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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈22.病室の天使〉

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二十二、病室の天使

星南から、可愛らしい猫のスタンプが送られてきた。

『あいたいな。彗さんと二人で話したい』

一月十日。年が明けて、まっさらな新年も少しこなれてきた。病院の一階の、淡水魚の水槽の前で立ち止まった。紅白の鯉と、鯉のように大きく育ったオレンジ色の金魚。魚は感情を持つのだろうか。艶めかしく人工の岩の間を泳いでいく淡水魚たちは、あの大水槽に移されてから今まで、何人の患者たちをその目に映してきたのだろう。

エレベーターを五階で降りる。ナースステーションの前を通り、看護師たちに会釈をする。すでに顔見知りの看護師が何人かいる。廊下の突き当たりから二つ目の個室。ドアをノックする。中から、咳き込む声が聞こえて、彗は慌ててドアを開けた。

「星南ちゃん!」

苦しそうな表情で、星南が口を押さえていた。どうしよう。ナースステーションまで戻ろうか。

「なんちゃってー! びっくりした?」

星南が笑って、両手をひらひらと振る。

「あー。びっくりした」

安堵の息を吐く彗に、星南はピースサインを作ってみせた。星南の鼻に、カニューレが挿入されている。クリスマスに会った時は無かった。星南は、背もたれが起こされたベッドにもたれた。明らかに、星南はやつれている。

「ごめんね。今日はほんとにちょっとだけ具合悪い」
「大丈夫? ぼくと話していて」
「大丈夫だよ。ちょうどさっき点滴も終わったし」

テーブルに目を遣ると、彗がプレゼントした教科書と、ノートが開かれていた。

「勉強してるんだ」

ノートには、丁寧に書かれた文字が、整然と並んでいた。

「セントラルドグマとか、細胞周期とか、おもしろい」
「星南ちゃんすごい。高校生が言う台詞じゃないよ」

星南は、肩をすくめて、くすくすと笑った。

「星南ちゃん、今日はどうした? ぼくを指名するなんて」
「指名って、彗さんはホストじゃないんだから」
「ホストって。星南ちゃんその言葉、どこでおぼえたの?」
「内緒」

星南は、ひとしきり笑うと、「ガールズトークだよ」と首を傾げてみせた。星南の瞳が、心なしか淀んでいる。

「ガールズトーク?」

星南が思い切り頷く。

「まあ、看護師さんともガールズトークはできるけどね。でも他にも患者さんはいるし、看護師さん忙しいし」
「ぼくでよければ」

星南は、急に声をひそめた。

「ね。お兄ちゃんと、どう?」
「え?」
「私ね、とうとう生理とまっちゃった」

清潔な病室に、血の匂いが漂った気がした。彗は、経血の匂いを知らないのだけれど。言葉に窮した彗を見て、星南は口元だけで笑った。彗は再び、強烈な違和感を覚えた。天使だと思っていた星南が、今、堕ちていく。

「この世に爪痕を残したいっていう、私の気持ち、彗さんには理解できる?」
「どういうこと?」
「私にはお兄ちゃんしかいない。私はもうすぐ死ぬ。だから子供が欲しかったんだ。お兄ちゃんの子供」

論理に飛躍がある。彗が一瞬考えた間に、星南は彗に真正面から視線をぶつけた。その圧に、彗は押し負けた。

「彗さんはいいよ。何の病気もなくて、健康で。普通に子供が産めるんだもん」

星南の瞳が呻いている。両の目の瞳孔が開いていく。彗は息を吸って、止めた。

——ちがう。ぼくは。

「彗さんとお兄ちゃんは……。はあ。最低だよ」
「星南ちゃん、どうした? 体調が悪いなら——」
「やめてっ! 偽善は嫌いなんだよ!」

星南が叫んだ。肩が震えている。

「大っ嫌い。彗さんなんか、大っ嫌い」

大粒の涙が、星南の両目から溢れた。

「私にもし、もう一度髪が生えたら、そんなに短くしない。もっと女の子らしく、長くてさらさらの髪にする。服装だってそう。黒と白ばっか。スカートも履かないなんて、女子としてどうなの? もっと男に気に入られる格好しなよ。イライラするんだよそーゆーの!」

今の星南は、獰猛な獣のようだ。創の舞台の日、きらきらと輝いていた純真な星南は、もういない。彗は、激しい怒りを覚えた。男性に気に入られるために生きているわけではない。

「もっと生きたかった。私だって『女の子』がしたかった。もし彗さんといのちを交換できたら、そしたら、彗さんなんかよりずっと、ずっと有意義に生きるのに」

星南は両手の指を開いた。指先が大きく震えている。運動野に腫瘍が浸潤しているのか。もしかして、感情のコントロールがきかないのも、腫瘍のせいなのか——。

「もう抗がん剤も効かない。手術もできない。そのうち、生命維持を司る場所が腫瘍に押しつぶされる。そうしたら私は死ぬ」

星南は、彗を睨み上げた。

「あんただけは許さない。私からお兄ちゃんを奪ったあんただけは」

星南は、血走った目に涙をためて、引き攣った唇を噛んだ。

「ねえ星南ちゃん。もうやめよう。すこし落ち着いて」
「うるさいっ!」

星南が、渾身の力を振り絞って、教科書を彗に投げつけた。顔を庇った腕に当たった教科書は、どすんと音を立てて床に落ちた。彗が講義中に貼った付箋がひとひら、剥がれて空中を舞い、遅れて床に落ちた。開かれたページには、細胞周期の図解があった。カスケードは、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。

