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夕日はまだ沈んでいない


※この作品はLaLaLaさん主催の「【お題】若い女性・サーフィン・彗星このシチュエーションどんな物語に・・・」を元に、私の独自解釈で物語にしたものです(独自解釈した理由は、文末にて)。

また、記事としてUPした「Step4 あなたの中にある物語を、最初の一行へ」の中で紹介している「私ならできる!知らんけど 小説の相棒・起動用プロンプト」を利用して創作しています。




凪の海に浮かぶ




 最初の一つを見たとき、久世凪は流れ星だと思った。湘南の沖で波待ちをしながら、父が残したクラシックなシングルフィン・ロングボードの上に腹這いになり、何となく空を見上げていた。

 十九歳になった今では、それを父の形見だと意識することも少ない。黄ばんだデッキには無数の擦り傷が走り、ノーズの近くに刻まれた太陽の紋章も、父の記憶というより、もう自分の手足と同じくらい見慣れたものだった。

 右のレールには、一度大きく割って修理した跡がある。凪は波を待つあいだ、そこを親指の腹で撫でる癖があり、その日も理由もなくざらついた樹脂の上へ指を滑らせていた。

 黒の長袖ウェットスーツは海水を吸い、脇から脚へ伸びるボタニカル柄のサイドラインが夕暮れの光を鈍く返していた。風は落ち、波は小さく、沖には珍しいほど静かな時間が広がっている。

 岸の向こうには湘南の町が細長く続き、そのさらに奥、暮れかけた空に富士山の輪郭が黒く浮かんでいた。少し離れて江の島も影のように海へ横たわり、灯り始めた町明かりが水面の上で細かく震えている。

 夕日は水平線の近くまで落ちていた。朱色から橙、紫へと刻々と変わるマジックアワーの反対側には満月が昇り、その蒼白い光が、沈みゆく太陽の色と頭上でゆっくり混ざり合っていた。

 凪はこの時間が好きだった。昼でも夜でもない中途半端な時間には、町も海も自分が何者なのか決めかねているように見えて、それが妙に落ち着いた。

 最初の光は、その二つの色の境目を真横に走った。白い傷が空に一本つき、すぐに消えたので、凪は願い事を考える暇さえなかった。

 次の光は太かった。巨大な火球が燃える尾を引きながら富士山の上空を切り裂き、一瞬だけ雲の腹を白く照らして、江の島の向こうへ落ちていった。

 凪は思わず「なに、あれ」と呟いた。ところが自分の声だけが妙に近く聞こえ、世界のほかの音は一枚薄い膜の向こうへ退いてしまったようだった。

 三つ、四つ、十、二十。やがて数えることそのものが馬鹿らしくなるほど、無数の流星が空を走り始めた。

 それは流星群というには密度が高すぎた。蒼い満月を掠めるもの、朱色の西空へ突き刺さるもの、途中で砕けて幾筋もの光へ分かれるものが、音もなく空を焼いていた。

 凪は恐怖より先に、美しいと思った。その瞬間、喉の奥がひくついて、笑いが込み上げてきた。

 嬉しいわけでも、楽しいわけでもなかった。なのに胸の奥から熱いものがせり上がり、身体のどこかが、もっと見ろ、目を逸らすなと命令している。

 凪は口元を押さえ、逃げるように視線を海へ落とした。そこで、笑いが止まった。

 黒ずみ始めた水面に、細い光が一本走った。その一秒ほどあと、まったく同じ軌道を白い流星が頭上でなぞった。

 見間違いだと思った。だが次の光も、その次の光も、先に海へ現れた。

 三本の白い筋が水面を駆け、わずかに遅れて夜になりかけた空に同じ形の流星が走った。反射ではない、と口にすると、その言葉だけが馬鹿げて聞こえた。

 海が空を映しているのでないなら、空が海のあとを追っていることになる。そんなことを考えた途端、背筋に冷たいものが走ったのに、凪の胸にはそれ以上の興奮が膨らんでいた。

 次はどこに出るのだろう。海面を凝視すると、まだ空には存在していない光が次々と生まれた。

 五秒先なのか、一秒先なのか、それとも時間とは何の関係もないのか。分からないまま、凪には海だけが、これから起きることを知っているように思えた。

 岸から名前を呼ばれた気がした。振り返ると砂浜に何人かが立ち、誰もが空を見上げていたが、誰の声だったのかは分からなかった。

 凪はようやくボードを岸へ向けた。パドルを始めても、背中にはまだ現れていない光が次々と走っていく気配がまとわりついていた。

 浜へ上がるころには、町の様子が少し変わっていた。大騒ぎになっていると思ったのに、悲鳴も警報もなく、人々はただ立ち止まって空を見ていた。

 交差点では青信号になっても誰も渡らず、コンビニの自動ドアの前には買い物袋を提げた女が立ち尽くしている。国道では何台もの車が路肩に寄せられ、運転手たちは窓を開けて同じ方角を見上げていた。

