因子と商 ――「本質だけを残す」ための思考法
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
「因子分析」と「商(商群・商空間)」は、分野としてはまったく別の場所に置かれている。
前者は統計、後者は代数学・幾何学。
けれど、何をしたいのかという動機のレベルでは、驚くほどよく似ている。
それは一言で言えば、
細部を捨てて、本質だけを残したい
という欲望だ。
商とは何をしているのか
群論でいう商 $${G/N}$$ を考えるとき、我々はまずこう決める。
この違いは「重要ではない」
この揺らぎは「構造として見なくてよい」
その「重要ではない違い」をすべて集めたものが正規部分群 $${N}$$ だ。
そして
$${g_1 \sim g_2 \iff g_1 g_2^{-1} \in N}$$
という同値関係を入れる。
ここで起きているのは、
違って見えるものを
あえて同じものとして扱う
という、かなり暴力的な操作だ。
交換子群 $${[G,G]}$$ で割る場合は、さらに露骨で、
「可換でないという違いは、今回は全部なかったことにする」
と言っているに等しい。
その結果得られる $${G/[G,G]}$$ は
“最大の可換化”
つまり「非可換性をすべて捨てた後に残る本質」だ。
因子分析は何をしているのか
一方、因子分析ではこう始まる。
観測値はたくさんある
でも、それぞれが独立とは思えない
どこかで同じ原因に引きずられている気がする
そこで我々は、
相関の似た変数をまとめ
個別のばらつきやノイズを削り
背後にある少数の「軸」を取り出す
このとき行っているのは、
「違いはあるが、本質的には同じ」
という同一視
だ。
つまり因子とは、
観測変数の“集合”ではなく
同一視の結果として立ち上がる構造
なのである。
▶参考までに
因子分析の基本モデル
観測変数ベクトルを $${x}$$、共通因子ベクトルを $${f}$$、独自因子(ノイズ)ベクトルを $${\varepsilon}$$ とすると、次のように記述できる。
$${x = \Lambda f + \varepsilon}$$
ここで、各要素は以下の意味を持つ。
$${x}$$:観測されたデータ(例えば、$${p}$$ 次元のセンサーデータベクトル)。
$${f}$$:共通因子(例えば、$${k}$$ 次元の潜在変数。性別や年齢に相当する「主成分」に近いもの)。通常 $${k < p}$$ となる。
$${\Lambda}$$ (ラムダ):因子負荷量(Factor Loadings)。各共通因子が観測変数にどの程度影響を与えているかを示す行列だ。
$${\varepsilon}$$ (イプシロン):独自因子。その変数特有の変動や測定誤差を表す。
因子 ≒ 商、という直感
ここで両者を並べると、見えてくる。

つまり、
因子とは「統計的に構成された商」
と考えることができる。
ここで重要なのは、
因子が“何かの集合”ではないという点だ。
それは、
「違いを消した結果として残るもの」
なのであって、
最初から実体として存在していたわけではない。
違いがあるとすれば
もちろん、両者は完全に同一ではない。
商は
→ 何を同一視するかを先に決める因子分析は
→ データから後から推測する
商は演繹的、因子は帰納的。
ここに厳密さの差はある。
けれど、
「似ているものは同じとみなす」
「その上で残る構造だけを見る」
という思考の骨格は、完全に共通している。
なぜこの視点が大事か
因子を「隠れた変数」や「実体」と考え始めると、理解は途端に怪しくなる。
それはちょうど、
商群の元を「もとの元そのもの」だと誤解する
のと同じだ。
因子も商も、
実体ではなく、構成物
である。
「なかったことにした違い」の上に、
ようやく立ち上がるものなのだ。
以下もお勧め。四半世紀に及ぶ苦闘の痕跡。
