ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈20.クリスマス・イブの夜〉
二十、クリスマス・イブの夜
クリスマス・イブの温室は、普段よりひっそりとしている。バニラ味のアイスの、最後の一口を掬う。クリームが胃の中にゆっくりと沈んでいく。創と二人きりの時間が終わっていくことが、名残惜しい。
「創。星南ちゃんにクリスマスプレゼントあげるの?」
創は頷いて、温室のベンチに置いた紙袋を掲げて見せた。
「星南がずっと欲しいって言ってたやつ。彗には内緒」
「ええ?」
彗は、意図的にふくれてみせた。すぐに恥ずかしくなる。十七歳の星南であればきっと、もっと可愛く見えただろう。
「ぼくも、プレゼントがある」
「なに?」
「内緒だよ。もちろん」
笑った創の目尻に皺が寄る。皮膚の歪みの一つ一つまでもが、たまらなく愛おしい。
「行こうか」
創の隣を歩く。嘘でも「彼女」なのだからと、虚勢を張る。一階のロビーに、大きなクリスマスツリーをみつけた。金や銀の星と、雪を模した綿や赤い靴下が、明滅する電飾の光に照らされている。
「明日は、ピアノコンサートもあるんだよ」
創が指さす先に、黒くつややかなグランドピアノを見つけた。
「ぼくも楽器が弾けたらな」
よく磨かれた黒い塊を見て、創に聞こえないように小さい声を出す。
エレベーターを五階で降り、突き当たりから二つ目の個室を目指す。ナースステーションに、菅原看護師を見つけた。
「この前の外出、大変お世話になりました!」
創と彗が礼をすると、菅原が大きく手を振って応えた。星南の部屋の前で、創と頷き合う。嘘の恋人でいることを確認したのだ。創がドアをノックすると、星南の声が聞こえた。声を聞く限り、元気そうだ。
「メリークリスマス!」
創と声を合わせて、病室に入る。驚いた顔をした星南は、一瞬ののち、弾けるような笑顔を見せた。
「お兄ちゃん! 彗さんも!」
水色の病院着に、ピンク色のキャップ姿の星南が、手を叩いた。彗は創と二人、ベッドサイドの椅子に座る。
「星南。体調はどう?」
「今日はとっても元気。問題ないよ」
「そうか」と言って創は、膝の上で組んだ両手を解いた。
「お兄ちゃんと彗さん、お揃いのコーデ?」
星南が目を見開いて声を上げた。はっとして彗は横に立つ創を見た。白いフード付きパーカーに、黒いズボン。確かに、服装がシンクロしている。笑っていた星南から、刹那、表情が消えた。一瞬の後に、星南は、いつもの星南に戻っていた。
午後四時半。窓の外は、もう暗い。
「今日の晩ご飯はね、クリスマスディナーなんだ。チキンも出るみたい。楽しみ」
「元気」と言っているが、星南の顔には疲労がにじんでいる。かなり痩せたか。長居をすれば、負担になるだろう。けれど、今の星南にとって、創と、それからもしかしたら彗と共に過ごす時間はきっと、値段がつけられない宝物であるはずだ。
「星南ちゃん。ぼくからクリスマスプレゼント」
彗は、トートバッグの中から、金色のリボンつきの、赤い袋に入った教科書を取り出した。星南の前のテーブルに置く。
「嬉しい! なんだろう? 重たそうだな」
星南が、ゆっくりとした動作で包みを開ける。指先が震えている。手先の作業が、困難になっているのか。
「わあ! 教科書? えーと、ザ・セル・システム?」
「そう。生物学を学ぶ学生の必読書。わかりやすい付箋と書き込みつきだよ」
「すごーい! 嬉しい!」
「新品のほうがよかった?」
「ううん。私、こっちがいい。彗さんと一緒に勉強している気持ちになれるもん」
星南が、そろりそろりとページを捲る。
「英語?」
「そうだよ。星南ちゃん、英語は好き?」
「得意じゃないかもだけど、好き」
「じゃあ、大丈夫。辞書片手に読めるレベルの英語だから」
「私、頑張る。この本、読んでみる」
星南は、目をきらきらさせて、教科書の赤い表紙をなぞった。とても嬉しそうに。彗は安堵した。気に入ってもらえたようだ。
「僕からはこれ」
創が、小さな紙袋を掲げた。
「お兄ちゃんからも? 何だろう?」
創が取り出したのは、手のひらほどの大きさの、赤いリボンがかけられた箱だ。星南が、震える手でリボンを解く。白い包み紙を剥がし、中から現れたクリーム色のベルベットの箱を開ける。
「ネックレス……! ずっとほしかったの!」
星南が取り出したのは、華奢な金色のネックレスだった。おうし座のチャームがついている。星南の瞳が、濡れて光った。
「つけてあげる」
両手を広げて星南からネックレスを受けとった彗は、腕を回し、星南の首の後ろでネックレスの金具を留めた。
「うん。似合ってる」
創が星南に微笑む。星南は、おうし座のチャームをつまんで、何度も角度を変え、大切そうに眺めた。
「私、このネックレスを着けて、またお兄ちゃんの舞台を観に行きたい」
自らに言い聞かせるように、星南は目を閉じた。睫毛が抜けた瞼は、触れば傷つきそうなくらいに薄く、清らかで、透明だった。目を開けた星南は、何かを企んでいるように笑って、次の瞬間、ナースコールを連打した。
「ちょっと、星南ちゃん!」