 凪はボードを抱え、裸足で歩いた。ウェットスーツの裾から落ちる海水が、乾いた歩道に黒い点を残していく。

 スマートフォンを取り出すと、画面は通知で埋まっていた。大規模な流星群、接近する彗星、未知の天体現象、通信障害――似たような映像の下で、専門家らしい人間たちが互いに違う説明をしていた。

 巨大彗星の尾を地球が通過している可能性がある、と誰かが言っていた。微粒子が大気圏へ流れ込み、通常とは比較にならない数の流星を生じさせているらしい。

 凪は途中で画面を消した。説明が正しかろうが間違っていようが、海が空より先に光ったことには何の答えにもなっていなかった。

 「懐かしいね」と、近くで誰かが言った。見ると、見知らぬ老人が江の島の方角を見つめていた。

 聞き間違いかと思ったが、少し離れた場所でも若い男が同じ言葉を呟いた。その横では制服姿の少女が泣きながら笑い、知ってる気がする、と繰り返している。

 何を、と尋ねる者はいなかった。誰もが何かを思い出しているような顔をしていた。

 凪も、もう一度空を見た。満月の蒼い光と夕日の朱色が混じり合う空を見た瞬間、知らない景色が頭の奥へ流れ込んできた。

 古い海岸だった。護岸は崩れ、国道も建物もなく、砂浜だけが遠くまで続いている。

 そこを一人の女が歩いていた。日に焼けた腕に、太陽の紋章が刻まれたロングボードを抱えている。

 女が振り向いた。凪だった。

 けれど今の自分ではない。目尻には細い皺があり、潮風に乱れる髪には白いものが混じっていた。

 映像はそこで途切れた。凪は息を吸おうとして、自分がしばらく呼吸を止めていたことに気づいた。

 怖かった。それなのに、もう一度見たいと思った。

 心臓が速く打っていた。逃げなければならないという感覚のすぐ隣で、もっと深く、もっと長く、この見知らぬ記憶へ沈んでみたいという欲求が膨らんでいる。

 凪は歯を食いしばった。それでも口元は勝手に緩み、小さな笑いが漏れた。

 流星を見るたび、知らない何かが懐かしくなった。行ったことのない土地の匂いや、聞いたことのない声まで、いつか失くしたもののように胸を締めつけてくる。

 父のことを思い出したのは、そのときだった。

 顔ではなかった。声でもなかった。

 ボードにワックスを塗るときの、甘く埃っぽい匂いが一瞬だけ鼻の奥に蘇った。その記憶さえ本当にあったものなのか、凪には急に分からなくなった。

 五年前の記憶なのか、今この空から入り込んできたものなのか。考えようとするほど、境目が水に溶けた絵の具のように曖昧になっていった。

 砂浜へ戻る人の流れができていた。誰も相談していないのに、町中の人間が少しずつ海へ向かっている。

 凪も押されるように浜へ戻った。空はますます暗くなっていたが、流星の数は減らず、ときおり巨大な火球が夜を白く塗りつぶした。

 浜辺では大勢の人間が海を見ていた。肩を寄せ合うでもなく、叫ぶでもなく、それぞれが少しずつ離れて立っている。

 異様なのは、その静けさだった。子供まで泣かず、犬も吠えず、波音だけが昔から決められていた動作のように、寄せては引いていた。

 一人の男が靴を履いたまま海へ入った。膝まで浸かり、腰まで浸かり、それでも誰も止めなかった。

