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学力とは何か──因子分析と「5分考えろ」という指導のあいだで

皆さんこんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。

今日は、「学力とは何か」という、少し大きなテーマについて書いてみたいと思います。


■ 学力は「測れるもの」なのか

テストというものは、すでに一つの学問分野になっています。
教育測定、心理測定と呼ばれる領域です。

その中ではよく、次のように説明されます。

  • 個人の中には「能力」という潜在変数がある

  • それを θ(シータ)と呼ぶ

  • テストという観測手段を通して、そのθを数値化する

さらに因子分析などを行うと、
「このテスト群の背後には、いくつかの因子がある」と分かってくる。

たとえば5教科のテストを分析して、
2つの因子が抽出されたとします。

それを

  • 「文系能力/理系能力」と名付けるか

  • 「言語的処理/数理的処理」と名付けるか

実は、そこには評価者の解釈が入り込みます。

極端に言えば、
ひねくれた私はそこに
「文脈依存的な順応性」
なんてラベルを貼りたくなるわけです。

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』などを読むと、
そもそも

「能力」という潜在変数を、そんなに素直に仮定していいのか?

という疑問すら湧いてきます。


■ 和田秀樹氏の「5分考えろ」という指導

ここで、和田秀樹氏のエピソードを思い出します。

彼が監修する、緑鐡受験指導ゼミナールで、
講師を介してこんな指導をしていたそうです。

解答をすぐに見ないで、
まず5分間、あれこれ試してから答えを見るように

『数学は暗記だ!』57頁

この話を聞いたとき、私は正直こう思いました。

「それ、人に言われなきゃ分からないことなの?」

答えを読んでも理解できなかったら、
もう一度考え直す。
見方を変えてみる。
それって、わりと普通の態度じゃないか、と。

なのに、それを
“指導”としてわざわざ教える必要がある。

ここに、強烈な違和感を覚えたんです。


■ 成績が伸びるとき、何が起きているのか

ただし、現実問題として、
この指導で成績は伸びる。

となると、こう言えてしまう。

潜在変数θが顕在化した
才能が開花した

でも、本当にそうでしょうか。

私にはこう見えます。

  • 能力が引き出されたのではなく

  • 「テストで点を取るための振る舞い」が
    後付けで注入された

つまりここで測られているのは、

思考力そのもの
ではなく
「分からないときに、どう振る舞うか」

という行動様式なんじゃないか。


■ 因子とは「人の中」にあるのか

ここで、最初の因子の話に戻ります。

因子分析で見つかる因子は、
本当に人の中に実体として存在するのでしょうか。

それとも、

  • 試験という制度

  • 採点という枠組み

  • 望ましいとされる学習態度

これらに適応した結果として
後から見えてきた影にすぎないのか。

和田氏の「5分考えろ」という指導は、

  • 学力を育てた
    というより

  • 制度にうまく適応する振る舞いを
    身につけさせた

そう言った方が、しっくり来ます。


■ 学力というフィクション

ここまで考えてくると、
私はこう思わずにはいられません。

私たちが「学力」と呼んでいるものは、
本当に才能なのか?

それとも、

  • 教えられ

  • 訓練され

  • 評価制度に最適化された

行動の束を、
あとから「能力」と呼んでいるだけではないのか。

因子θは、
人の内側にある本質ではなく、
制度が作り出した説明装置なのかもしれません。


■ それでも、テストはなくならない

もちろん、
だからといってテストを全否定する気はありません。

ただ、

  • θがある前提

  • 学力は個人に内在するもの

この前提を、
一度疑ってみる価値はあると思うんです。

和田秀樹氏のエピソードは、
その問いを考える上で、
とても象徴的な事例だと感じました。


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