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合格するために──試験が目的になった瞬間、思考は止まる

皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。

僕の周りには、いわゆる「能力の高い人」がいる。
難関と呼ばれる試験に次々と合格し、資格を集めること自体が目的になっているように見える人だ。努力を否定する気はまったくないし、その人なりのモチベーションなのだろう。ただ、傍から見ていると、どうしても一つの疑問が浮かぶ。

——それは、何のためにその試験に合格するのか、という問いだ。

日本の教育、とりわけ難関大学や資格試験の世界では、「合格すること」それ自体が強力な成功体験になる。問題を速く、正確に解く。出題の癖を読み、最短距離で正解に辿り着く。その能力は確かに優秀だ。しかし、それは思考の深さとは必ずしも一致しない。

高校数学の参考書を思い出す。
定義が突然与えられ、「これはそういうものだ」として先へ進む。なぜこの定義なのか、他の定義ではだめなのか、そんな問いは試験に出ない。問い続ける姿勢は、むしろ非効率として切り捨てられる。結果として、「なぜ?」と立ち止まる学生ほど不利になる構造が出来上がる。

難関大学に行けば行くほど、その傾向は強まる。
合格する人間は、試験に最適化された思考を身につけた人たちだ。だから大学に入ってから「定義とは何か」「理論はなぜ必要か」と問われ、そこで初めて躓く。いわゆる“イプシロン・デルタ・ショック”は、個人の能力不足ではなく、受験制度そのものが生んだ歪みだと思っている。

試験が好きな人はいる。合格することが楽しく、次の試験へ向かう。それ自体を否定するつもりはない。ただ、合格が目的化した瞬間、思考はそこで止まる。資格や学歴が積み上がっても、「それを使って何を考えるのか」という問いが空白のまま残る。

アンチ東大主義とは、東大を否定することではない。
「合格=知性」「正解=理解」という幻想に抗う姿勢のことだ。
本当に問われるべきなのは、どれだけ難しい問題を解いたかではなく、どれだけ深く問い続けられるか。その価値を、もう一度取り戻したいと思っている。

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