星南は、ぜえぜえと肩で息をしている。星南の全身が震えている。彗は、ナースコールを押そうとして探した。気付いた星南が、彗からナースコールを遠ざける。

「星南ちゃんは誤解してるよ。子供を産めるか産めないかで人間の価値は決まらない!」
「は? 何それ? 子供を産めない女になんて、誰がなりたいの?」
「違う違う! それ、言っちゃいけないことだよ。ぼくはね、そんなことを意図したわけじゃ——」
「だからぼくぼくって。それが腹立つんだよ!」

彗は、あと少しで星南を怒鳴りそうになっていた。産めるか産めないかというカテゴリーに、無理矢理すべての人間を当てはめようとする星南を許せなかった。星南は知らないのだ。多数派ではない人間たちの苦しみとやるせない思いを。どれだけのひとが、どんなに心をぼろぼろにして、笑顔の裏で無理をして「普通」に擬態せざるを得ないかを。子供を産めるか産めないかで、幸せは決して決まりはしないのに。

廊下から、足音が聞こえてくる。

「星南ちゃーん。どうしたかなー?」

菅原看護師が部屋に入ってきた。菅原は、星南と彗、それから床に落ちた教科書を順に見ると、星南に視線を固定した。

「菅原さん! ひどいんだよ。彗さんがいきなり、教科書で私を叩こうとしたの」
「え……?」
「ねえ、彗さんを出禁にして」
「いや、ちがうでしょ星南ちゃん」

彗は焦った。言葉に怒りがにじむ。

「私、悲しい!」

星南は肩を震わせ、大粒の涙をこぼし始めた。

「ちょっと……いい加減に」

彗の肩に、菅原が手を置いた。星南に気取られぬよう、菅原が三度、手に力を込めた。

「とりあえず、外でお話伺いますね」

菅原が彗の背を押し、病室の入口へと向かう。彗は一度だけ振り向いた。星南が、どす黒い瞳をして、口元を歪ませていた。ピンク色のキャップがずれ、髪の毛がまばらに生えた頭皮がのぞいていた。

ナースステーションの奥のスペースで、腰掛けるよう促された彗の心は乱れている。

「ごめんね。辛かったね」

菅原が、褐色の紙コップに入ったコーヒーを、彗に差し出した。

「あの、ぼくは、星南ちゃんを叩こうなんて」
「もちろんだよ。あなたはそんなことしていない。床に落ちた教科書の位置からも明らかだよ」
「お兄さんと一緒に来た時とは、別人のようでした」

菅原は、コーヒーをすすり、紙コップを両手で持ちあげた。

「最近はね、時々あんな感じなんだ。星南ちゃん」
「そう、なんですか」
「うん。星南ちゃんはまだ幼くて、余命のこともわかっていて、色んな感情がごちゃ混ぜになっているんだと思う。星南ちゃんの病気は確実に進行している。単純に体調が悪いんだ。だから、ごめん。許してあげて」

菅原が頭を下げた。

「菅原さん。頭を上げてください。星南ちゃんの事情は分かりました。でも、ぼくは」

彗は、膝の上で両手を握りしめた。

「ぼくは、今日の星南ちゃんを許すことが出来ません。人間としての尊厳を傷つけられる発言でした。十七歳だからとか、病気があるからとか、事情があるにせよ、ぼくは深く傷つきました」

嘘ではない涙が溢れて、彗は一度天井を見上げた。ふっと息を吐く。苦しければ、「苦しい」と言っていいのだろうか。

「気持ちを落ち着けるために、ぼくには時間が必要です。しばらく、この病棟に来ることはないでしょう」
「一条さん……」
「どんな事情があったとしても、先ほどの星南ちゃんの発言は、看過できません」

彗の脳裏に、悪魔の顔をした星南が蘇った。創の前では、決してあんな顔をすることはない。境界線を越えて来た星南を、許すことはできなかった。

「帰ります」
「ごめんね」
「菅原さんが謝ることではないです」
「一条さん。最後に言わせて。星南ちゃんは、ただ、もっと生きたいだけなの」

エレベーターを降り、一階のロビーを歩く。大水槽の前で再び立ち止まった。水中を滑らかに泳ぐ魚たちを、何となく見つめる。水槽に映った顔に気付く。何も見ていないような目だ。思い切り傷つけられると、感情が閉じるのだと知る。

『子供が欲しかったんだ。お兄ちゃんの子供』

星南の、鋭利な刃物のような狂気にあてられて、彗は呼吸をすることすらままならない。

「おんなじだ」

大きくなり過ぎた金魚に向かって呟く。

「創の子供が欲しいのは、ぼくも同じなんだ」

彗は奥歯を食いしばった。星南に対する際限のない怒りが蘇る。彗の体は、たしかに子供を宿すことが出来ない。けれどその先に、彗はかすかな希望を見出しかけていた。星南にひどいことを言われて、彗はついに言い出せなかった。

創が、ほんとうは星南に想いを寄せていることを、星南に。

>>第二十三話


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