ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈24.真冬の海〉
二十四、真冬の海
冬の海を見に行こうと思った。彗は、札幌駅から海辺の町へ向かう普通列車に乗った。古い車両の椅子に、進行方向を向いて座る。発車すると、暖房と心地よい振動が眠気を誘った。
ここ三週間は、研究に全てを捧げた。コンタミした細胞を廃棄し、清潔を取り戻したインキュベーター内で、再度細胞の培養を始めた。クリティカがいなければ、阿藤研究室は壊滅していただろう。阿藤は、腐った細胞を発見できなかった自分を責めていた。当の中井本人は、反省してはいるものの、阿藤との折り合いが悪いという表面上の理由で、別の研究室に移ることになった。
「疲れた」
誰にも聞こえないように、空気の音だけで呟く。観光客らしきひとたちが多数乗車している。終着駅の観光地を目指すのだろう。海外の香水の匂いが、衣服や皮脂の匂いと混ざり合っている。彗はバイブだけのアラームを設定し、暫し眠ることにした。
ぶぶぶ、とスマートフォンが鳴って目を覚ますと、目的地から二つ前の駅を通過したところだった。車窓の景色が、海岸線へと変わっている。冬の日本海は、鈍色に重く沈んでいるが、なぜかその沈鬱な色彩を恋しいと思う。車内にアナウンスが流れ、目的地に到着した。
観光地からは二駅離れた、小さな港町だ。冬の海で海水浴をしている人間はもちろんいない。潮の匂いを巻き上げてごうっと北風が鳴り、彗の短い髪が空中で乱れた。夏なら、このまま海岸を歩くのもいい。けれど今は寒すぎる。彗は、ベージュのダウンジャケットに身を埋めるように縮こまり、ポケットに手を入れて、凍てつく向かい風の中を進む。
喫茶店「海箱」の扉を開けると、レモングラスの香りがした。スズランの形をしたランプシェードが拡散する、電球の灯りが温かい。古い石造りの店内には、磨き上げられた木のテーブルが一つと、周りに六脚の椅子がある。座席はそれだけだ。玄関に入って真っすぐ向かい合う壁は、一面がガラス張りになっていて、海がよく見える。窓の右側の壁は、床から天井まで本棚に覆われている。薪ストーブの中で蠢く炎は、生き物のようで、つい見入ってしまう。
「おや、ひさしぶり」
入り口の左側にあるキッチンから、マスターが顔を出す。横に流した清潔な白髪の上に、お気に入りだと語る鳥打帽。カーキ色のエプロンの下の白いシャツのボタンは、一番上まで律儀に閉まっている。
「お久しぶりです、マスター」
彗は微笑んで、海が一番よく見える席に座る。マスターが「いつものね」と呟くと、彗は静かに頷いた。しばらく経って、深煎りの珈琲と、リキュールがかかったプリンが運ばれてきた。彗は礼を言って、また海を見る。この喫茶店に来るときはいつも、なぜか心に闇がたまっている。海を見ていると、心の底の方で凝集した、情念とも言える思いが、少しずつ、少しずつではあるが、波にさらわれ、海の彼方へと漂い流れていく気がする。目を閉じると、店内に微かに流れていたフルートの調べに気付いた。心地よい。
午後四時三十分。もうすぐ日が落ちる。夕刻の海辺を見に、彗はここに来た。群青、橙、朱、そして赤。色彩のグラデーションに見守られながら、金色に輝く太陽が、灯台の向こうに沈んでいく。落日のあと、水平線がばら色に染まるまで、彗はじっと外を見つめていた。
「どうしたの、今日は」
声のする方に顔を向ける。暖色の照明があちこちで光っていた。
「ちょっと、ひとりでぼーっと海が見たくて」
「そう。これ、サービスね」
マスターが、焼き立てのバタークッキーを皿に乗せて、彗の前に差し出した。彗は礼を言って、クッキーを頬張る。このクッキーが、クリティカのセルロティに次いで二番目に好きだ。
「美味しい。ありがとうございます」
「ゆっくりしてってよ。日常を忘れてもらうために作った喫茶店なんだから」
彗は、俯いた。
「どうかした?」
「いのちには限りがあるんだなって思って」
「なに、急に?」
彗は、黒いショートヘアを少し撫でて、考えを整理しようとした。できなかった。黒いニットの袖の、毛糸を抜こうとする。
「ぼくの大切なひとがいて。そのひとの妹さんのいのちは、長くは続かないとわかっているんです」
隣で、マスターが息を吸った。
「その子には会ったことはあるの?」
「三週間前にも会いました。けど」
「何かあったんだね」
「どうやらぼくは、その子に完全に嫌われてしまったみたいで。ちょっと色々、深く関わりすぎてしまったのかな」
「本当に、それだけ?」
それだけでは、なかった。
「その子はぼくに対して、決して許されないことを言いました。どんな事情があったとしても、言ってはいけないことでした」
「君がそこまで思い詰めるんだ。よっぽどのことを言われたんだね」
彗は、はっとしてマスターを見た。マスターの穏やかな瞳が、彗を包み込むように頷いていた。
「ぼくの息子がね、二十年前に二十二歳で死んだんだけど」
彗は、息を止めた。マスターの唐突な告白の、続きの言葉を待つ。
「交通事故だった。お別れを言えるはずもなかったよ。最後の日の朝、息子と喧嘩をしたんだ。それが悔いとして今でも残っていてね」
マスターは、瞼の裏に焼き付いた我が子の影を愛おしむように、そっと目を閉じた。
「君に、後悔はないのかい?」
マスターは、濃紺に染まっていく水平線を眺め、それから、ストーブの中の薪の残量を確認しに立ち上がった。
——ぼくは、創が星南ちゃんを想っていることを、星南ちゃんに伝えられていない。
彗は、下唇を噛んだ。どれだけ星南に譲歩したとしても、真実を伝えることなど、決してできそうになかった。
「こうなるしかなかったのかもしれない」
海へ呟いた彗の視界の端で、マスターがコーヒーカップを磨きながら、寂しそうに笑った。
彗の中で、もう一人の彗が囁く。
——その時が来たら、ほんとうに後悔などないと言い切れるのか?
全話収録のマガジンはこちらです
