踏んだ。クリティカは、今にも吹き出しそうになるのを必死でこらえている。
「美味しかった。食べかけだけど。お金はここに置いていく」
彗が席を立つ。クリティカも立ち上がった。
「あの、一条さん」
「なに」
「私、あの子知ってます。ミリム王子の妹さん」
萌香は、博人の腕を掴んで言った。
「大学病院の、脳神経外科病棟で。私、医学部生なんですよ」
「だから?」
萌香は声を潜め、口の右端を持ち上げた。
「あの子、もう長くないんじゃないかな」
「は?」
彗の頭に血が上っていく。
「今日、舞台を観に来られてよかったですね。いい思い出になったかな」
萌香は、三人にだけ聞こえるように囁いた。彗の中にある防波堤が、成す術もなく決壊する。博人が驚いた顔をして、すぐに萌香を見下ろした。
「やめろ萌香。いい加減に——」
「博人さん、怒らないで! 私、ただあの子が可哀そうだと思っただけなの。重い十字架を背負っているあの子が不憫だって!」
萌香は、あろうことか、目に涙をためて博人を見上げた。本気で萌香を怒鳴ろうとしていた博人が、一瞬怯む。しかし彗には、こんな小芝居は通用しない。
「守秘義務違反って知ってる? よくそれで医者になろうとしたね」
「はい?」
萌香が彗を本気で睨んだ。人を見下すことで、自分を保ち続けてきた目だ。星南を使って彗を挑発してきたことは絶対に許せない。彗は、萌香を睨み返した。
「医学部生として重罪。許されない発言だから、いますぐ撤回して」
「博人さん、このひと怖い……」
萌香が博人に縋った。萌香は、表情だけで彗を嘲った。彗は博人を見た。博人の目には、もう何も映っていなかった。
「あんたに医者になる資格なんて微塵もない。最低だよ」
彗は言い捨てて、カフェを出た。
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