 男は笑っていた。

 凪の中にも、同じ感覚が生まれた。

 海の向こうへ行けばいい。

 それだけの言葉が、誰の声でもない声で頭の底を撫でていた。

 向こうには何かがある。いや、何かが待っている。

 帰らなければ。

 どこへ帰るのか分からないのに、その感覚だけが甘く身体へ染み込んできた。

 凪は一歩、海へ近づいた。

 そのとき、抱えていたロングボードのレールが掌に引っかかった。

 補修跡の小さなささくれが指先を切り、赤い血が一滴だけ浮かんだ。凪は思わず眉を寄せ、その傷口を見つめた。

 ざらついた樹脂の感触が掌にある。いつもの場所に、いつもの傷がある。

 空の色も、海の光も、頭の中の記憶さえ形を変えていくのに、指先だけは迷わずそこへ触れた。凪は何も考えず、もう一度その傷を親指でなぞった。

 幼いころにも触れた気がした。昨日も触れた気がした。

 どちらが本当にあった記憶なのかは、もう確かめようがなかった。それでも樹脂の硬さだけは、今この瞬間、掌の下にあった。

 空で、ひときわ大きな火球が砕けた。浜辺の人間たちが一斉に息を呑み、少し遅れて、どこかで小さな笑い声がした。

 笑いは波紋のように広がった。互いに顔を見合わせることもなく、全員が海を見つめたまま、静かに笑い始めた。

 凪の喉からも笑いが漏れた。頬に何かが伝い、それが海水ではなく涙だと気づいても、笑いは止まらなかった。

 そのとき、海の色が変わった。

 水平線近くの夕日はもうほとんど沈みかけている。それなのに水の底から橙色の光が湧き上がり、深い海の中にもう一つの太陽があるように見えた。

 反射ではなかった。

 海面よりもっと下、手の届かない深さで、巨大な夕日が静かに燃えていた。

 それを見た途端、凪の胸を猛烈な郷愁が貫いた。知っている、と身体のどこかが叫んだ。

 ここを知っている。

 あの光の向こうへ行ったことがある。

 そんな記憶はない。それなのに、足は一歩前へ出ようとした。

 「帰りたい」という言葉が、凪の唇からこぼれた。

 聞いた瞬間、それが本当に自分の言葉だったのか分からなくなった。

 浜辺の人々も同じように海を見ていた。何人かはすでに水へ入り、誰も止めず、誰も呼び戻そうとしなかった。

 そこで初めて、凪は心の底から怖いと思った。

 海が怖いのではなかった。彗星でもなかった。

 こんなにも美しいものの中へ、喜んで自分を明け渡せそうなことが怖かった。

 凪は腕の中のボードへ目を落とした。太陽の紋章が、海底から湧く橙色の光を受け、黒い染みのように浮かび上がっている。

 父ならどうするのだろう、という考えが一瞬だけ浮かんだ。

 すぐに消えた。

 答える声はなかった。

 凪も待たなかった。

 掌の下に残っているのは、古びたレールの硬さと、補修跡のわずかな隆起だけだった。そこには何の意味も書かれていない。

 凪はボードを砂の上へ置いた。

 逃げればいいのかもしれない。町へ戻り、山へ向かい、空の見えない場所へ隠れることだってできる。

 けれど背後の町を振り返ったとき、その場所もすでに、自分の知っている町ではないように見えた。窓の灯りも道路も人影も残っているのに、薄い膜を一枚隔てた向こう側へ移ってしまったようだった。