星南は、「へへ」と笑い、連打する手を止めない。クリスマス・イブの病棟に、星南が押したコール音が響く。
「星南ちゃーん! どうした?」
菅原が血相を変えて病室に駆け込んできた。両手でピースサインを作る星南を見て、菅原は安堵した表情となり、すぐに腰に手を当てた。
「ナースコールの連打はおやめください、お姫様!」
「来てくれたのが菅原さんでよかったー! 山口師長さんだったら普通にぶん殴られてそう」
「看護師が患者さんをぶん殴るわけないよ」
菅原が呆れたように笑う。
「それくらい怒られそうってこと! ね、みてみて菅原さん! 彗さんとお兄ちゃんから、クリスマスプレゼントもらっちゃったー!」
菅原は、テーブルの上の教科書と、星南の首で輝くネックレスを順に見て、相好を崩した。
「よかったじゃん、星南ちゃん」
「うん! 大切にする!」
病室を後にして、創と二人で病院の廊下を歩く。創は、思いつめたような表情をして、足元を凝視している。
「創」
彗の目に映る創は、役者の顔をしていない。彗が呼んでも、創は答えない。ひとりで内なる深海に潜っているようだった。今の創は素顔の創だろうか。だとしたら、不謹慎極まりないけれど、とても嬉しい。
「創。ねえ」
彗は、創の黒いダウンジャケットの袖を掴んだ。創が、がらんどうの瞳をして顔を上げた。創の目は、果たして彗を捉えているのか。この世界ではないどこか遠くへ連れていかれそうな目だ。彗の背筋がぞわりと寒くなる。
「ああ。彗」
創の唇が、乾いて荒れている。彗は、創のダウンジャケットの裾を握りしめた。
「創。この後、時間ある?」
「あるよ。今日はダンスのレッスンが休みなんだ」
「じゃあ、一緒に行きたいところがある」
雪が降る中、創の袖を引いて歩く。凍った道を意識せずに歩いたので、彗は足を滑らせた。創が彗の腕を掴んだおかげで、転倒せずに済んだ。
「ありがとう」
創は、首を横に振った。雪明かりの中で創を見る。白い息を吐きながら、真っすぐに見つめられて、彗は戸惑った。彗と創は、恋人同士に見えるだろうか。袖を掴むだけではなく、創と、この手を繋いで歩けたなら。
「どこに行くの?」
「あたたかくて、明るい所」
大学病院を出て、北へ進む。この街は碁盤の目を模して開拓されているから、道に迷う心配はない。細い路地を進む。まだ新しい雪の上に、二人の足跡が続いていく。
夜の闇の中で叫びたくなる。幸せだ。今にも死んでしまいそうなくらい。
「着いたよ」
彗は、そっと創の袖を離した。レンガ造りの古い小さな教会の前に、二人で立つ。ステンドグラスから光が漏れ、降り積もった雪が黄色と青色に染まっていた。
「彗、クリスチャンだっけ?」
「違うよ。無宗教」
「ええ?」
創がかすかに笑った。彗の体温が上がる。
「秋田で通ってた高校がさ、キリスト教の学校で。その高校に併設されてた教会にそっくりなんだよ、ここ」
「ああ。そういうこと」
「ね。創。初めて来た教会でね、願い事をすると、三つまで叶えてくれるんだって」
創の瞳が開く。創の網膜がステンドグラス越しの光を取り入れようとする。よかった。創をこの世に繋ぎ止められた。世界は、今の創が思っているよりも美しいはずだ。彗は創の背を押して、教会の扉を開けた。
温かな室内に入り、冷たく収縮していた頬の皮膚が緩む。知らないうちに睫毛までもが凍っていた。創と二人、コートを着たまま、一番後ろの椅子にそっと腰掛ける。古く、磨き込まれた暗褐色の木の椅子が、ぎいっと鳴った。創を見た。創は、魅入られたように、祭壇と、その奥の大きな十字架の上のキリスト像を眺めていた。
キリストの降誕を祝う歌が、聖堂に響く。創の歌に比べれば音程はめちゃくちゃだ。それでも、彗はずっとこの祈りの歌を聴いていたいと思う。創が彗の腕を掴んだ。
「彗。さっきの願い事って、何でもいいの?」
「うん。何でもいい」
「わかった」
創は囁いて、目を閉じた。金色の髪の上で、最後の雪の結晶が輝いている。創が目を閉じている隙に、彗は創の横顔をまじまじと見た。目の下にある隈を。かさついた唇を。時折上下する喉仏を。創の精神は削られている。創はきっと、星南の回復を、奇跡を祈っている。罪深いことをしたと、彗は俯いた。
彗も目を閉じる。歌声が聖堂の天井に反響して、様々な音が、ゆらゆらと時間差で鼓膜を揺らす。去年も彗は、この教会に来た。ひとりで。はじめての教会で、彗は三つ願い事をした。
『母さんがぼくを肯定してくれますように』
『学振に受かりますように』
『一生をかけて愛する人と出会えますように』
二つ目までの願い事は叶わなかった。けれど、三つ目は。
目を開けて、左側を見る。創は、まだ目を開けない。乾燥した唇を合わせ、何かをしきりに呟いている。おそらく、創の願いは叶わない。
聖なる空間で呼吸をしながら、彗は、黒く深い淵の前にいた。こんなことを思ってはいけない。こんなはずじゃなかった。創と二人で、星南のために祈ろうと思っただけだった。それでも彗は、抗うこともできずに、自ら淵の中へと足を踏み出す。
——星南がこの世からいなくなれば、ぼくは創を独り占めできるだろうか?
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