幽霊が怖いと思っていたとき
小さい頃、私は幽霊が怖かった。
夜になると、暗い部屋の隅から何かが覗いている気がして、母の布団を並べて寝ていた。自分の布団を一枚分ずらして、その距離の近さに安心して目を閉じた。小学三、四年生の頃までの話だと思う。
どうやら、これは私に限ったことではないらしい。
ある力士が「幽霊が怖くて中学二年生まで母親と寝ていた」と相撲中継で話しているのを聞いたとき、思わず笑ってしまった。大人になっても、あの頃の自分のように、何かに怯えて眠れなかった夜を覚えている人がいるのだと思うと、少しだけ救われた気がした。
けれど、ある時を境に、私は幽霊を怖いとは思わなくなった。
死んだ人間よりも、生きている人間の方が怖い。そう思うようになったのは、いつからだろう。たぶん、小学校の歴史の授業で「人類の歴史は戦いの歴史です」と教科書に書かれているのを見たときだ。ページの中の兵士たちは、同じ人間を殺し、焼き、奪い合っていた。血の色も、悲鳴も、誰かの涙も、幽霊よりずっと現実的で、そして恐ろしかった。
中学に上がると、さらにその思いは強くなった。
テレビでは毎日のように、事件や事故のニュースが流れていた。見ず知らずの人が、ちょっとしたきっかけで他人を傷つける。あの時からだろう。幽霊の白い影ではなく、街ですれ違う人間の背中を、怖いと思うようになったのは。
学校でも、人の視線が怖かった。
教室の隅で、誰かの笑い声が聞こえると、自分のことを言われているように感じた。理由もなく、透明になってしまいたかった。居場所を失ったあの時、私は初めて本を手に取った。
ページを開くと、知らない誰かの心の中に入っていけた。
登場人物たちは、私よりももっと深く傷つき、迷い、悩んでいた。それでも彼らは生きていた。その姿に救われた。幽霊のいない世界で、私は人間の弱さとやさしさを少しずつ学んでいった。
あの頃怖かった“人”の中にも、同じように誰かを恐れ、怯えながら生きている人がいるのかもしれない。そう思えるようになったとき、私はようやく少しだけ、大人になった気がした。