 凪はもう一度、海を見た。

 橙色の光。

 蒼い満月。

 その間を切り裂き続ける無数の流星。

 あまりにも美しくて、笑いたくなった。

 あまりにも美しくて、吐きそうだった。

 凪はボードを海へ押し出した。

 冷たい水が足首を包み、一歩進むたびにウェットスーツの中へ入り込んで皮膚を締めつけた。

 怖い。

 帰りたい。

 見たい。

 逃げたい。

 どの感情も消えず、どれが自分のものなのかも分からないまま、胸の中で同じ色に混ざっていた。

 腰まで海へ入ったところで、凪はボードを浮かべた。ノーズに刻まれた太陽の紋章が水面の揺れに歪み、一瞬だけ知らない文字のように見えた。

 凪は腹這いになった。

 最初の一掻きで肩が軋んだ。

 二掻き目で冷たい飛沫が頬を叩いた。

 三掻き目には背後の浜がほんの少し遠ざかっていた。

 身体は重かった。指先の傷に海水が沁み、乱れた息が喉の奥で熱くなった。

 ひどく不快なのに、その一つ一つが鮮明だった。

 凪はもう一度、腕を水へ入れた。

 手のひらで水を掴み、身体の下へ押し流す。

 ボードが少しだけ前へ進む。

 それだけのことだった。

 空には満月が浮かび、その蒼白い光の中を無数の流星が走っていた。背後には富士山と江の島の影が残り、その輪郭も少しずつ夜へ溶け始めていた。

 海面には、これから空に現れる光が先に走っている。

 凪はもう、それを追わなかった。

 視界の端で光が生まれても、腕だけを動かした。

 一掻きするあいだだけ、知らない記憶が遠のいた。

 次の一掻きでは、父の匂いも消えた。

 さらに次には、海の底から呼ぶ何かの気配さえ、波の音へ紛れた。

 けれど腕を止めれば、すべてがまた戻ってきた。

 凪は漕いだ。

 何かを振り払うためなのか、何かへ近づくためなのか、自分でも分からなかった。

 腹の下では、古いロングボードが小さく軋んでいる。右手が水から上がるたび、掌の傷が月明かりに濡れ、また海へ沈んだ。

 不意に父の横顔が浮かんだ気がした。

 凪は目を閉じなかった。

 確かめようともしなかった。

 幻なら消えるだろうし、記憶なら残るのかもしれない。そのどちらでもなくても、ボードは凪の重みを受けたまま海に浮いていた。

 次の一掻きで、父の顔は消えた。

 そこにはただ、腕を伸ばした自分の影があった。

 海の底の夕日はますます大きくなっている。

 朱色の光が水の奥から湧き上がり、満月の蒼と混ざって、凪の濡れた腕を見たことのない色に染めていた。

 世界が終わるのかもしれない。

 始まるのかもしれない。

 あるいは何も起きておらず、自分だけがどこかへ滑り落ちているのかもしれない。

 凪にはもう分からなかった。

 その分からなさの中で、右腕だけが水を掴んだ。

 左腕が続いた。

 また右。

 呼吸が乱れ、肩が痛んだ。

 その痛みの奥で、胸のどこかに小さな場所が残っていた。

 言葉になる前の場所だった。

 父のことも、彗星のことも、帰る場所のことも、そこでは何一つ説明されていない。

 ただ、波に持ち上げられれば身体が浮き、腕を止めればボードはそこで揺れた。

 漕げば、ほんのわずか前へ出た。

 その繰り返しだけが、暗くなっていく海の中で細い輪郭を持っていた。

 凪は笑った。

 今度の笑いが自分のものなのか、空から落ちてきた狂気なのかは分からなかった。それでも、その笑いを止めようとは思わなかった。

 水平線の向こうに、まだ沈みきらない朱色の光が一本の道を作っている。

 そこへ海底の夕日が重なり、空から落ちる火球の白が重なって、どこまでが現実なのか分からないほど明るく揺れていた。

 凪はその光を見た。

 掌の傷が、じくりと痛んだ。

 腹の下では、古いボードのレールがいつもの位置にあった。

 凪は右腕を海へ差し入れた。

 水を掴む。

 引く。

 次は左。

 そしてまた右。

 背後の浜では、まだ人々が笑っていた。

 頭上では空が裂け続けていた。

 そのどちらも、もう振り返らなかった。

 夕日の朱へ、満月の蒼へ、その境目で燃える名も知らない光の中へ。

 久世凪は、次の一掻きをした。




お題の元画像

独自解釈について

 この短編には、もともと一枚の画像をもとにしたプロットがありました。しかし物語として風景を追っていくうちに、画像に描かれた景色と、私自身が知っている湘南のロケーションとのあいだに、少し不思議な違和感があることに気づきました。

 そこで試しに、画像の情景を言葉へ置き換えた英文プロンプトからあらためて画像を生成(扉絵に採用)してみると、元のお題とは異なる向きの風景が現れました。画像生成にはさまざまな揺らぎがあるため、それ自体に正解や間違いがあるとは考えていません。

 ただ、その「どこか知っている場所なのに、何かが違う」という感覚が、この物語にはとてもよく似合うように思えました。もし、この景色そのものがわずかに異なる世界を映しているのなら――そんな発想から、彗星によって現実と記憶の境界が揺らぎ始める物語へと解釈を広げています。

 また、画像の構図をそのまま文章に置き換えると、「画面の右側」「画像の奥」といった、小説の世界から少し離れた表現が入り込みやすくなります。そのため完成稿では、画像を見る私たちの視点ではなく、主人公・久世凪の目に何が映り、彼女がそれをどう感じたのかを基準に風景を組み直しました。

 元の画像に感じた小さな違和感は、修正すべきものではなく、この短編にとってもう一つの入口だったのかもしれません。見慣れた湘南でありながら、どこかが違う。そのわずかなずれを、この物語では「世界が変わり始める予兆」として受け取っています。



LaLaLaさん、お題をいただきありがとうございました。
自分のプロットでない物語をどの様に料理するかの勉強にもなり、ある意味配布予定の「私ならできる!知らんけど。小説の相棒GPT配布用プロンプト」の実験にもなりました(笑)
ありがとうございました!



この小説は、記事としてUPした「Step4 あなたの中にある物語を、最初の一行へ」の中で紹介している「私ならできる!知らんけど 小説の相棒・起動用プロンプト」を利用して創作しています。

LaLaLaさん主催の「ペイ・フォワードプロジェクト」緩やかで穏やかな我が広がっています。是非、覗いてみてください。










            

           

           

          


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