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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈23.コンタミ〉

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二十三、コンタミ

一月第二週。一限の講義室は、まだ寒い。真剣な目をした理学部生物学科の学部二年生たちが、ウールのコートやダウンジャケットを着たままで、阿藤の講義を受けている。阿藤の講義中に寝る者は一人としていない。授業計画に、「講義中に講義と関係ないことをした場合は、単位を与えない」と明記されているからだ。「美人すぎる鬼教授」という噂が流れているので、阿藤の講義を受けるのは、やる気のある学生に限られる。この子たちの中から、将来、生殖遺伝学研究室の門を叩く者が現れるかもしれない。

彗は、阿藤の補助として、講義中に資料を配ったり、課題レポートの回収をする。ついでに講義も聴けるので復習にもなる。彗が気に入っている時間だ。

ふと、星南の涙が蘇る。彗の胸がその度に疼く。古い教室の窓は凍り付き、霜が窓ガラスに唯一無二の抽象画を描いている。阿藤が彗に目くばせをするよりも一瞬早く、彗は講義室へと視線を戻した。

「このように、アマミトゲネズミはY染色体を持ちません。それなのに、どうしてオスとメスが両方存在しているのでしょう。わかるかな? わかったら挙手してください」

すぐに四人が挙手した。授業計画に、「講義に積極的に参加する姿勢を評価する」こともまた明記されているからだ。一番早く手を挙げた、最前列の端に座る紺色のダウンジャケットを着た青年が、阿藤に指された。

「SRY遺伝子は雄性化のスイッチです。アマミトゲネズミには、SRYに代わり、スイッチとしての役割を果たす遺伝子が存在すると考えます」

この子はモノになる。話し方を聞いて彗は直感した。阿藤が上機嫌になって頷く。

「素晴らしい考察です。Y染色体がなくても、雄性化の仕組みは存在します。性とは大変複雑な現象なのです。私が性についての研究を始めてから、二十年以上が経ちました。まだ、答えには到底辿り着けません」

講義室が知的な一体感に包まれる。阿藤は講義が上手い。もっとも、やる気のある学生にとっては、という条件付きでだが。

講義が終わり、彗は課題レポートの回収にとりかかった。阿藤は学生たちに取り巻かれて質問攻めにあっていた。人気がある講義を手伝えることは嬉しい。今回の講義も大成功だ。

「阿藤教授!」

講義室の入り口で大きな声が聞こえた。何事だろう。彗が振り返ると、阿藤研究室、修士課程一年の森川圭太が、息を切らし、立ち尽くしていた。

「森川くん、どうしたの?」
「教授……。細胞が!」

阿藤の顔色が、さっと変わった。鬼の顔をしていた。

午前十一時の細胞培養室で、白衣を着た学生たちの集団が、どよめいている。

「これもダメね。培地が濁っている。pHも急激に下がっている。ピンク色だった培地が、黄色い。細菌が混じり込んでいる。典型的なコンタミよ」

阿藤が、今まで見たこともないほど険しい顔をして、実体顕微鏡を覗き込む。インキュベーター中の培養細胞が、細菌で汚染されたのだ。

「これでシャーレは全部ね。全滅だわ」

皺ひとつない白衣を纏った阿藤が、目を閉じて、上を向き、こめかみを押さえた。

「インキュベーターに入っているシャーレはすべて廃棄。それから、インキュベーター内の徹底洗浄をするから、業者さんに連絡」

彗は、愕然とした。心血を注いでやっとの思いで育ててきた細胞が、全て廃棄処分になるなんて。

「中井君。自分のしたことの重みは理解している?」

学部四年の中井和樹が、顔面蒼白になり、震えていた。ずいぶん長い間洗っていなさそうな白衣は、コーヒーや醤油の染みだらけだ。髪も洗ったり洗わなかったりしているのか、少し臭う。

「すみませ……」
「無菌操作が甘かった。気づいていたはずなのに、改善しなかった。インキュベーターの一番上の棚にシャーレを置いた。面倒だから継代をしなかった。シャーレを棚の隅に移動して、培地交換なしで年末年始帰省した。つまり、腐った細胞を、一番上の棚に隠して放置し続けた。その結果、インキュベーター内の全てのシャーレが次々と細菌で汚染されていった。私が言っていること、理解できるかな?」

