ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈21.新年とありのままの体〉
おかしなことが起きている。
「クリティカー。クリティカが見たいって言ってた演歌歌手出るよー!」
「創! ぼーっとテレビばかり見てないで手伝え!」
クリティカの部屋に、家主の怒号が飛ぶ。彗は首をすくめた。青と赤紫のパッチワークの布団のこたつの向かい側で、グレーのスウェット姿の創がテレビを見ながら、だらしなくお煎餅を食べている。クリティカは病院の温室で創を見かけたことがあると言っていたが、二人が話すのは今日が初めてだ。創は、もうすっかり打ち解けている。創の才能の一つだ。
「ごめんクリティカ。ぼくがやる」
彗はこたつを抜け出すと、キッチンに向かった。口をとがらせてねぎを刻むクリティカの横で、使い終わったボウルとザルを洗う。
「そもそもどうしてこんなことに……」
「彗が実家に帰らないなら、うちに来ればいいと思った。それなら、彗の『彼氏』も来ればいいと思った。それだけだよ」
クリティカの包丁さばきに見惚れながら、彗は「うん」と言って、洗い終えたザルを拭く。出汁のいい香りが漂い始めた。まさか、創とクリティカと、三人で年越しそばを食べることになるなんて。
クリティカは料理が上手い。このそばつゆだって、鰹節と煮干し、昆布から出汁を取っているという。「出来合いの出汁を使わないの?」と驚いた彗に、クリティカは「実験よりも簡単だから」とさらりと言ってのける。同じく日々実験をしている彗は、料理が苦手なのだが。
「うわーいい匂い!」
いつの間にか、創が彗の後ろに立っていた。近い。彗は、耳が赤くなっていなければいいと思った。クリティカのこだわりが詰まったそばつゆをどんぶりに注ぎ、クリティカ一推しの十割そばをつゆの中に泳がせる。しょうゆベースの澄んだ褐色の液面が揺れた。
「創。言っとくけど、うちでおせちは出ない。正月はカレーしか食べないから、覚悟しとけ」
「カレーって、ネパールのカレー?」
「日本式のカレーだよっ!」
クリティカが、どんぶりを創の前に突き出す。創は、子供のように笑って、両手でどんぶりを押しいただいた。創がこたつに向かって歩き出す。テレビの中では、色鮮やかな担当カラーの衣装を纏った女の子たちが、笑顔で息を切らし、歌い踊っている。
午後十時を過ぎた。彗が好きな歌手のバラードをBGMに、各々がそばをすする。
「出汁が美味しい……。沁みるね」
「彗。出来合いの出汁なんか買っちゃ駄目だよ。彗ならわかるでしょう? 色々な添加物が——」
「本当に美味い。星南にも食べさせたいよ。そうだクリティカ! 今度星南の病室にそばの出前してくれない?」
「でまえ? ああ、デリバリーのこと?」
「クリティカにもわからない日本語ってあるんだ!」
三人で大きな声で笑った。実家に帰っていれば、きっと今頃、昔からちっとも変わらない沈鬱な空気の中にいたのだろう。帰らなくてよかった。腕を伸ばし、指の先までを自由で満たす。
午後十一時になった。「そろそろあれを飲むか」と呟いて、クリティカがコンロに片手鍋を乗せた。冷蔵庫からタッパーを取り出し、鍋に移す。水を足して煮込むと、ふつふつと音がして、甘い香りが流れてきた。
「甘酒。ふたりとも、飲める?」
彗と創が、首を縦に振る。
「甘酒大好き」
「僕も!」
かぐわしい香りを吸い込んで、彗は恍惚とした。
「私が研究した手法で、コウジカビを培養しておいた」
「手作りの甘酒ってこと?」
彗は面食らった。手間を惜しまない姿勢に感動する。
「彗。心配しないで。飲む前には加熱しているし、研究室の細胞にコウジカビが混ざらないように、細心の注意を払って培養しているから」
「そういう問題?」
「よくわかんないけど、美味しいよ。星南にも飲ませてあげたい」
「創は、星南ちゃんが大好きだね」
淋しくなって、彗はついこぼした。彗は、すぐに無理に笑って、その場を乗り切ろうとした。喉から胃へ、ゆっくりと甘酒が下りていく。体が芯から温まる。少しだけアルコールの香りがする。彗は、温かなマグカップを両手で包んで、しばし考えた。マグカップに描かれた、クリティカが好きな梟のキャラクターが、首を傾げながら彗を見つめている。
「二人はさ。子供って欲しいと思う?」
テレビを見ていた創とクリティカが、同時に停止した。
「どういうこと?」
クリティカが彗を振り返る。長い睫毛に縁どられた鏡のような瞳が、彗の言葉を待っている。
「ぼくは、欲しいと思う」
彗は呟いて、テレビを見た。画面の向こうで、彗が贔屓にしているグループの女の子が、感極まっている。泣いていても音程が全くぶれない。プロってこういうことなんだ。テレビから目を離すと、創とクリティカの視線が彗に注がれていた。
「恋愛して、結婚して、子供が出来て。ベビーカーを押して散歩したり、可愛い服を探したり、運動会とか習い事の発表会を見に行ったり。子供の両手をパパとママが握って、三人で歩いたり」
人差し指の爪が伸びている。そろそろ切ろうと思っていた。目は乾いていたはずだった。鼻の奥がかすかに痛む。
「ぼくに、子供を産む未来はこない。ぼくは、いのちをつなげないから」
甘酒を一口飲む。好きなひとが、目の前で彗の独白を聞いている。創の心の玉座には、星南がいる。しかし彗とは違う理由で、創と星南との子供は生まれない。生まれてはいけない。創の瞳が、一瞬光ったように見えた。
「二人には、もう話しているよね。ぼくがアンドロゲン不応症だってこと」
創とクリティカが、そっと頷く。
「診断を受ける前は、母親と仲が良かったんだよ。姉妹みたいに。それが、あの日を境に関係が壊れてしまった。SRYがあるだけではアンドロゲン不応症にはならない。X染色体上に、母親から受け継いだ変異型の遺伝子がなければ、ぼくは男になっていた。なれていた、っていうのが正直なところ。ぼくは子供を作れる体に生まれてきたかった」
甘酒に含まれている微量のアルコールのせいだろうか。次々と言葉が溢れて止まらない。
「創。クリティカ。ありがとう。ぼく、二人に秘密を打ち明けてよかった。やっと気づいたんだ。ぼくはかわいそうなんかじゃない。もう、『普通』に擬態しなくてもいいんだ。ぼくを、ぼくのまま受け止めてくれるひとと、関係を築けばいいんだ」
創の目尻の皺が、優しくほぐれていく。クリティカが、珍しく目頭を押さえた。
「クリティカ。創。ふたりに出会えてよかった。本当に、ありがとう」
言い終わらないうちに創とクリティカがこたつから抜け出した。創が彗の頭をがしがしと撫でる。クリティカが腕を伸ばし、彗を横から抱きしめた。
「彗。辛かったね」
クリティカの泣き顔なんて、初めて見た。
「これからだよ彗。彗は、幸せになるんだ」
創が、彗のすぐそばで笑っている。「じゃあ今すぐぼくを幸せにしてよ」なんて言えるはずもなくて、彗の胸が切なく疼く。
歌番組が終わり、日本各地の除夜の鐘が鳴る。クリティカの部屋は、あたたかい。彗は、ありのままの彗で、新年を迎えた。まっさらな元日の創の観察記録は、すらすらと淀みなく書くことが出来るだろう。
星南は、今頃どうしているだろうか。たった一人の病室で、うまく眠れているのだろうか。
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