中井は、目を何度も閉じたり開けたりして、ついに頷いた。

「しばらく反省して。研究室には来なくていい。私は今、君に時間を割けない。真面目に研究をしている君の先輩たちのフォローに入らなければならないから」

阿藤の鬼の顔が、研究室のメンバー全員の記憶に刻まれた。彗は周りを見回した。その場にいる誰もが、今にも床に崩れ落ちそうになっている。

「どうしよう……。貴重な細胞なのに……。まだストックしてないよ……。今日継代して、シャーレを増やして今週中にストックしようと思ってたのに……」

博士課程二年の小川真智が、頭を抱えて座り込む。座り込みたいのは彗も同じだ。クジラの細胞は入手ルートが限られる。やっと手に入った細胞を増やし、冷凍保管しようと思っていた矢先に、事件は起こってしまった。

「このままじゃ、博士論文が書けないよ……」

小川が、絞り出すように呟いて恨めしそうに中井を睨む。中井は、後ずさりして培養室から去った。

「あいつ、出禁だな。最悪破門だよ」

彗の隣で、博士課程三年の清水咲人が囁いた。

「はい! 切り替えよう! 今からできることしかできないから、何としてでも取り返すよ!」

阿藤が手を叩く。皆がはっとした。阿藤の頼もしさに、彗は感動した。そういえば、クリティカの姿が見えない。そのとき彗の脳裏で、ちいさな歯車がひとつ、噛み合った。

「あ……!」
「一条さん、どうかした?」
「なんとか、なるかもしれないです」
「どういうこと?」

培養室に集った全員が、彗の言葉を待った。

「ちょっと、待ってください」

スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを起動する。小刻みに震える指でなんとか通話ボタンを押す。四回目のコール音が鳴った後で、通話がつながった。

『彗?』
「クリティカ。今どこ?」
『機械部屋』
「実験中?」
『今終わった』
「クリティカ、早く戻ってきて!」

クリティカが、ドライアイスが入ったサンプル箱を抱え、息を切らして培養室に現れた。

「細胞、あるよ」

クリティカが、いつも通り不敵な笑みを湛える。皆が、再びどよめいた。

「私、細胞コレクターですから」

実験室の一角。クリティカが秘密裏に管理しているタンクがある。タンクはクリティカが「くすねた」液体窒素で満たされている。蓋を開けると、白い霧が溢れ出た。軍手をはめ、細い棒状の金属のケースを取り出す。何本もの細胞のチューブが、整然と保管されていた。タンクの後ろの壁には、細胞のリストが貼ってある。

「すごい……。細胞の由来動物種、遺伝子操作の有無、保管した日付、誰の何の実験の細胞か。全部正確に書いてある……」

死にそうだった小川が、血走った目をして、自分の細胞を探す。

「あった……! ありました!」

小川が、深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。

「クリティカ、いつの間に?」
「小川さんに、百円貸した。返さなくていいから、細胞を下さいって言ったら、分けてもらえた」
「ああ、あの時の」

小川が、泣き出しそうに震えながら、「ありがとうございます」とクリティカに手を合わせた。

「全員分の細胞があります。大丈夫。ちゃんと許可を取って分けてもらったものだから」

阿藤研究室の全員が、クリティカを拝んだ。

「液体窒素をくすねていたのは……。まあいいわ。不問よ。クリティカさん」

阿藤が、凝り固まっていた両肩を下げ、心からほっとした表情を見せる。

「さあ。まずは業者さんに電話。インキュベーターが洗浄されたら、クリティカさんのストックを起こして培養をスタートしましょう。ストックは一本きりよ。無菌操作、培養の手技に狂いがないようにね」
「はい!」

全員が叫ぶ。彗は安堵した。これから約三週間は、細胞培養にかかりきりだ。創の顔が浮かび、次いで星南の叫びがまた蘇る。彗は頭を振った。今だけは、研究に、サイエンスに逃げていたかった。

>>第二十四話


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